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自走式空想会社:クルーシブル

二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。

燦然のソウルスピナ 第三話・第七夜:誓いゆえに

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燦然のソウルスピナ 第三話・第七夜:誓いゆえに



         ※


 イリスとの面会はシオンとアシュレ、三名だけのものとなった。

 イリスの病室は、大きく窓の切られた明るい一室で、ダシュカの気づかいだろう個室だった。天井からハーブが吊り下げられ、その清冽な薫りが空気を浄化してくれているようだった。

 入室するなり、アシュレは胸を締めつけられるような苦しさを覚えた。
 会えなくなってから十日ばかり間に、イリスの憔悴ぶりは明らかだった。身体はむくんでいるのに頬がこけ、熱があるのだろう瞳が潤んでいた。


 アシュレが微笑むと、イリスもつらいだろうに笑みを返した。

 その表情にアシュレはユーニスを思い出さずにはいられない。故人を生者に重ねることの欺瞞と残酷さが頭ではわかっていても止められなかった。

 ひざまずき、その手を握る。

 驚くほど熱かった。
 そして、あちこちに内出血の跡がある。凄まじい勢いでイリスの肉体が改変を強いられている証拠だった。

 アシュレが視線を上げれば、そこにイリスの瞳があった。

「わたし、この子を産みたいです」

 そのひとことで充分だった。くだくだしい説明もなにもかも不要だった。ダシュカは事前に説明はしてある、とアシュレに教えてくれた。

「危険かも、だ」
「危険じゃない出産なんて、ないですよ」
「ああ、そうだね」

 互いの《意志》の確認はそれで充分だった。

 ノーマンの施してくれた停滞の異能が効いているのだろう。
 アシュレがこれほど近くにいても、イリスの容体は安定していた。

 ただし、短時間でなければならない、とノーマンは念押しした。
 堰で河の水をせき止めているようなものだと考えてくれ、と説明した。

 長引けば長引くほど、彼女の肉体に後になってふりかかる負担が大きくなる、と。


「望んでもらえますか?」
 イリスの問いかけに、アシュレははっきりと頷いてみせた。

 にこり、とイリスの顔に笑みが広がった。目尻がこぼれそうなほど垂れるのは、修道女だったころのアルマの特徴だった。アシュレは何度もどぎまぎさせられたものだ。

 まさか、彼女と自分がこんな関係になるなど、想像さえできなかった。

 まだ二月も前のことではない。とてつもなく遠くへ来てしまったような感慨にアシュレは襲われた。
 互いの《意志》を無言で確認すると、イリスはシオンの手を取り言った。

「当分の間、アシュレをお願いしますね。えと、いろんな意味で大変だと思いますけど」
「まかせておけ。いろんな……意味……?」

「いままでふたりで分担してたこと、ぜーんぶ、シオンが引き受けるんですよ? 耐えられます?」

 イリスの言う「大変」の意味にシオンはようやく気がついて赤面した。
 完全に復調したアシュレとの夜を思い出したのだ。

「あう」
 狼狽が言葉に――というよりも声になって出てしまった。
「?」アシュレが意味が判らないという顔で振り返るものだから、よけいだった。

 ごつり、といまだにひざまずいたその頭にシオンは拳をふりおろした。
 あははっ、とイリスが笑った。屈託ない笑顔だった。

「その様子だと、わたしが入院して以来、手つかずってかんじだね?」
 押し黙りうつむくシオンをイリスがまた笑い、アシュレは当惑する。

「えっ、どういうこと? なんで、ボク、殴られ――あ、痛っ」
 シオンは振り下ろしたままの拳でアシュレの頭髪を掴んだ。

「それはアシュレが悪いよ~」
 理由はわからないままに、しかし、イリスが笑ってくれるのが嬉しく、アシュレはどう対処していいのかわからなくなる。

 もっとも、退出するときになってイリスに呼び止められ耳打ちでシオンの暴力の意味を知らされ、死ぬほど狼狽するのだが、それはまた後の話だ。


         ※


「おや、カテル病院騎士、居残り?」
「いま、面会中だ。当事者でないオレがいても、よいことなどなにもないからな」
 施療院の内壁に背を預け腕を組んでいたノーマンにイズマが声をかけた。

