自走式空想会社:クルーシブル
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二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。
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2014-12-13T18:11:18+09:00
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第二夜「すてきな贈物・壱:素食」
ここは西方世界と東方世界の交わる交易都市:ジラフ・ハザ。
宗教圏としてはアラム側だが、他宗教にも寛容で、城壁で区切られたそれぞれの教区内での礼拝の自由が許されている。
緩やかに区分けされながらも混じり合ういくつもの文化の交流が、他の都市では得難いエネルギーの渦となって充満し、道行く人々も...
ここは西方世界と東方世界の交わる交易都市:ジラフ・ハザ。
宗教圏としてはアラム側だが、他宗教にも寛容で、城壁で区切られたそれぞれの教区内での礼拝の自由が許されている。
緩やかに区分けされながらも混じり合ういくつもの文化の交流が、他の都市では得難いエネルギーの渦となって充満し、道行く人々も活気に満ちている。
その混淆は、まず匂いに現れる。
色とりどりの果物、屋台の軒先に吊るされた野禽、大きな塊の肉に、多様なスパイス。それらが交じり合い、臭気とも、香気とも言い難い独特の匂いとなる。
あえて言うなら、それは生命力の匂いだ。
そのなかを奇妙なふたりの男女が歩む。
ターバンを巻き長衣(ジェラバ)を羽織って種族的特徴を隠した土蜘蛛の男:イズマと、被り布(ヒジャブ)で頭髪を、身体の線の出る着衣をマントで覆った夜魔の姫:シオンがそれだ。
これは実は、本編のずっとずっと先のエピソード。
それをすこし、ネタバレしない範囲でのぞき見る――神の視座が可能にした、そんな試み。
そして、それを喚起したのは、一冊の本との出会い。
「しっかし、めずらしいなあ、姫がこういう種類の買い物に付き合うなんて。やっぱあれでしょ、しばらく離れてたもんで、ボクちんが恋しくて、でしょ」
「いや、それはない(きっぱり)」
「まーたまた、そんなこと言っちゃって。わかってます、わかってます。言わずとも、このイズマには」
「そなた、以前より、ウザさの切れが増しておらぬか? アシュレは、今日はアスカリア殿下と行動しているし、市井を、実地を歩いて見聞を広めることは為政者として重要なことだからな」
「そんなに褒められたら、イズマこまっちゃうなー。姫の、ツンでプリンセス発言に、ボクちんのハートは高鳴りっぱなしです」
「ツンでプリンセス発言……貴様、その修辞はどうにかならんのか?」
「だってー、ほんとのことですものー。って、それにしても姫、為政者って言われました? 珍しいなー、そゆこと、むしろご自身の家系――大公家の血筋――嫌ってなかったですか?」
「……たしかに、それはいまでもだが……こう、なんというか……心境の変化、というかな。逃げばかりではいかん、というか、きちんと相対せねばならぬな、とそういう心持ちになったのだ。周囲のモノに重責を担わすことになるし、な」
「姫……それって、ついに君臨される、ってことですか?」
「君……臨……?」
「そです、そです、つまり、姫がついに女王として起つ、とそういうお話ですか?」
「んー、そうなのであろうかなあ?」
「民の上に、たとえば、ボクちんの上に、こう、ぐいっと(わるいかんじのうごき)」
「貴様、天下の往来でその奇妙なクネクネはやめんか。悪目立ちして、しょうがないぞ」
そんな感じで、ふたりは街路を抜けていく。
目指すは東方との交易でにぎわう異人街――リトル・シア、と呼ばれる街区だ。
「シア? しらんな、どこの国だ?」
「ずーと、ずーっと東の果ての国だそうです? なんでも昔はでっかい帝国だったらしいんですけど、どでかい天変地異で国土が消失して、いくつもに別れた王朝が長きに渡って争っているって。そのへんはアガンティリス滅亡後の西方世界とあまり変わらないかも、です。だから、まあ、この街区はいうなりゃ「旧シア王朝の生き残りたち」のコミュニティなんですよ」
「貴様、そういう知識だけは、感心するな。褒めてつかわす」
「感謝の極み。と、いうか、土蜘蛛の一派は、地下でそういうとことの交流もあったりすますからねー」
「そうなのか」
「そですそです。鉱石系の薬品と、植物由来の薬品とを交換したりして。あと、シルクですね。同じ蟲系の素材でしょ? 技術的な交流がけっこうあったんですよ」
「初耳だ」
「まあ、むこう的にも、この話はオープンにしないほうがいいでしょうしね」
「そうだな。我々との関係は、この世界の常識では禁忌に属することだものな」
「だから、アシュレは、ほんとに凄いヤツですよ。ボクぁね、感心するんです。こんなやつが人間にいたのかって、ね」
「ああ、わたしも……アシュレとの出会いには……信じてもいない神に感謝しているよ」
「で、ふたりの意見が一致したところで……目的の場所に辿り着きましたヨ?」
イズマが指し示すのは、貴重なスパイス・生薬、さらにはその加工品である霊薬、その原料となる植物や動物の一部を商う専門のバザールだ。
色とりどりの敷布で区切られ、張り出した天幕で覆われたマーケットの軒先に様々なクスリと、その原材料が取りそろえられていた。
イズマはその間を忙しく飛び回り、次々と必要な材料を買いそろえていく。
その届け先がサムサラ離宮だと知ると、商人たちは、まず仰天して次には相好を崩すが、イズマのチェックは厳しい。粗悪な品は目の前でどんどんダメ出しされ弾かれていく。笑いながら、また相手を冗談で笑わせながら、その目と鼻と手の容赦ない選別に、最初笑顔だった商人たちは驚愕し、戦慄し、あるいは憤慨し、やがて諦めの笑いにいたる。
無理だ、こいつに誤魔化しはきかない、と。
だが、いったんその理解に到達すれば、そこは商人魂だ。奥から上物を惜しげもなく出してくる。するとイズマはそれをはっきりと見抜く。これはいい、と太鼓判を押す。信用が生まれる。
そんな調子でイズマは、どんどんと奥へ突き進んでいく。
来たるべき侵攻作戦に先んじて大量の霊薬の精製、呪術系異能に使用する様々な触媒を大量に買い付けているのだ。
シオンはそんなイズマを面白そうに眺める。この男は、普段はウザいことこのうえないが、こうして目的に向かって突き進んでいく姿は、はっきり言って痛快だ。
まあ、これぐらいの取り柄がなければ、あのウザさにはつきあいきれんがな、とシオンは密かに笑う。
「あなた、そこの、おじょうさん」
「ん? ああ、わたしのことか。なにかな、ご老人」
「お見かけするに、高貴の出の方のよう。あのご仁は、ご亭主かな? ずいぶんな目利きで、この辺ではもう噂になっとるよ」
「ああ、そうか……いや、すまぬ、あれはわたしの良人ではない。なんというか……そうさな……下僕?」
さらり、とシオンの唇からこぼれた言葉に、老人は目を丸くし、それからほっほっほっ、と笑った。
シアの血筋なのだろう。
鼻梁はあまり高くなく、色素の薄い肌は黄色みがあり、目はアーモンドのよう。老人の顔にはシワがあったが、その肌は瑞々しく、弾力がありそうだった。
「なるほど。そうであれば、やはり、あなたさまは高貴の出。じつは、この爺、そんな方へのぴったりの品を商っておるのです」
「ぴったりの品? ふふ、聞き及んでいるぞ。マーケットではこの手の押し売りに手を出してはならぬ、とな。紛い物を売りつける連中がいる、とも」
わたしを世間知らずの姫御とでも思っているのか。シオンは凄みのある笑いを浮かべた。
だが、老人はびくともしない。
その美しい、しかし獰猛な笑みを莞爾と受け流し、言い放った。
「まさか。あのような目利きの薬師を従える御方に、そのようなものをお渡ししたらどうなるか。半端者ならいざ知らず、わたしのような店舗を構えておりますものは、信用こそ第一。それに傷がついた日には、とてもとても、商いを続けておれませぬ」
「そのわりには、店先に並べているもののなかに、粗悪なモノが混じっているようだが?」
「これは手厳しい。しかし、あれらはすべて値段相応の品。けっして、我々が暴利を貪っているのではありません。その証拠に、ほんとうに目の利く、そして信頼に値すると判断した御方には、最上の品を差し出すのです」
「つまり、店の側も、客を測っている、とそなたは言うのだな?」
「おおせのとおりにございます」