「んだね」
 イズマはその隣りに同じようにもたれて言った。
「行かんのか?」
「ボクちんが? なんで?」

「イリスがいちばん懐いていたのは、貴公にだと思っていたが」
「安眠できるからってヌイグルミのクマちゃんが、そのコの一生を変える重大な決断に貢献できるとは、ボクちんは思えないなぁ~。そういうことは、本当に大事なひとと決めるべきだよ」

 ところで、ここ、喫煙OK? イズマは煙管を取り出し、ノーマンに訊いた。

「当然、ダメだ」
「ですよね~。んじゃ、これ食うか」

 どこで手に入れたのか饅頭を取り出し、イズマはぱくつきはじめた。
 細かく砕いた豚の塩漬け肉に、干しアンズやリンゴの細片を混ぜ作った餡を小麦粉の皮で包んだものだ。


「食う?」
「……頂こう」

 一瞥し、ノーマンが頷いた。
 施療院の内壁にもたれ男ふたりが饅頭をぱくつく姿はたぶん、相当におかしな絵面ではあっただろう。


「うまいな」
「でしょ? ちょっと仲良くなった農家のおばちゃんたちがさ、もってけーって。タダは悪いんで、ちょこっと熱冷ましの薬と引き換えにねー。施療院までちょっと距離があるところだったから、えらい感謝されたよ」

「あまり、出歩いて顔を売るな。我々はともかく、貴公とシオン殿は人類の仇敵というのが一般的な認識なのだぞ? まあ、シオン殿はどこかの貴族令嬢で通るだろうが、貴公の耳は誤魔化せんだろう?」
「なーめんなって、相手の記憶から印象を消す術だってあるんスよ」

 イズマの言葉に、ノーマンは目を丸くした。

「まるで間者だな」
「逆だよ、ノーマンくん。土蜘蛛の技術を彼らが吸収しただけのことさ。でも、本家にはかなわない。目に見えて派手な技よりも、目に見えず嗅ぎ取れず気配もない、そういう攻撃のほうが致命的なことはよくあることさ」

 技術的な講釈をひとくさりしてから、イズマはノーマンに話題を振った。

「んで、アレ――〈コンストラクス〉だっけ? けっきょく使うの?」
「止めはしたが、決意は揺らがぬそうだ」
「ダシュカちゃん?」
「大司教猊下、のな」
「ノーマンくんは反対なんだ?」

 その問いにノーマンは答えなかった。

「ダシュカちゃんが心配?」
「……妹だからな」

 ノーマンの発言はもしかしたら鉄拳制裁より、もっとずっと、はるかに効果があったかもしれなかった。イズマは食べていた饅頭を喉に詰め、悶死寸前になった。ノーマンがその大きな義手で背中を叩いていなかったら、危うく死ぬところだった。