老爺の言葉にシオンの笑みから、威圧が消えた。
「おもしろい。そなたのいう品、見せてみよ」
「こちらでございますじゃ」
老爺はシオンをバザールの奥へと導いた。
天蓋付きのそこは、ちょっとした迷宮の様相を呈していたし、こんな場所で老人とはいえ見ず知らずの相手を簡単に信用してノコノコついていくのは、無謀と同義だった。
ただし、それは人間の場合だ。
シオンは夜魔だった。それも太陽の光さえ退けてあれる、真祖の、純血の血筋――大公の娘。
それに、老爺からは邪な匂いがしなかった。シオン流の表現で言うなら「よい“夢”の薫り」だ、ということになる。
「それにしてもご老人、この街区:リトル・シアに溢れるこの絵のような、文字のようなものはなにか? 装飾というにはなにか、使い方が違う気がするし」
どんなときでも好奇心を失わない、それもまたシオンの美徳のひとつだった。
「夏(シア)文字をご覧になられるのは、初めてですか」
「ああ。大陸の西と北側がわたしのこれまでの主な版図だったからな?」
王者のような、それでいてどこか茶目っ気を感じさせる物言いに、ほっほっほっ、と老爺が笑った。
「では無理もありません。よいですか、あの文字は」
そんな調子で解説を始める老爺のレクチャを、シオンは片っ端から、あっという間に記憶してしまった。
それは教えた老爺本人が目を剥くほどの吸収の早さだった。
「驚きましたな。なるほど、これはあのような目利きを従えられるだけのことはある聡明さ。そして飲み込みの早さ」
なあに、夜魔の性のもうひとつ=完全記憶だよ、とはさすがに言いだすわけにもいかず、シオンは艶然と微笑むのみ。
そのとき、シオンのお腹が、かわいらしくもひかえめに、くぅ、と鳴った。
おや、と老爺が声を上げ、まるで自分の孫娘を慈しむかのように相好を崩す。
ふむ、とシオンも唸り、それから笑った。
「お腹が空いてしまわれましたか、姫さまは」
「すまぬ。この街区に満ちる、なんとも言えぬ香気に、胃のなかの蛙が目覚めたようだ」
ふたりは笑いあい、商談の前に食事を摂ることで一致した。
もちろん、店の選別は老爺がした。
「外からこられた方には、少し珍しいものを召し上がっていただきますかな?」
「まかせるよ、ご老人。こういうときは先人に頼るのが一番だと、経験は言っている」
老人がシオンを連れ、訪れたのはこじんまりとした、しかし趣味の良い店だった。
シオンはその飯屋の特徴的な看板を見上げて言った。
「夏素食(シアスゥシィ)……なんだろうか、読めてもさっぱりどういう料理かわからんな、これでは」
「もう、そこまでお読みなるまでになられたとは、この爺、感服です」
「しかし、ご老人、いままでわたしがご教授いただいた知識に照らし合わせると『素』とは『そのまま、もとのまま』を意味する文字であり、たとえばこれがヒトを表す言葉なら『素人』=初心者、まったくの未経験者、などということになる。『素直』ならば、それはよいことだが、これが『食』に付くとなると、いささか、その、不安を感じる料理名ではないか?」
素人料理的な、素材そのまま的な、とシオンは例示した。
ううむ、と老爺はまた唸った。シオンの知識はすでに応用の段階にはいっている。瞠目すべき知性であった。
いっぽう、シオンの心配事は、その料理に込められた“夢”について、である。
吟味された食材は、たしかに悪くはないのだが、シオンたち夜魔にとっては素材の善し悪しだけでなく、そこにどんな“夢”が込められているのかまでが、問題なのだ。
いくら先達にまかせると言ったところで、大前提を外してしまっていてはもともこもない。
だが、老爺はそんなシオンを前に胸を張り言いきった。
「ここは、まず、この爺を信じていただけませぬか?」
「いいだろう、ご老人。そういう気概ある男は、大好きだ」
そのひとことで決まった。ふたりは店の扉をくぐる。進んでドアを開けようとしたシオンに先んじて、老爺がその役目を担った。
「どうぞ」
柔和で、自然で、身体の内側からにじみ出るような所作だった。根っからの紳士なのだ。
「ありがとう」
シオンは老爺の心遣いに甘えることにした。背筋を伸ばしシオンをエスコートする老爺は、こころなしか誇らしげだ。
そこは老人のなじみの店なのだろう。ほとんど、言葉を交わすこともなく定席に通され、茶をふるまわれた。
給仕が現れ、老人が「いつものかんじで」という意味でうなずく。言葉はいらない。静かな伝達と了解だけがあった。
シオンはそのやりとりに疎外感を感じない。
給仕が視線を合わせ、にこり、と微笑んだからだ。
うけたまわりました、失礼のないように、万事取り計らいます、ご用命と責任はわたくしが、という意味の笑みだ。
「よい店だ」
それだけでシオンは太鼓判を押した。
こじんまりとしているが内装は落ち着いたしつらえで、調度の趣味もよい。
なにより重要なのは、そのすべてが丁寧に掃除され、金属の部分は光り輝いている。よほど念入りに磨かねば、料理店というものは清潔を保てない。油煙や獣脂、ソースにアルコール、それに由来するさまざまを料理店の内装は受け止めなければならない。
そして、サービスは満点だ。
サイレントで、過不足がない。
サービスされている側が、気がつかないうちに快適になっている。それがほんとうのサービスだと、シオンは考えている。
そう思うと、ここはかなり高級店なのではないか、とシオンは思った。
そんな店で定席に通されるこの老人にも、俄然興味が湧いた。
だが、そんなとき目の前に現れた前菜に、シオンは目を奪われた。
「ほほう、これは――宝石のようだ」
「米粉を混ぜた粉で皮を作り、なかに肉や、魚介、野菜を刻んだ餡を包んだ蒸し饅頭です」
「なるほど。では、ご老人、食べ方もレクチャしていただけるか?」
「喜んで、姫さま」
和やかに会食は進む。
前菜を過ぎ、スープや炒め物を過ぎ、メインは甘辛いタレを絡めたウナギの焼き物だった。
「姫さま、ウナギは?」
「問題ない。むしろ、好物と言ってよいだろう。ドラクライン河の河口でとれるそれを、素焼きの土鍋で白ネギとともにトロトロになるまで赤ワインで煮込んだものは、絶品なのだぞ?」
「ほほう、赤ワインで? わたくしどもの郷土では雑穀を原料にした古い酒や黒酢、ショウガのあわせ汁で煮込みますが、なるほど、赤ぶどう酒で? 酸味に渋味が加わり、ウナギの脂とよく合いそうですな」
「いや、この料理法も卓越した香ばしさだ、たまらんな」
淑女と老人の組み合わせとは思えぬ健啖ぶりで、ふたりは皿に盛られた料理を平らげていく。
デザートは豆花(トウファ)というすり潰した大豆の汁から作るのだという純白のふるふるだった。
「豆からこのようなモノができるのか! うむ、癖のない、できたてのチーズのようだ。なめらかさはクリーム」
シオンはことのほか、それが気に入ったらしかった。
椀のなかで花弁を広げる茶を飲みながら、シオンが言った。
「ご老人、たいへん満足だ。おいしかった。ごちそうさま」
「いえいえ。お口にあったようで、わたくしも、ひと安心です」
ただ、とシオンが付け加えたのはそのときだ。
「調理法は感嘆に値するが、その、食材的にはいたってありふれたモノばかりだったな。珍しいものは、なにひとつなかったように思えたが?」
豚、鶏、ウナギ。それほど格別の珍味というわけではあるまい?
シオンの指摘に、老爺はまた、ほっほっほっ、と笑った。
「なるほど、さすが姫さま。素晴らしい美食のセンスでございます。この老骨、感嘆を禁じえません」
シオンは微笑む。嫌味を言ったのではない。夜魔の気質として、率直なのだ。
ただ、その微笑みは、ただし、と老人がひとことを付け加えたひとことで、驚きに変わった。
「ただし、それでは、いま召されたお食事の数々の秘密の半分までしか、言い当てたことにはなりません」
「食事の秘密?」
はい、と老爺は微笑み、シオンは首を捻った。
「なんであろうな」
「お気づきになりませなんだか?」
「うむ。わからぬ。どの味を思い出しても、どこかにそのような特別なモノが使われていた形跡・痕跡はない」
夜魔特有の完全記憶を手繰りながら、シオンが言った。
「ご老人、降参だ。教えてはもらえぬか、その秘密を」
では、お教えしましょう、と老人が言う。
シオンは聞く。その秘密を。
そして、驚きの声を上げる――。
それは、その秘密とは。
さて、のなかのグウ、その第二夜「すてきな贈物・壱:素食」
オチが着く前に、お話ぶった切っちゃってますが、大丈夫、仕様です。
そのオチは、これからご紹介する本に、詳しく紹介されています。
あの……みなさん、台湾素食(たいわんすぅしぃ)というものをご存知だったりしますか?
もし、ご存知でないなら、ちょっとご紹介させてください。
ボクも少し齧ったことがある程度、ごく近いものを数品食べたことがある程度で、その奥深さやバリエーション、そして現状や背景は、この本を読んで知りました。
動物のお肉を使わない。
ねぎ・にんにく・にら・らっきょう・あさつき=いわゆる五葷(ごくん)も滅多に使わない。
お魚や、牛乳、卵は、使ってあるときは、きちんとその旨、書いてある。
そういうお料理の世界。
あれ? それってベジタリアン食のことじゃないって、そう思われたアナタ。
ボクもそう思いました。
なんでも美味しく食べたい派のボクは、そういう縛りがあるのは苦手だなー、とも、最初は思いました。
でも、ここで紹介されている料理の世界を覗かれたら仰天されると思います。
お肉やお魚を使わずに――それなのに、それらを使ったお料理に限りなく近づけられた品々。
食感も、ものによってはその香りさえ、そっくり。
グルテンや、シイタケ、それらいくつもの素材をうまく組み合わせ、まるでお肉を食べているかのように思わせてくれる――そんな魔法のような調理法とお料理たち。
お話のなかでシオン殿下が食べてるウナギも、実際にある調理法で作られたもの。
海苔を使って磯の薫りを、牛蒡のペーストでウナギのもつ土の薫りを。
これを濃いめの味付けで仕上げられると、ほんとうに見分けがつかないらしいです。
それどころか、なんと、素食には七輪付きの焼き肉だってあるそうですよ?
いろんな事情から、お肉やお魚を、食べられない。
そういうときって、じつはボクらにも来ないとは限らない。
宗教的、主義的なことだけじゃなくて、肉体がそれを許さないことだってある。
そんな目で、自分たちの周囲を見渡すと、けっこうゾッとすることがあります。
選択肢がない。あっても、とてもとても高い。
実際、そういう制約をお持ちの方とお食事する機会があり、お店の選択に戸惑ったことがボクにもあります。
これは、ひとごとじゃないぞ――ずしり、と胃の辺りが重たくなったのを憶えています。
ボクたちのお店や、メニューのチョイスが、そのヒトを傷つけているかもしれない。
そんな思いに、なんどもとらわれました。
「いつもお腹が空いているんだ」
冗談めかして笑いながら言う、その何気ない彼の言葉が、とても響いた。
そこにきて、この本で紹介される台湾素食たちの、なんて軽やかなこと。
もちろん、台湾素食だって、完全じゃない。
でも、選択肢がたくさんあるって、素晴らしいことだと思います。
それも、気楽に、多くのヒトに対して開かれているってこと、大切だと思います。
作中で、作者さんもおっしゃられていますが、ここにあるのは制限じゃなくて、自由です。
解放、と言ってもいいかもしれない。
夜市(の店頭販売や屋台)にさえそれがあって、だれしもが気軽に楽しむことができる。
肉食のヒトと、素食のヒトが同席しても、それぞれに選択肢がキチンとあって、両方のヒトが楽しむことのできる世界っていいなあ、と憧れちゃいました。
だれしもが、気疲れすることなく、食を楽しめるってステキなこと。
そういう環境が周囲を取り巻いてくれているって、ステキなこと。
また、それを紹介する漫画が面白いんです。
ボクはこれ、宿泊先の安ホテルでけっこうアルコールの入った状態で、しかも夜更けに読んだんですが、ベッドのなかで震え上がりました。
浸かってたアルコールが脳みそから吹き飛びました。
え? 面白いのに震え上がったの?
はい。
これ、ほんとに面白いのです。
台湾素食の紹介本としてだけでなく、漫画としての完成度が、とっても高い。
気負いなく、軽やかに、ひたすら素食を貪る作者さんのお姿、その勇姿。
コミカルな様子でマジカルな食べ物たちを、むしゃりむしゃりぱくぱくもぐもぐ。
その面白さと完成度に戦慄した。
ボクもご一緒したーい!!
と、気がついたら叫んでしました。
そして「肉子……恐ろしい子(すいませんすいません)」
断言しますが、これは見かけたら入手必須の良本です。
□こちらが表紙
また、作者の吉田肉さんは、この他にもバリ島や台湾の旅行記的な漫画を幾冊も作られていて、そのどれもがとてもクオリティの高い漫画で構成されています。
今回の冒頭、はっきり言って、けっこう以上、触発されてます。
読んでると、もうそれだけでリゾートへの脱出を図りたくなっちゃう危険な本なので、キチンと処方箋にしたがって入手、お読みくださいね?
そして、シオン殿下の食べてるウナギ料理、脳内イメージのモデル、そのひとつにさせていただいた方が、写真の使用をOKしてくださりました。
Cu_Dougallさん。
ドイツ在住の方で、素晴らしいお料理の腕前とその写真撮影技術をお持ちの方です。
そして、下が、話題の「ウナギの蒲焼き」くん。
□これ、原材料:お豆腐です。
アンタ、お店のヒトじゃないの、というワザマエに感服です。
ちょっと、皆さん、近々、台湾素食、ごいっしょしませんこと?
さて、物語はもう少しだけ続きます。
「……と、いうようなことがあってな。これがその本だ。ああ、ここにはウナギの記述はなかったな。満腹で、作者が断念した、とある」
「いや、聞いてるだけでも凄いよ。じゃあ、そのウナギの焼き物、ホントはお豆腐だったんだ」
「うむ、まんまと騙された。板みたいに加工された海藻と、植物の根のペーストが使われていた」
「シオンの味覚を騙しきるなんて……ボクも食べてみたいな」
「んー、どうであろうかなー。きっとあの店はご老人の常連店、大切な場所であろうから、わたしが勝手にそなたを連れていっては、これは失礼にあたると思う」
「え、ええ、ここまで話しといて、それって、キツクない? 意地悪だよ」
「彼はわたしのボーイフレンドだからして、気を遣うのはあたりまえではないか?」
「シ、シオン、さん?」
「つーん。だいたい、そなただって、自分がわたしに教えてくれたとっておきのお店に、わたしがかってに別の男連れで、そなたに内緒で入店してたと知ったら……どう思う?」
「う、ぐっ」
「そーであろう? こう、胸の奥のほうが、めらっとなるであろう? ふふん、そなたも、すこしはわたしの気持ちを味わうといいのだ」
「あ、えっと」
「昨日はなにをしておったのだー? アスカリア殿下と、ずいぶんと親しく、長く、んー? 良い薫りだな、アシュレ。素晴らしいスミレの薫り。だれの移り香かな?」
「うわー、うわー、うそだ、だってお風呂はいったもん(必死→くんかくんか)」
□死に至る回想
「……語るに落ちたとはこのことだな。そなた、もがれるのがいいか? ちょんぎられるのがいいか? んー、〈ローズ・アブソリュート〉の刃は残酷だぞ? それとも、そのご老人から買い付けた霊薬を試してみるか?」
「えっえっ、ええええええっっ??? なにそれっ――ひいいいやああああああっっっ」
□もぐ感じ(イメージ画像)
では……おあとがよろしいようで。
最後に、この項で取り上げました、すべての画像、写真につきまして、作者である吉田肉さんとCu_Dougallさん、またイラスト担当のまほそから、掲載に関する許諾を頂いています。同時に無断転載を禁じます)
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胃のなかの蛙が、グウと鳴くので
2014-12-13T18:11:17+09:00
まほそとトビスケ
NINJA BLOG
まほそとトビスケ
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燦然のソウルスピナ 第三話・第二十一夜:追跡者
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そして、すぐにもシオンの懸念は、現実の惨禍として顕現する。
その連絡を受けたのは、馬上でシオンがヒラリと同調してからだった。
昨夜のうちに、カテル市の衛星都市:ラダコーナが月下騎士の襲撃を受けた。
時刻的にはカテル市が襲来を受けたのとほぼ、同時刻だ。
月下騎...