「タンマタンマッ、ノーマン、それ冗談がキツ過ぎるッ!!」
 酸欠で青くなりかけた顔に精気が戻り、今度は赤くなりながらイズマが言った。

「そんなにおかしいか?」
 イズマの様子に、ノーマンの鉄面皮が困惑顔になった。
 片眉毛を持ち上げ、顎をしきりに撫でる。


「だって、ぜんっぜんっ、似てないじゃん!! 美女と野獣どころか、怪獣でしょ!」
「貴公、饅頭で死んだほうがよかったかもな」

 言葉は辛辣だったが、ノーマンは破顔していた。
 あっはっはっ、と快活な笑いが響き、看護服の尼僧に注意された。

 男ふたりがお口に×の字ジェスチャーをするさまは、正直コメディ以外のなにものでもなかった。

「まあ、義理の、だがな」
「そりゃそうだろー、こんな朴念仁のどこ捻りゃ、あんなセクシー美女の血筋と繋がるっての! 要説明だよ!!」

 ふふっ、とノーマンがまた笑った。
 どうもノーマンはこのイズマとのやりとりを楽しんでいるようらしい。イズマの方はいつもの調子だ。


「あれっ、てことはさ、ノーマンって、奥さんが……」
「ダシュカマリエ大司教の姉、エフィメラルカはオレの妻だ。……妻、だった」
「別れたの?」
「死別した。息子もいたが、妻とともに死んだ。もう十年も前のことだ」

 あ、ごめん、とさすがのイズマも謝ったが、ノーマンは気にした様子もなかった。
 だからというわけではないが、イズマはさらに立ち入った質問をした。

「理由を訊いてもいいかい?」
「かまわんさ。ふたりとも、病死だった――いや、あれを病死と言っていいものかな。酷い死に方だったよ。病魔との戦いでね」
「そうかー、ダシュカちゃんのお姉さんだもんね。きっと優秀なカテル病院騎士だったんだろうなー」
「いや、その逆だよ、イズマ。妻は、エフィメラルカは、かつて我らの仇敵:拝病騎士団だった女だ」

 イズマが壁から身体を引き剥がし、目を見開いてノーマンを見た。

「それ、マジ?」
 本当だ、とノーマンは頷く。イズマは天を仰いだ。

「だが、オレと出会ったとき、妻はすでに拝病騎士のありかたに疑念を抱いていた。
 表出する拝病騎士としての教義と本心との間に生じた埋めようのない齟齬に苦しんでいた。
 
 オレは、そのころまだ、どこにも属さない駆け出しの施療師だったが、最初敵として相対した彼女の手を取り、いつのまにか、拝病騎士団からの足抜けを手助けするようになっていた」


 ノーマンは、それからの日々を追憶した。問わず語りに、イズマへと聞かせながら。

 拝病騎士団とは病魔の王であるプレイグルフトと、その賜物である病こそ人類を新たなる段階へと押し上げ、神にかけられたヒトという名の軛から人類を解き放つ鍵であるのだと狂信する一派である。

 施療師を装い都市部や村落に流入し、恐ろしい流行り病を流布する危険なテロリスト・ネットワークとして各国がその撲滅を掲げているカルト集団だ。だが、叩いても叩いても拭い取ることのできぬカビのように、彼らは勢力を吹き返し、惨禍を引き起こす。

 一説では、イクス教の修道院のいくつかが彼らの隠蓑、あるいは母体となっており、資金・人材の両面で多大な支援を行っているという噂さえある。

 ノーマンの妻、エフィメラルカはその教団幹部候補生だった。

 カテル病院騎士であった父を陥れるため、少女時代にかどわかされ洗脳を施された。

 それ以来、拝病騎士団の精鋭として育てられた背景を持っていた。だが、いくつもの村落、都市を陰惨な流行り病――それも数種の病魔を交合させ産み落とした菌種――によって、病魔の苗床に捧げ続ける日々に、いつしか、エフィメラルカは疑念を抱きはじめていた。


 かけられていた洗脳と、彼女自身が持つ良心がその齟齬に耐えられなくなりつつあったのだ。だが、人類の敵対者として生きてきた自分が、この後、いったいどうすればいいのかわからず、悪業の片棒を担ぎ続けた。

 はじめてノーマンとエフィメラルカが邂逅したのは、山間部の村落でだった。

 傷病者に対し献身的に尽す修道女としての彼女と、疫病を愛で流布させる恐るべき狂信者としての彼女。その両面をノーマンはそこで見たのだ。そして、その二面性の間で悲鳴をあげるエフィメラルカの精神をノーマンは見抜いた。

 一介の施療師として、その時まだ異能者ではなかったノーマンは病に倒れ、しかし、そこで《スピンドル》に開花する。むろん、彼が一命を取り留めることができたのは、駆けつけたカテル病院騎士の適切な処置のおかげだった。騎士:ギャルレイとその娘にして、弱冠十歳で助手を務めるダシュカマリエとの出会いだった。

 カテル島での正規の修業を勧めるギャルレイの申し出をノーマンは丁寧に辞退し、ひとり、旅を続けた。エフィメラルカの足跡を追うためだ。彼女を救いたかった。

 紆余曲折を経て、ノーマンはエフィメラルカが拝病騎士団を脱するために手を尽した。

 手に手をとっての逃亡生活の始まりだった。
 エフィメラルカには三重、四重に追手がかかっていた。テロリストの跳梁跋扈を許さぬ世俗の国家、異端者として追う法王庁、さらに拝病騎士団、そしてカテル病院騎士団は娘を裁くため、父とエフィメラルカの妹さえ差し向けていた。


 逃亡生活のなかで、ふたりは恋に落ちた。いや、恋に落ちたからこそ逃亡を決意できたのか、いまとなってはわからない。
 辺境の海辺に暮す魔女の館に起居を得た。魔女は偏屈で小言の多い人物だったが、けっして性根の悪い女ではなかった。


 近隣の村々では薬草師として頼りにされながら、遠ざけられ、偏見をもたれていた。そういう孤独な老人が偏屈であることは、ありがちなことだった。

 魔女は弱いながら《スピンドル》能力を扱えた。
 かつては、エクストラム法王庁のお膝元で、汚れ仕事を請け負うスパイラルベインに属していたこともあるのだと、酒の勢いで教えてくれた。年老い、その任を解かれて、流れてきたのだと。


 魔女はノーマンたちが流れ着いた年の春先に老衰で死んだ。
 最期の最期で、おもしろい人生だったと言い残して。つつましいながらもよく手入れされた一軒家を残してくれた。


 ノーマンとエフィメラルカはそこで、息子を得た。

 ふたりにやっと、静かな時が与えられた。ふたりの間に生まれた子供は、健やかに成長した。
 けれども、息子が六つの誕生日を迎える前に、それは起きた。

「近隣の村落が流行り病に呑まれたことがわかった。
 拝病騎士団の仕業だとわかった。妻は――エフィは家を飛び出した。しあわせを得たことで、彼女の罪の意識が消えるわけがなかった。
 もちろん、オレも後を追った。息子・ユージーンを連れて。それがどんな結果を招くのか、深く考えることもできずに」


 結果として、拝病騎士との対決によって、ノーマンは妻子と、己が両腕を失ことになった。
 
 六年の間、娘を追い続けたカテル病院騎士:ギャルレイは拝病騎士と凄絶な相打ちを遂げ、我が身を挺して病魔を封じた。そして、いまや美しい娘に成長したダシュカマリエが両腕を失ったノーマンを再び救ったのだ。


「あの日、オレたちは――我らは誓った。業苦から、そのことごとくから人々を救うものになろうと。そのための《ちから》を得ようと」

 ほとんど抑揚なく、淡々と自らの過去を語り終えたノーマンのかたわらで、イズマは黙りこくり、視線を海辺に向けていた。いよいよ陽が陰り、風も冷たさを増してきた。いつもは青く澄み渡り輝くファルーシュの海が灰色に曇っている。

「志は立派だと思うよ」
 けれども、とイズマは言った。

「《御方》の《ちから》を――それが例え、死骸を再利用するカタチであったとしても、頼むことでは、決して――」
「ならば、そこまで知るならば、なぜ、あのとき――〈コンストラクス〉を眼前にしたとき、貴公は黙っていたのか?」