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そして、すぐにもシオンの懸念は、現実の惨禍として顕現する。
その連絡を受けたのは、馬上でシオンがヒラリと同調してからだった。
昨夜のうちに、カテル市の衛星都市:ラダコーナが月下騎士の襲撃を受けた。
時刻的にはカテル市が襲来を受けたのとほぼ、同時刻だ。
月下騎士のひとりが、別動隊として動いた。
つまり、ヴァイツは自分たち本隊を、ある意味で陽動としたのである。
戦力の分散は、アシュレたち人間側のセオリーつまり、法王庁立アカデミーや兵科学校で悪手として教えられる基礎の基礎だ。
それも戦力的に数で劣る側が仕掛けるのは愚の骨頂だ。
だが、吸血によって体力の回復と手勢を生み出せる夜魔となれば話が違う。
ラダコーナへ潜入した月下騎士は手勢の補充と、さらなる混乱を巻き起こす役割をヴァイツに命じられていた。
正面からの交戦を避け、相手の疲弊を狙うゲリラ的戦術は、主に下級の夜魔に見られる行動で、少なくとも月下騎士団の精鋭が戦闘行動として採択したことはこれまで一度とてない。
誇り高き夜魔の騎士たちは、一騎打ちによって相手を打ち砕くことに強いこだわりを持っていたからだ。
だが、ヴァイツはそのこだわりさえ、勝利のために自ら踏みにじることを命じたのだ。
さすがのカテル病院騎士団も、これには翻弄された。
月下騎士が狙うとすれば追討の対象であるシオンか、法王庁の特使が逗留するカテル市のいずれかであろうと踏んでいたのだ。
手薄だった箇所を突かれたカテル病院騎士団員:二名が到着したのは、戦時に備えあらかじめ取り決めた定時連絡が途切れてから一刻が経過したあとだった。
致命的な二時間が過ぎた。
このときすでに、市民約百名が夜魔の下僕に成り果てていた。
ヴァイツの命令を月下騎士が忠実に実行した証であった。
おそらくふたりの到着があと半刻遅れていたなら、ラダコーナは完全に陥落していただろう。
ふたりの騎士が振う槍と剣が群がる群衆を刺し貫き、切り捌き、血臭と血煙が舞い、臓物と肉片と文字通りの血河が足元に満ちはじめていたそのころになっても、月下騎士は姿を現さなかった。
味方の、本来護らなければならぬはずの市民を、自らの手にかけなければならない――そして、このままでは鏖殺するまで凶行を続けねばならないという激憤に、ふたりの騎士が奥歯を割り砕かん勢いで歯がみしたそのとき、突如として、それは降ってきた。
ごしゃり、と重い音がした。人体が石畳に叩きつけられる音だった。
それからそれは、血脂に濡れた路上を滑ってきた。
ヒトではなかった。
それは全身に杭に似た楔を打ち込まれ、銀色に輝く糸でがんじがらめに捕らえられた月下騎士の成れの果てだった。
特殊な杭が、ときおり生き物のように月下騎士の体内に溜め込まれた血液を吐き出すせいで、血臭にワインの匂いが混じりはじめた。
夜魔の血液は、人類のそれとはちがい、まるでワインのように薫る。
アシュレがここにいたなら、すぐさま判別したことだろう。
「や! どーもどーも、ごくろうさん、ごくろうさん!」
夜魔の下僕と化した群衆の後ろから、無造作に彼らを掻き分けつつ現れたのは、ほかに誰あろう、イズマだった。
「捕まえておきましたよ? 《チェインズ・オブ・イセリアルベイン》をはじめとして転移系や変成系の異能を封じる異能や道具で、てんこ盛り括っておいたから、基本、手も足も出ませんよ?」
あの軽薄な笑いのまま、イズマは顔をあげかけた月下騎士の頭を上から足蹴にした。
だれよりも月下騎士に対する怒りを募らせていたカテル病院騎士団ふたりが、思わず目を剥くほどに非情で冷酷な扱いをイズマは見せた。
「んで、残りの下僕どもだけど――焼いとくね?」
イズマが言い終わるか終わらぬかのうちに、背後に火線が走った。
いつか見せた《クローリング・インフェルノ》ほどの規模でも熱量でもない。
だが、指向的に高熱の猛火を走らせる《コータライズ・ナパーム》の威力は、吸血鬼と化した群衆を薙ぎ払うには充分すぎる威力を持っていた。
返り血に汚れた騎士たちが、苦悶に喘ぎながら紅蓮の炎の中で死の舞踏を躍るかつての同胞の姿に言葉を失った。
「どったの?」
燃え盛る群衆の姿を振り返りもせず、能天気にイズマは問うた。
騎士たちからすれば心中は複雑だっただろう。
最大の脅威であった月下騎士は完全に無力化したうえで捕縛、下僕となった群衆は火によって清められた。これ以上ない成果のはずだ。
だが、イズマの態度にはどこにも誠意が認められなかった。さらには、この男は土蜘蛛であった。異人種である。これまで人類の敵対者、殲滅すべき仇敵として教えられてきた人外に属する者である。
グレーテル派の首長であるダシュカマリエ、騎士団長:ザベルザフト、そして筆頭騎士:ノーマンが認めた男ではあったし、先のフラーマの漂流寺院での一件――その武勲(いさおし)はカテル病院騎士団の全員が知るところだ。
そのなかでイズマが果たした役割を知らぬ者はいないし、異種族、敵対者であれ、その実力、実際に起された行動に対しては偏見なく認めていくのが戦士階級の気質だ。
こまかな文化や教義の差異について議論を繰り返すのが騎士の仕事ではない。
武勲は武勲、行動は行動、結果は結果だ。現実を認められない人間は戦場では死ぬしかないからだ。
それでも、イズマの軽薄なふるまいからは敵への、そして、死者へのあるいは死に行く者への敬意がまったく感じられなかった。ヒトとして示すべき悼みがなかった。
追い討ちのようにイズマは言った。
「あー、《コータライズ・ナパーム》はボクらが病魔とやり合うときに使う異能でさ、消毒的な効果もあるからさ」
それは、いま焼き払った人々を、いかに夜魔の下僕に成り果てたとはいえ無辜の民を「病原」と言い放ったに等しかった。
ついに騎士のうちひとりが食ってかかりそうになった。
イズマは慌てて掌を広げて見せて他意のないことを示す。
「ごめん、ごめんねぇ。考え方の違いをボクちん、ちゃんと理解できてないみたいでさ。気に障ること言っちゃった?」
そうやりとりを続けるイズマの背後に、同じく土蜘蛛の美女が降り立ちひざまずいた。
血と臓物と脂に溶けた雪で汚れた石畳が水たまりを作っている、その上にだった。
よく見れば、女の体はその表面に浮かぶようにしてあり、まるで汚れないことに気がついただろう。
もうひとりの騎士が武器を構えた。
だが、女はその騎士を一瞥すらせず、熱意のこもった視線をイズマに向け、言った。
「残敵を一掃してございます、マスター」
「ごくろうさん。あ、カテルのみなさん、これは敵じゃないから。いや、正確には敵だったんだけど、ボクちんの魅力(ミリキ、とイズマは発音した)で、もう完全に操り人形にしちゃったから、だいじょぶ」
あっけにとられたカテル騎士が質問した。
なにごとか、と。なにものか、と。
その質問にイズマは答えた。
「夜魔の侵攻に合わせるように、土蜘蛛の刺客もボクちんたちを狙ってたの。
んでまあ、今回の事件の戦力配分を見るにつけ、ちょっと盤面上の駒を奪ってをひっくり返しておこうと思ってさ。
あ、ちなみにこの子、土蜘蛛の凶手:ベッサリオンのエレヒメラ。とびっきりの美人しょ? なんなら、おにーさんがたの寝室に忍ばせましょうか? きょーれつよ?」
どこかの奴隷商人のような口調で言うイズマに、呆れ返ったのか、カテル病院騎士たちは閉口した。
「ま、とりあえず、捕まえたコイツを本部に連行しようよ。情報を聞き出さなくちゃならんし。あ、拷問はおまかせくださいましー。げーじゅつ的なやつをお見せするよ」
こうして、捕らえた月下騎士と下僕となった土蜘蛛の凶手を引き連れ、イズマがカテル島の中央指揮所――ノーマンが陣取る地下施設に向かったのは、ちょうど陽が昇る直前のことだ。
アシュレたちが短い仮眠を取っていたころと時間は重なる。
※
「ふー、まったくなんなんでしょうかね、こいつらこの団結力の強さはわ。はっきりいって、うぜーですね、ボク的には」
ジゼルが避難施設と化した旅籠を見下ろしながら言った。
ラーンとジゼルの宿泊する部屋は旅籠の離れ、高台にあり源泉にもっとも近い露天風呂からはその眼下に旅籠の施設を一望できる。
陽が昇るまで焼け出された人々の誘導や手当てに奔走していたジゼルは、乱暴に甲冑を脱ぎ捨て、兜を蹴り飛ばすとラーンを引きずるようにして戦塵を落しに来たのだ。
無論、ジゼルの異能を引き出す《フォーカス》:〈クォンタキシム〉は装身具の姿をしており、かつ、ジゼルが素肌で水源と接触を持っているときこそ最大の力を発揮する。
それを熟知した選択だった。
水辺ではジゼルに触れるすべての水が、彼女の武器であり甲冑なのだ。
「指揮権の委譲を含め、ザベルザフトにはあれこれ打診してみたけど『ありがたき申し出に、感じ入ります』『されど、わたくしめもカテル病院騎士なれば』『この程度のことでは、小揺るぎもいたしませぬ』『今夜にも、敵の首級を挙げて見せましょう』で切り返されちゃったよ。
なにを訊こうが、提案しようが融通の利かない猪武者のふりを決め込んでる。
こりゃあ、事前にだいぶん対策を施したんだろうね。ガードが堅くてつけ入る隙がない。頭の切れる古ダヌキほど手強いものはないよ。
それにしても、本拠地がこんなになっているのに姿を現そうともしないダシュカマリエという女は――いま、本当に手が離せないほどに切迫しているのか、それとも神経が太いのか。