 おなじだろう? 姿勢を変えぬまま、ノーマンの瞳がイズマを見た。同じようにイズマもまたノーマンを見た。

「アレが、なになのか、ノーマン、キミは知ってんの?」 
「神ではないことだけは、たしかだ。イズマ、貴公こそどうなのか?」

「詳細をご説明できないのが大変つらい。奴らの正体に言及することが、ボクにはできないのさ。概要は説明できるけど、それは寝言にしかキミらには聞こえないだろう」

 呪われてんのさ、とイズマは首筋に巻いたハンカチーフを引っ張った。絞首刑に処せられた罪人をそれは連想させた。

「呪われた? 《御方》に、か?」
「《御方》に、というより《そうする》力に、かな? こないだも、うっかりと口滑らせたもんで、いまも実はけっこうつらいのよ。しっかり意識しておかないと、ここに留まっておくのもね」
「どういうことだ」

 ノーマンはその義手の両手でイズマを掴んだ。
 ざあっ、と一瞬イズマの肉体が砂でできているかのようにブレた。

「?」
「答えてあげたい。伝えたいけど、やり過ぎるとボクちん自身が“虚構”に呑まれちまうんだ。そうなると、もうだれもボクちんを思い出せない」

 だから、考えておくれ。自分で。見ておくれ。自分で。

「そして、判断するんだ、ノーマン。ボクちんにできるのは、道標になること。確信にみんながたどり着くまで、先駆者たること、それだけなんだ」

 貼り付けたような笑みでイズマが言った。
 ノーマンは背筋に氷の針を突き込まれるような痛みを覚えた。
 イズマが背負ってきたものを思い、その重みに震えた。

 だが、とノーマンは言った。だが、これまでノーマンが、ダシュカマリエが歩んできた道のりもまた、暗く、救いのないものだった。それを反古にすることはできなかった。

 だから、言った。

「だが、イズマ、オレは、オレにはダシュカを止められん」
 うん、とイズマは頷いた。
「わかるさ、ノーマン。だから――ボクもアシュレたちを止められなかったのさ」
 イズマは音もなく微笑んだ。
 それはあまりにも、寂寥として、荒漠とした笑みだった。


         ※


 目覚めたとき、アシュレの時間感覚は失せていた。

 カテル島の港は冬季に特有のマエストラーレ(北西の風)を避けるため、基本的に島の東側に集中している。
 アシュレたちの宿舎も東の山陰にある。
 つまり朝日を浴びるのは早いが、日没も早く感じられる。


 窓ガラスなどはめられていない宿舎のなかで、寒気を遮るために窓を閉め、カーテンを引いていると、いったい、いまがいつで、ここがどこかを見失いそうになる。

 いや、時間感覚は失せても、ここがどこかだけは見失うことはない。
 室内は、瑞々しいバラの香りで満たされていた。

 人工的に抽出されたエッセンスではなく、野に咲くバラの、その自然な芳香。

 それで、アシュレはここが、シオンの自室だと判るのだ。


 上級士官用の部屋を、シオンはあてがわれていた。

 と、言っても下士官用のそれとは個室であることと、カーテンが上質であること、執務机が備えられていること、暖炉の作りが個室である分ややこじんまりとしていることをのぞけば、それほど変わらない。華美な装飾など、どこにもない。質実剛健、実用本位の作りだ。カテル病院騎士団の精神性がよく現われている。

 煤とヒトの手で磨かれた材が暖炉の炎を照り返している。いまや、室内の明かりはそれだけだ。


 ダシュカマリエとの会談、イリスとの面会を経て、宿舎に帰り着いたのは昼飯時を少しすぎたころだった。アシュレはシオンの部屋の暖炉をかいぐり、火を熾しなおしてからブナの太い薪を数本くべた。

 宿舎に来てから数日中に、シオンに火を熾させると、部屋中が灰被りになることがわかったからだ。


 火を熾し終え、自室に戻るべく立ち上がったアシュレの背後で、がちゃり、と鍵をかける音がした。アシュレは思わず振り返った。

 シオンがいた。
 すべての窓を戸締まりし、錠を下ろし、カーテンを後ろ手に閉め、うつむいていた。
 それがなにを意味しているのかわからぬほど、アシュレはひとの心の機微に疎いわけではなかった。