強力な天啓の力によって東方の守護を任されるカテル島大司教位は法王庁が認めた正しい予言の力――〈セラフィム・フィラメント〉に拠るものだから、こちらも手を出し難いんだよなあ」
「“教授”、ぜんぜん困っているように聞こえませんよ。むしろ、なんか嬉しそうにボクには聞こえるし」
「んー、ゲームは難しいほうが燃えないかい? ま、わたしの嗜好なんてどうでもいいんだけれど」
煤煙に汚れた顔をラーンは温泉で洗った。本国の属するイダレイア半島もそうだが、このあたりの島々、沿岸は火山の影響で温泉には事欠かない。
ラーンが洗顔を終えると、いつのまにかジゼルが身を寄せてきていた。強い意志を示すはっきりとした眉の下から、勝ち気な瞳がラーンを見ていた。
「なにかね?」
「“教授”がそういう口ぶりの時って、もう攻略の手口をつかんだときですよね?」
ジゼルの断定的な問い掛けにラーンはかぶりを振って答えた。
「それはかいかぶり過ぎだよ、ジゼル。ただ……」
「ただ?」
問い詰めるようにぐいっ、とラーンに身を寄せてジセルは言った。
豊かな胸乳が触れるのも厭わない構えだ。
「妙だな、とは思ってさ。ほら」
ラーンはジゼルの追及の矛先を躱すように、背後を振り返った。そこからは一夜のうちに灰燼に帰したカテル市内と、その周辺で生き残った施設――この旅籠や一部の騎士館、カテル市の城塞などが一望できた。焼け出された人々がどこに集中しているのかも。
「なにかわからないかい? このヒトの流れから?」
「えー、だから、ボクは推理は苦手なんですよ。ヒント、ヒントください!」
「キミ、一瞬たりとも思考しなかっただろう、いま」
はー、とこれ見よがしにラーンは嘆息するが、ジゼルは馬耳東風と受け流す。
いいだろう、とラーンが折れた。
「このカテル島はグレーテル派の中核をなす教区だったよね?」
「そうですねー」
それがなにか、とジゼルは小首を傾げて見せた。胸の谷間を強調するように腕を組んでみせたのは、たぶん、意図的ではないはずだ。
「その施設群は病院も含めて、島の中腹から上方に密集している。避難民を受け入れるなら、延焼の危険性が高い市街近隣ではなく、そちらの施設群のほうだろう?」
あ、とようやく、という感じでジゼルが手を打った。
「なのに、なぜかヒトの流れは教会や病院施設にはほとんど流れていっていない」
「表向きは重傷者のみ、ということになっているがね、重傷者をわざわざ山の上の施設に運ぶかね? 戦時中に? 徒歩で、だよ? だいたい、上級の僧たちまでもがわざわざ山を下り、旅籠や軍事施設である城塞に機材薬剤を担いで出張ってきているのに?
もちろんカテル病院騎士団の誘導もあっただろうが、逃げ惑う市民たちからもある種の規律のようなものを感じたんだよ、わたしはね。事前に周到に準備され訓練された動きなんだろうね。戦時の決まりごと、というかさ」
でも、そこから見えてくるものがある。
「見えてくるもの?」
「カテル病院騎士団が、教団中核から民衆を隔離しようとしている意図、みたいなものがさ」
「“悪”の秘密結社、的な?」
ジゼルが真面目な顔で言うものだから、ラーンは思わず吹き出してしまった。
「“教授”ッ、ヒドッ、ボク、真面目だったんですからねッ!!」
「戦時に部隊を率いているときのキミと、そうでないときのキミのギャップはヒド過ぎるよ、ジゼル。だけど、そこがたまらなくカワイイわけだけれど」
続くジゼルのリアクションをラーンは軽くいなしながら推論を続けた。
「それは……推理が大胆すぎるけれども、秘密結社的である、という部分は真理を言い当てていると思うよ」
「つまり?」
「彼らカテル病院騎士団は重大な秘密を抱えている。法王庁にすら明らかにできないようなね? そして、その秘密はこの島が戦場となったとき、明確な攻撃対象となる。だから、戦時において市街に被害が出ても、避難施設として使用していない」
すべては民を守るため、と言えば聞こえはいいけれどね?
「? それってアシュレたちと、どう関係があるんです?」
「関係はないかも。
でも、カテル病院騎士団には後ろ暗いところがあって、アシュレたちがこの島にいることは昨日の戦端を開いた攻撃から確定で、なのに、アシュレたちがここにいることをカテル病院騎士団は知らないと言いきったわけだ。
そんなことってあるだろうか?
認めて差し出せば、それでいいはずなのにね? これはつまり、だとしたら、差し出せない理由があるんだよ。
そして、アシュレもアシュレだ。本当に無罪なら、どうして出てこない? ボクらが保護してやるのに――その出てこれない理由、後ろ暗いよねえ。
それでね……そういう後ろ暗さって、ぐるっと回ってどこかで繋がっているもんじゃないだろうかな、と思ってさ」
「! さすが、“教授”! 腹黒い! 汚い!」
「それは本当に褒めているのかい?」
「わー、どうしよう、もしボクが結婚したら過去の関係をネタに“教授”に強請られちゃう未来しか思い浮かばないー♡ 『あなた、ごめんなさい――でも、わたし、このひとに逆らえないのっ♡ みたいなー♡』 きゃーぁ♡ 『イクス様・ごめんなさい:神の端女は夜の下僕』みたいな、きゃーぁ♡」
ジゼルの精神はどこかに行ってしまっていて、荒い鼻息に身を捩らせる存在だけが現世にはあるのだった。ラーンはかけるべき言葉を持たない。
しばらくの沈黙の後、んんっ、咳払いしてからとラーンは言った。
「まあ、要約すると、近場にいるとわかった獲物の後ろを闇雲に追い回してみるよりも、ここがどんなところであるのか把握すること、彼らの協力者(つまりカテル病院騎士団)の思惑を探るほうが有益なこともあるという話なんだ。
ことによると、誘い込むことこそがアシュレたちの思惑であったり、踏み込んだらバックトラックだったってこともある。
キツネを狩るにはまずキツネ穴、ってわけさ」
すると、最終的に獲物を狙撃すべき場所もおのずと見えてくる、とわたしは考えているんだ。ラーンはそう話を締めくくった。
「狙撃、といえば、昨日はひやり、としました」
大筋でラーンの話の有効性を認め、現世に帰還したジゼルが言った。
「なんの話だね?」
「狙撃されるかもって思ったという話です」
「だれが、どこで?」
「わたしたちが、ですよ、“教授”。昨日のあの豪商宅の屋上で。あんなに背景の抜けがよくて周囲が開けていて、西の斜面、特に丘陵からは撃ち下ろしになる……絶好の狙撃点でしたから」
「それは〈シヴニール〉で、ということかね? カテル病院騎士の加勢に赴いたわたしたちを、アシュレ坊が? まさか、だね、それは」
笑って否定するラーンに、しかし今度はジゼルが食い下がった。
「わたしがアシュレの立場なら、撃ちました。もともと〈シヴニール〉はそうして運用するための兵器です。遠距離から施設ごと敵を消し去るための」
ジゼルの真剣さに、ラーンは表情を引き締めた。たしかに、と。
「たしかに、いまの聖騎士:アシュレは、かつてわたしが知っていた彼とは別人だと考えなければならなかったのだね。失念していたよ。気をつけねばならん、ということだね。相手を甘く見て判断を誤れば、それは即、死に繋がる、とキミは言っているのだね?」
こくり、とジゼルは頷いた。
ラーンもうなずき返して理解を示すと、こんどは逆に提案した。
冷えたジゼルの肩を抱き湯船に浸してやる。
「今後について、われわれの“関係”を深めるべきではないかな? それも早急に、効果的な方法で、だ。
そのあとお忍びで行きたい場所もできたな……まずは、キミが狙撃に最適だと評した丘かな? なにか残っているといいが」
※
「やはり、あったね」
数時間後、ジゼルとラーンのふたりは人目を欺く純白のコートを羽織り、昨夜アシュレたちが決戦を見守ったレモンの木々の間にいた。
気流の関係だろうか火事場となったカテル市から吹き上がってくる風に、延焼の匂いがひどい。風呂上がりだというのに鼻のなかに炭の粉をまぶされたような気分だ。
逗留先である旅籠では、ラーンの提案により、ジゼルがその異能《アニメイテッド・ウォータ》を使い、自分たちの代役を演じさせている。
意識、肉体を操る《アニメイテッド・ウォータ》によって繰り、顔面に展開した水被膜をスクリーンにして身代わり人形と化した女騎士と副司祭に、ラーンが異能を用い印象を操作する技を施したのだ。
パターンを逸脱するような状態に陥らないかぎり、まず見抜かれることはない。
雪の斜面を難なく歩くジゼルたちの足元にも、そして、少し離れるだけで視認を困難にする偏光レンズの護りも、すべてはふたりが卓越した《スピンドル》能力者であればこそだった。
夜明けには止んでいた降雪だが、ふたたび勢いを取り戻している。その雪さえもふたりには届かない。
戦闘の本職である騎士たちが習得を後回しにしがちな身体維持、体力温存のための異能をラーンは数多く習得している。
生きてさえいればかならず逆転の目はある、それにはまず、生き残る術に知悉し精通すべし、と考える不屈の精神がそこにはあった。
ラーンが爪先で示す先に、馬によって荒らされた雪原が広がっていた。
付着している体毛、糞の具合、蹄鉄の形式。足跡だけではない。残された痕跡のそのすべてが、雄弁に昨夜の状況を語っていた。
「ふたり、だねこれは」
「? “教授”、足跡は馬のもの、それに男性のもの……二種類しかありませんけど?」
「馬の蹄鉄が深くめり込んでいる。男の手綱捌き、足さばきもも妙だ。男の足跡から見て装甲していることは間違いないだろうけれど、重装というほどでもない。体重含めてせいぜい八十五ギロス程度じゃないかな?