『わたしを心配してくれているのはうれしいけれど、どうかシオンのことも考えてあげて。愛の呪縛に囚われているのは、わたしだけではないのだから。たぶん、もうとっくに限界のはずだよ?』
 別れ際、イリスが囁いた言葉を、アシュレは思い出している。

 ほんとうは、アシュレにだってわかっていたのだ。
 アシュレ自身がそうだったからだ。


「シオン」
 名を呼ぶと、シオンはうつむいたまま、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
 それから、アシュレのかたわらにまでくると、暖炉を背に立ち、後ろ手に鍵を放った。鉄製のそれを、暖炉にくべた。

 がさり、と鍵は火の中に消えた。

 どちらが先に手を触れたのか覚えていない。
 シオンの展開した漆黒の帳が、部屋中のすき間を埋め尽くし、ふたりは自ら望んで囚われてしまったのだ。


 シオンを組み伏せるとき、アシュレは獰猛な衝動に襲われる。
 シオンの持つ気高さ、崇高さを剥ぎ取り、奪い取り、蹂躙してしまいたい。手荒く侵入し、壊れるほど責め立てて、恥辱に泣かせたい。そう切望してしまう。
 どくりどくり、と血管が脈打つような音を立て、その凶暴な欲望が自身のなかで荒れ狂うのを痛いほどに感じる。


 そして、そのように肉体が働く。
 手荒くシオンを確かめる。指で、舌で、歯で、秘密を暴きたてる。そのさまを言葉にする。

 すると高潔な夜魔の姫の肌(はだえ)が、みるみるうちに羞恥の色に染まる。

 ベッドに、あるいは壁に、太い柱に獲物を押しつける。
 それは山野を駆けるワイルドライフをくびり、解体する作業に似ている。シオンの肉体はアシュレがナイフに見立てた指先で触れるたび、跳ね上がり、必死に逃れようとする。
 逃さない。
 自分でもどこから来るのか戸惑うほどの凶暴な力でシオンをねじ伏せる。


 自らの下でシオンが、それなのに喜悦に震えて戸惑うのがわかる。
 アシュレはそれを見逃さない。冷酷な狩人として、シオンを追い詰める。
 肉体で荒々しく翻弄し、言葉で誓いを強いる。

 誇り高い夜魔の姫が解きほぐされ、陥落するさまは、香り高いヤマシギの肉叢を内臓のソースとともに味わうようだ。アシュレは背後からシオンの首筋に顔を埋め、その薫りをそっと嗅ぐ。シオンのそれは踏みにじられる花芯の匂いに彩られている。