それなのに、馬のほうはまるでもうひとり分の体重を引き受けたかのような足取りだ。
ホバークが雪に擦れた形跡もないから、馬も装甲はないね。
となると、もうひとりは我々のように異能で足跡を消すことができるのだろう。
男の側がだいぶ気を使っているね。大事な相手、敬うべき存在、という感じだ。手を引いて歩調を合わせている」
追跡の手がかりとなる痕跡を崩さぬよう気を使いながら、時間を遡るようにラーンは歩を進めて続けた。
「いかにも貴族のお坊ちゃんと姫君のやりそうなことだ。痕跡の後始末を考えたこともない、という感じだよ。野伏たちなら、こうはいかない。法王庁のアカデミーでは痕跡の隠滅までは教えないからね」
ジゼルが声にならない唸りを上げた。
ラーンの慧眼には感服するしかない。
異能などなくとも人間はその教養と知識・見識、観察力と推理の力だけで、ここまで相手に肉迫できるのだ。
「夜魔の姫、ですかね?」
「“反逆のいばら姫”――シオンザフィル。たぶん間違いないのではないかな?」
夜魔ならば雪上に足取りを残さない説明もつく。
「やはり、夜魔に魅入られていたか――たくっ、バラージェ家の男どもは、揃いも揃って……破滅願望でもあるのかな。ボクというものがありながら。なにが不満なんだろ」
ジゼルが胸甲をそらして強調するポーズを取ってみせた。たぶん『ゆさっ』というカンジのけしからん音がしたはずだ。鋼鉄の装甲で覆われてさえなかったら、の話だ。
「恋の業火に身を投じることは、理屈では説明しがたい狂気なのさ。それが破滅的で、成就が困難であればあるほど――恋愛はその当事者たちを物語の主人公に近づけてゆく。夏の終わりに、ランプの明かりに吸い寄せられる蛾のようなようなものさ」
その身が炎に焦がされて火だるまになるまで気がつかない。
あー、となにか心当たりがあるのだろうか、ジゼルが頬を赤らめた。
「どうかしたかね?」
「たしかに、さっきは燃えちゃったなー、と。アシュレのこと言えないや」
ジゼルの軽口にラーンが生温く笑い、口元をヘの字に曲げた。
「あれは一時的な同調回路を開くための儀式だよ?」
「あんなところまで入られて、ボク、もうお嫁に行けないんですけど? “教授”は責任取らない派ですもんね。でも、そういう鬼畜なところがスキ♡」
かまわず軽口を叩くジゼルだが、その目は笑ってはいない。
「まあ、アシュレ坊が夜魔に魅入られているかどうかは、まだ断定できないけれどね」
「聖騎士が夜魔の姫と連れ立っているってことは、そういうことでしょう?」
疑う余地などない、という感じでジゼルは断言した。
「穏やかじゃないね。じゃあ、もし、そうだとしたらどうするのかね?」
「火刑、ですかね? イクス教のその正統たるエクストラム法王庁の聖騎士としては」
「……婚約者としての発言とは思えないよ。まだ、解約したわけではないのだろう?」
「じゃあ、死刑で」
「ジゼル……キミの心の法廷には弁解や改心の余地はないのかね」
ラーンは額に手を乗せ天を仰いで大きく息を吐いた。灰色な空から雪片が舞い降り、呼気を白く染め上げていく。
「そうやってボクばかり情知らずの殺し屋みたいな発言させてますけど、“教授”はどうするつもりなんです? 所信を明確にしてもらわないと!」
ジゼルの剣幕にラーンは腕を組み唸った。こまったね、というジェスチャーだ。
「……とりあえず、尋問……かな?」
やっぱ鬼畜、とつぶやくジゼルの唇が艶めかしいのは、たぶん雪のせいだ。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-11-02T23:00:00+09:00
まほそとトビスケ
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燦然のソウルスピナ 第三話:〈ビブリオ・テーク・リヴ〉の夢(セーブポイント2)
※注意 ネタバレ ゾーニングとレーティングについて
以下のトピックには「燦然のソウルスピナ第三話」において、これまで語られました「第一夜〜第二十夜」までの概要が、すべて含まれています。
主なストーリーラインを明示してありますので「燦然のソウルスピナ第三話」を未読の方は、
これ以降に目を通さ...
※注意 ネタバレ ゾーニングとレーティングについて
以下のトピックには「燦然のソウルスピナ第三話」において、これまで語られました「第一夜〜第二十夜」までの概要が、すべて含まれています。
主なストーリーラインを明示してありますので「燦然のソウルスピナ第三話」を未読の方は、
これ以降に目を通されるより前に「小説:燦然のソウルスピナ」のカテゴリーに収録されている
「燦然のソウルスピナ第三話:第一夜〜第二十夜」をご覧になられることをオススメいたします。
同様に「燦然のソウルスピナ第三話」の冒頭にも「第二話のあらすじ」が配置してあります。
「燦然のソウルスピナ」についての概略・キャラクターの変遷を把握していただくには
最適と存じます。
ネタバレに注意しつつ、ご利用下さい。
また、第一話冒頭でも警告してありますように「燦然のソウルスピナ第三話」には
R15ないしCERO「D(17歳以上)」に匹敵する残酷描写、性的表現などが含まれます。
直接的な表現は避けるよう配慮していますが、閲覧に際し、
充分に、ご注意くださいますよう、重ねてお願いいたします。
□第三話:第二十夜を終えて(これまでのあらすじ)
夜魔の姫:シオン、古代の土蜘蛛王:イズマとともにオーバーロード:グランを討ち、さらにイグナーシュ領からの逃避行のさなかに遭遇した廃神:フラーマも、カテル島病院騎士であるノーマン、そして数奇な運命の巡りから知己を得たオズマドラの皇子:アスカリアの協力を受け、これを退けたアシュレは瀕死の重傷を負いながらも、目的地であるカテル島に辿り着く。
それから、約一月の間、アシュレとその仲間たちは肉体と心の傷を癒しながら、束の間の平穏を享受していた。
ファルーシュ海、西方世界の東端に位置するカテル島は、対アラム勢力との闘争、その最前線でありながら、その気候は穏やかで地勢にも太陽にも恵まれたこの世の楽園と呼べる島であったからだ。
傷ついた肉体を癒しながらリハビリを続けるアシュレ。
心臓を共有することとなったシオンから注がれる夜魔の血により、驚異的な回復力を持つに至ったその肉体は瀕死の重傷から、奇跡の復活を遂げる。
だが、順調に回復を遂げるアシュレと対照的に、イリスは激しい嘔吐感と全身を襲う激痛にさいなまされるようになっていた。
イリスベルダ・ラクメゾン――イリスは厳密に言えばすでに人類ではない。
かつて、アシュレが戦い、シオンと、そしてイズマとともに打ち倒したオーバーロード=か つてのイグナーシュ王:グランの孫娘:アルマステラと、アシュレの幼なじみ:ユニスフラウの融合体――いかなる《ねがい》も叶えるという《願望機》にして 《フォーカス》:〈パラグラム〉によって“救世主の母”としての役割を得た娘であった。
そして、イリスは“救世主の父”であるアシュレとの子を宿していた。
カテル島大司教であるダシュカマリエは、イリスの肉体を襲う苦痛の正体は、“救世主の母”としての改変がその身を襲うためだと見抜く。
そして、それが《そうする》力、《ねがい》によって仕組まれた受胎であることを知りながら、アシュレもイリスも、その誕生を願う。
そのためにはすみやかに、“救世主の母”としての改変を終えてしまわなければならないとダシュカマリエは指摘し、そのための儀式――それを可能にする巨大な《フォーカス》の前に、アシュレたちを導いた。
カテル島の山中、その地下に掘り抜かれた大伽藍深奥でアシュレたちを待っていたのは、度肝を抜くような光景であった。
それは、あの〈パラグラム〉に匹敵するほど巨大な装置:〈コンストラクス〉――。
まるで、異教の邪神、その遺骸のようなこの装置こそ、運命に抗いイリスを救いうる唯一の手段だと、ダシュカマリエは説いたのだ。
いつか、イズマが話してくれた語ってくれた、見えざる運命の帳の向こうに居座るという真の敵:《御方》――その語りに登場した《偽神》を彷彿とさせる姿に衝撃を受け悪寒を感じながらも、アシュレは決断を下していく。
カテル島は聖母再誕の儀式に向け、胎動を始めたのだ。
一方、ほぼ時を同じくして、夜魔の姫:シオンと土蜘蛛の王イズマは追いすがる敵の気配を感じ取っていた。
夜魔の国:ガイゼルロンが擁する月下騎士団。
そして、イズマを裏切り者と定めつけ狙う土蜘蛛の暗殺者:凶手。
脅威が迫りつつあった。
風吹きすさぶ月夜の晩、先んじて上陸を果たしたのは土蜘蛛の暗殺者教団:シビリ・シュメリが育て上げた凶手:エレヒメアであった。
その上陸を予見していたイズマは単身、これを迎え撃つ。
激しい攻防の末、紙一重の勝利を収めたかに見えたイズマだったが、それすら、凶手:エレの手の内であった。
己の用意した〈傀儡針〉:〈コクルビラー〉を逆手に取られ、打ち込まれたイズマは、ふたりの凶手の傀儡と成り果ててしまう。
人知れぬ暗がりでその暗闘が決着しつつあったとき、カテル島を目指し進む船団があった。
緋色の旗に染め抜かれた円十字――エクストラム法王庁から派遣された枢機卿:ラーンベルトと“聖泉の使徒”と呼び習わされる聖騎士」ジゼルテレジアを中核とする使節団である。
聖遺物管理課の長でもあるラーンの口からもたらされた法王:マジェスト六世の逝去、そしてその姪であり最年少にして史上初の女性枢機卿であったレダマリアが新法王に選出された、との報に、カテル島に衝撃が走る。
しかし、カテル病院騎士団を預かる団長:ザベルザフトは、その衝撃に動揺しているわけにはいかなかったのである。
なぜなら、枢機卿:ラーンと聖騎士:ジゼルのふたりこそ、エクストラム法王庁への帰還命令を無視してこの地に逃れたアシュレと、その一行の追討者であったからだ。
表向きの歓待、その裏側で激しい政治と諜報の戦いが繰り広げられる。
そして、百年に一度の異常気象。
舞い落ちる雪片とともに、最後の役者がこの地に足を踏み入れる。
悪魔の爪――そのふたつ名を持つ青き花:フィティウマをその家紋に頂く北方の夜魔の国:ガイゼルロンの騎士たち。
月下騎士団のなかでも実験的な側面を強く持つ残月大隊が、ついにその姿を現したのだ。
その侵攻を水際で食い止めるべく、アシュレはシオンとともに立ち向かう。
光条とプラズマ焔が交錯し、土煙と血臭がたちこめ、激しい剣戟と放たれる異能が降り積もり始めた雪化粧を荒々しく引き剥がしていく。
アシュレの初撃とそれに続いたシオンの〈ローズ・アブソリュート〉の一撃により、配下を失い激しいダメージを負いながら、だが、夜魔の騎士:ヴァイツはその優れた指揮官としての能力でカテル島を混乱の渦に巻き込んでいく。
紅蓮の業火に包まれる市街。
侵攻する夜魔の軍団とこれを迎え撃つカテル病院騎士団。
激しい攻防に、互いの血が、肉が、骨が削り取られ、命が散ってゆく。
その地獄絵図の夜の頂点で、ついにヴァイツはカテル病院騎士団団長:ザベルザフトと相対する。
死力と絶技の限りを尽くして戦うふたり。
ザベルの握る聖剣:〈プロメテルギア〉がヴァイツを捕らえた瞬間、ヴァイツの牙がザベルの左腕を引きちぎった。
上級夜魔であるヴァイツは、その血肉から、そこに溶ける《夢》から、ザベルが真に守ろうとしたものとその在り処を知ったのだ。
すなわち、“聖母再誕”の儀式と、すべての中心にいる娘――イリスベルダの存在を。
鉄風雷火の夜が明け、血の色の太陽が昇っても――まだ、まだ決着はついていない。
手負いとなり追いつめられた夜魔の騎士は、しかしその牙をいっそう鋭く研ぎ上げ、
暗躍する土蜘蛛の凶手、エレとエルマの姉妹はイズマを虜として策謀を巡らし、
エクストラム法王庁が投じた追討者たちが着々と、決して知られてはならぬ真実に肉迫する。
そして、カテル島は鳴動する。
歴史が、運命が、大きく動き出そうとしていたのだ。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-10-26T17:24:20+09:00
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燦然のソウルスピナ 第三話・第二十夜:夜魔の《夢》・ヒトの《夢》
「あの場で掃射しておくべきだったのかな」
思いがぽつり、と言葉になった。
ここはカテル病院騎士団が管理する小型の宿営施設だ。
異能者に率いられた少人数の戦闘集団が防衛戦闘時ゲリラ戦を仕掛けるための補給施設が、カテル島には無数に配されている。
言うなれば、この島全体が巧妙に要塞化さ...