 歓喜に泣かされながら、シオンはアシュレへの愛を誓う。

 うわごとのように、シオンはアシュレへの愛を繰り返し、繰り返し誓ってしまう。
 そして、意識を失う直前、その耳元に、シオンはアシュレの言葉を聞くのだ。


 シオンが誓ったのと同じ言葉、愛ゆえの隷属を。
 その言葉に、ああ、とシオンは思い、震えながら微睡みに沈んでいく。 

 わたしは、もう、どうしようもなく、このおとこのものなのだと、思い知りながら。


 気がつけば、シオンが腕のなかにいた。
 逢瀬の後、いつも目覚めのたび、夢ではないのかとアシュレは不安に駆られるのだ。

 シオンの、そのあまりに高潔な裸身に。
 その彼女を、自分が手折り、あまつさえ、屈服の果ての服従を誓わせてしまったことを。


「夜魔の誓いは、絶対ゆえに」

 はじめて、シオンにそれを誓わせてしまった日のことを、アシュレは忘れることができない。いや、一生涯、決して忘れえないだろう。

 まばゆいばかりのその裸身に、あの葡萄の蔓と葉の刺繍がされたチョーカーだけを身に付けたシオンは、生涯をアシュレとともに添い遂げると誓ってくれた。

 アシュレも、その誓いに同じ誓願で応じた。

 同じ寝顔が、いま、そばにある。
 すっかり熾火になり、弱まってしまった暖炉の明かりのなかで、かろうじて浮かび上がって見える。

 その長い睫毛が震えて、深い紫の瞳があらわになった。

 まだ夢と現の境が曖昧な目をシオンはしていた。

「いとしいかた……、あなたのものです。すべて、しおんは、」

 ほとんど、無意識だろう、ささやくように言うシオンのおとがいにアシュレは指を這わせ、艶やかな黒髪に隠された耳朶に手を添えた。愛しさが胸に溢れて止まらない。

 シオンが甘い吐息をつき、それから瞳が焦点を結んだ。

 はっ、とその身が強ばった。
「アシュレ?」
「おはよう……というかもう夕方かな?」

 がばりっ、とシオンは飛び起きた。
 真っ赤になる。いつものやりとりだった。
 逢瀬のあと、シオンは必ず夢に囚われている。少なくともアシュレの知る限りそうだ。
 なんども、繰り返し、アシュレへの愛と隷属を誓う姿をアシュレは見てきた。


 今日、それが違っていたのは、アシュレがいつもは「なにも言っていないよ」とはぐらかしてきた事実を、うっかり告げてしまったことだ。

「いっ、いまっ、わたしは、なにか言わなかったか!!」
「かわいい寝言、かな?」
 ぐいっ、とシオンの顔がぶつかるほど近くまで寄った。

「せ、正確に白状せよ!」
「いや、その、いつもの、愛の告白みたいな感じだったよ?」
「気づかいなど無用だ! は、はっきり、言え!! はっきり言わんと、は、鼻を噛み切るぞっ。わ、わたしは、寝言でなんと言っておったのか!」
「いや、『わたしのすべてはあなたのもの』だっていういつもの」

 わああああっ、とシオンはまず耳を塞ぎ、つぎに顔を覆った。耳まで赤くなったのが、この頼りない明かりのなかでもよくわかった。

「いっ、いつもッ? いつも言っておるのか、そんな寝言をっ?」
「えっ? 自覚なかったの?」
 あまりのショックでシオンは、こんどは口元を覆い沈黙する。アシュレは展開の早さに驚くしかない。

「だって……いつも、誓ってくれてるのに?」
「いっ、意識的なのと、無意識はちがうっ。ね、寝言で誓うようになってしまったら……わたし、わたし……は、もう」

 おそらく種族的な問題なのだろう。
 シオンの狼狽ぶりがアシュレにはすぐには理解できなかった。


「だ、だいたいっ、そなたが、あんなにするからっ、なんども降参しているのに、許してくれないからっ。こんなことに……」
 狼狽しきりなシオンは、はっきり言って可愛らしかった。

「嫌だった?」
 アシュレは心配になって訊いた
 言葉を失い、ぱくぱく、と口を開け閉めするシオンの喉から、きゅう、とおかしな音がした。シオンは全身を朱に染めて、うつむき壊れたようにつぶやく。

 いつもはあれほど冷静な夜魔の姫が狼狽し切っていた。

「そなたに射込まれた《ねがい》のせいなのか? もう、わたし、わたし、逆らえないんだ。どうしよう。ぜんぜんうまく制御できない。現実であんなにされているのに、夢のなかでもおなじようにされてしまう。もうだめだ。もう完全にアシュレのものなんだ。どんどんひどくなってる。もう、わたし、アシュレへの愛を制御できないんだ、どうしよう。イリスが苦しんでいるのに、アシュレを望む心が止められないんだ。恥知らずな娘になってしまったんだ」

 シオンは怯えていたのだ。
 あまりにも深く、アシュレへの、ヒトの子への愛に溺れてしまったことに。その衝動が制御できなくて。底なし沼に捕われてしまった子鹿のように震えていたのだ。


 その様子に、なぜだろうか、アシュレはなぜかまた獰猛な気持ちになり、シオンを捕らえた。
 あう、とシオンがうめく。四百年以上生きてきたシオンだったが、その反応は初めての少女のようだった。

 アシュレはシオンの怯える両腕をこじ開け、左手を後ろに回し、解けた黒髪を掴んで真っ白な首筋をあらわにした。

 シオンが吐息をついた。

 夜魔という種族にとって、愛するものに首筋をあらわにされ、差し出すことには特別な意味があった。
 こうして、愛した男に強いられるまま首筋を差し出し、成すがままされるがままにしていることは、完全な服従、あるいは永劫の愛の奴隷となることを受け入れるのと同じなのだと、アシュレはシオンから教えられた。

 使い魔であるヒラリの首筋を撫でたとき、シオンが過敏に反応したのはだからなのだろう。
 いま思えば、納得のいくことではあった。


「まだ、恐いの?」
 その問いを肯定するように閉じられたまぶたの先で、長い睫毛が震えた。

 一命を取り留めたあの日、アシュレはシオンからその首筋を捧げられた。
 骨の一片、最期の血の一滴までも、あなたのものだと誓われた。その返礼を、アシュレは同じく、自らの首筋を捧げることで返した。
やさしく甘噛みされた。

 それなのに、今なおシオンはアシュレへの愛に溺れることを恐怖している。
 だって、とシオンは泣きながら弁解するのだ。

「ほんとうに――堕ちてしまう。このままでは、わたしは、わたし――」

 ぢりっ、と自分のなかの独占欲に火がつくのをアシュレは感じた。

 このヒトを耽溺させたい。愛欲の海に引きずり込んで、呼吸することさえできなくしてしまいたい。その細い両脚、両腕に縛鎖と錨を結わえつけ、二度と浮かび上がることができないようにしてしまいたい。


 アシュレダウ、という男に溺れさせてしまいたい。

 ボクがもう、どれほどシオンに溺れているのか、わからないのか。
 その想いが口をついた。

「シオン、キミもボクの気持ちを味わうといいんだ」
 自分自身でも驚くほど強い言葉でアシュレは言った。シオンが真っ白な首筋を震わせた。

 ボクが、もうすでにキミにどれほど強く囚われてしまっているのかを、キミは知らないのか。アシュレがそうささやいたからだ。

「キミが、完全に堕ちてしまうまで、ボクはキミを赦さない」

 アシュレは獰猛な衝動のおもむくまま、シオンの首筋に歯を立てた。甘く噛んだ。

 シオンは震えて泣いた。わたしは堕ちるのだと、堕とされてしまうのだとわかって。

 愛に堕ちてしまった夜魔の娘に逃げ場などない。
 その火は水では消えず、内側からその身を焼くのだから。
 そのひとの声で煽られ、吐息に燃え盛り、運指に火勢を増して、生きながら火刑に処されるのだ。組み伏せられ、貫かれて蹂躙され、縛鎖に繋がれる。

 愛の尋問は残酷に姫君の秘密をあばきたて、自らさえ知りえなかったそれに心は恥じ入って、そうであるのに肉体は応じてしまう。

 昼夜の別なく愛に責められ、息も絶え絶えに果てた先にさえ、その記憶が待ち受けている。
 それは無限に続く牢獄――逃れたいと思うことさえ赦されぬ永劫の監獄だ。


 傷口に残った刃のように、心の同じ場所を何度も何度も抉られ刻み込まれて、そのひとのカタチに変えられてしまう。

 きっとわたしは、耐えられない。それなのに、あのひとは言うのだ。
 誓え、と。

 そうして、わたしは、あらゆる場所で、誓わされてしまうのだ。


 責め立てられ、刻印され、心に焼印され、その痛みにさえ喜悦で泣かされながら。


 どこかでビィオラが鳴っている。


 それが自分の声だと、シオンは気づくのだ。もう離れられないのだと、気づくのだ。
 わたしは堕ちるのだと。


 繰り返し、堕とされてしまうのだと。
 このひとのものになるのだと。














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