「あの場で掃射しておくべきだったのかな」
思いがぽつり、と言葉になった。
ここはカテル病院騎士団が管理する小型の宿営施設だ。
異能者に率いられた少人数の戦闘集団が防衛戦闘時ゲリラ戦を仕掛けるための補給施設が、カテル島には無数に配されている。
言うなれば、この島全体が巧妙に要塞化された城なのだ。
その一棟にアシュレとシオン、そしてその愛馬であるヴィトライオンが潜り込んだのは明け方近くになってからだ。
シオンの探知能を頼りに撤退したふたりの夜魔を追跡したが、休眠に入ったのだろう彼らの足取りは途端に辿りづらくなった。
ふたりは人類側に分のある昼間に賭けることにした。
ヴァイツはデイ・ウォーカーではないからだ。消耗を避け、体力の回復に努める決断をした。
雪は降り続いていて気温は恐ろしいほど下がっている。
この小屋に潜り込んだとき全身に浴びた雪が解け汗と混じって、アシュレは濡れ鼠のような状態になっていた。
たまらず衣類を脱ぎ捨てた。冷えて濡れた衣類はたちまちのうちに体力を奪う。
鋼鉄の甲冑を着て夜中じゅう馬を走らせたのだ。鞍から降りる直前には震えが止まらなくなっていた。
衣服は絞って水を抜き、広げて吊るす。
積んであった麦わらと飼い葉の束を崩す。
秋に刈り取られ備蓄されたそれは真新しいそれで、裸のままヴィトライオンの身体を拭いてやる。
生還したら、一番最初に馬を労ってやれ、戦場をともに潜り抜けた戦友を思いやってやれ。それは父であるグレスナウから文字通り教鞭によって叩き込まれ、すでにアシュレの骨身に染み込んだ習慣である。
『馬は戦場でオマエに献身してくれる。だから、馬から下りたならその感謝をすぐに示すんだ。そのことを馬は忘れない。ヒトも同じだ。信頼はそうやって育むものだ』
アシュレの献身に、ヴィトライオンはうっとりと目を閉じる。
馬身からは湯気が上がりはじめていた。たっぷりの水、飼い葉を与える。
それを済ますと今度はようやく自分の番だった。
麦わらの束を床に五、六個並べ、その上にさらにいくつか崩すと、堪らずそこへ潜り込んだ。火が欲しかったが、アシュレたちは法王庁からはお尋ね者扱いだ。
人家から煙をあげれば居場所を報せるようなものだ。使用は最小限にしなくてはならない。
寒くとも我慢するほかなかった。
だが、よく乾いた麦わらは極上の断熱材だ。
「馴れたものだな」
濡れた髪を搾っていたシオンが修道服を脱ぎ、当然のように隣りに潜り込んできた。その仕草の一部始終を見て、アシュレの肉体は全身震えているのに反応してしまった。
「だが見慣れる、ということはないようだな? 法王庁では、珍しくなかったのではないのか?」
ははん? とシオンが意地悪な笑い方をした。
「いや、なるほど――そなた、けっこうよい趣味をしておるではないか?」
アシュレに習い干し終えた借り物の修道服を見返りながらシオンが指摘する。あぅ、とアシュレの喉からおかしな声が出た。
そのアシュレを追い詰める獣のようにシオンが覆いかぶさった。
きゅうう、とアシュレは鳴いた。ヴィトライオンが怪訝な視線を投げてくる。
「聖騎士さま、どうぞこの端女めに、お命じになってください」
王冠を脱いだシオンが、修道女の口調を真似て言った。
なにをッ?、と思うが口をついたのは自然な欲求だった。
「さ、寒い、です」
「はい」
「あ、温め……て、ください」
「ろ」
「は?」
アシュレはまた間の抜けた顔をした。
え? なんのことです、といいかけて歯の根が合わぬほど震える頭にもようやくシオンの言っていることが理解できた。
命令しろ、とシオンは言っているのだ。
「で、で、で、できませーん!」
震えているせいで呂律が回らず情けない声になる。
「そなた、これはお芝居ぞ? 訓練と思うがよい」
いや、あの、シオン、なんで、とアシュレの頭のなかをいいわけじみた単語が渦を巻くのだが、シオンの瞳に見つめられるとなにも言い返せなくなった。
「ボ、ごほんっ、オ、オレを、あ――温めろ、シオン」
尻すぼみにしどろもどろにアシュレはなりつつも、言った。
んー、とシオンが生ぬるい笑みを浮かべた。まあ、最初はこんなものか、というカンジの笑みだった。それから、愛を得た女の顔になった。
「はい、我が殿」
そうして、シオンは己の体温をアシュレに分け与えてくれた。
アシュレが先の言葉を口に出したのはその後、短い微睡みから醒めてからだ。
やけに鮮明な夢を見た。
昨晩の、豪商の屋根で行われたカテル病院騎士団団長:ザベルと月下騎士:ヴァイツの激闘だった。
アシュレとシオンはレモンの木の茂みから、あの息詰まる攻防を見下ろしていたのだ。
「凄まじい」
ザベルの絶技にシオンが感嘆の声をあげた。
舞い躍るような剣技を見せるシオンをしてそう言わしめるほど、ザベルの戦いぶりは極まっていた。
短命ゆえ、切り飛ばされた器官を再生などできぬがゆえ、それどころか一太刀でも浴びれば致命傷となるゆえ、それゆえに極限まで練り上げられ、削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた武術がそこにはあった。
そして、運命の一瞬。
一見、双方痛み分けに見えながらも、その実、夜魔であるヴァイツに勝負の軍配が上がりかけたあの瞬間、またその直後に訪れた逃走直前の女夜魔=アーネストにジゼルが肉迫した瞬間――その二回、アシュレは同胞もろとも夜魔を打ち抜くべきか、との思いに捕われてしまった。
二匹の獰悪な魔物――恐るべき再生能力を有し、吸血によってまたたく間に自らの手勢を構築してしまう市街地においては最悪の敵を仕留めるために、その一見非情な決断が必要な場合すらある。
人類の敵対者――特に夜魔との闘争において一千年に渡る歴史を有するエクストラム法王庁、その最精鋭である聖騎士たちは、候補生にあたる聖堂騎士時代から、徹底的に戦闘教義を叩き込まれる。
すなわち――味方が堕ちそうなとき、あるいは確実に夜魔を屠れそうな勝機に、躊躇するな、と。
夜魔との戦いはまさしく瞬間的な判断力がものをいう世界だ。
たとえば人間は腕一本落されただけで行動不能に陥ることが、ほとんどだ。
ものの数十秒もあれば死が訪れる。
だが夜魔はそうではない。
驚異的な再生能力でまたたく間にその肉体を復元し、躊躇する間に犠牲者を《影渡り》で連れ去ってしまう。連れ去られた同胞に再会したとき、彼や彼女はすでに夜魔の眷族――吸血鬼に成り果てている。
だから、味方を巻き添えにしてでも仕留めなければならない瞬間がある。
だが、これまでアシュレは聖騎士として、ただの一度も、まだ生きている同胞を巻き添えにしてまで勝利を得ようとしたことがなかった。そういう戦場を経験したことがなく、また自分にそのような判断ができるものか、確信がなかった。
まさしく、訓練と実戦は違う。叩き込まれた戦闘教義とアシュレ自身の道徳観念は大きく違う。
アシュレにとって仲間は、また同胞は救うべき、そして護るべき対象だった。
だが、今夜、その認識に変化があった。
それはグツグツと怒りに煮え立つ脳の中心に、霜がつくほど冷えた刃がすっと差し込まれるような、鋭利な感覚だった。いまだ両家が取り交わした約定の上では自らの許嫁であり、幼なじみであるジゼルが射線上にいるというのに、アシュレは異能を発動させるべく〈シヴニール〉に《スピンドル》を通しかけた。
目覚めたとき、寝汗もかいていなかった。ただ、醒めた興奮だけがそこにはあった。
「撃つべきだったのか」
もう一度つぶやき、アシュレは右手を虚空にかざした。
室内に明かりは、ない。今夜は雪雲に閉ざされ月どころか星もない。
暖炉の炎さえ、ここにはない。閉じられた建屋の中はだから漆黒の闇、眼前にかざした手を見ることもできぬはずだった。
それなのにアシュレは室内を、そして自らのかざした腕を、なに不自由なく見渡せる不思議に、いまさら気がついた。
「これって……」
「さまざまな夜魔の特性が、そなたのヒトとして父母から与えられた肉体に取って代わろうとしているのだ」
左手にシオンの温もりがあった。目覚めていたのだ。
「そうか……この心臓は、シオンのものだものね」
アシュレは外気で冷えた右手を自らの左胸に当てた。とくとく、とそれは規則正しく拍動している。
そのアシュレの右手にシオンが縋るように身を寄せてきた。
「夢を視たのであろう?」
「ああ。すごいね、シオン。なんでもお見通しだ」
うん、とアシュレは応じシオンに正対するように姿勢を変えた。
「さっきの戦闘の夢さ。びっくりするほど鮮やかだった」
「同じだな。わたしもだ」
夜魔はそうやって何度も終えた戦闘の分析を行い、後の対応策を検討するのだとシオンはレクチャした。
「手強いわけだよ。ボクらが集団で、それも文字や図像を駆使しなければできないことをキミたち夜魔は個人で、もっとずっと高度なレベルで可能にしてしまっている。でも……それを、ボクはできるようになりつつある、ってことか」
「正確には、いまのは、わたしの夢と同期したのだろう。隣りで、肌を合わせて眠ったから――」
「恐いくらい、冷静だった。冷酷で非情な――でも、どうしても必要な決断を、ボクは下そうとしていた。考え、実際に射線に捕らえて……でも、思いとどまった」
そこまで言ってから、アシュレは、ハッとなった。
わたしの夢に同期した――とシオンは言った。だとしたら、あの判断は――。
そう思いいたり、シオンに視線を向けなおしたとき、アシュレはすべてを悟った。
あの感覚、あの判断能力は――シオンから流入したものだったのだと。
シオンの深い紫色の瞳が濡れて、揺れていた。それでアシュレには充分だった。
先ほどまでの、場違いなほどはしゃいで見せたシオンの態度は、恐れと申し訳なさと改悛の現れだったのだ。
「そうか――あれは、キミの意識が流れ込んできていたんだね」
アシュレは言い、シオンが口を開く前に抱きしめた。
すまなかった――アシュレの腕のなかで、それでもシオンは謝罪した。
いいんだ、とアシュレは微笑んだ。
「あんなに厳しい判断を、何百年もキミは繰り返しして、そして、それを何千、何万回も繰り返し夢に見て……ずっと戦い続けてきたんだね」
アシュレは優しくシオンの髪を撫でた。
「つらかったろうに」
「わたしは――その、その業苦を……そなたに押しつけた」
責められて当然だと思っていたのだろう。
恨み言のひとつもあってしかるべきだと考えていただろう。
そのアシュレに逆に気づかわれ労られて、普段気丈なシオンが子供のように泣いていた。
アシュレは無言でシオンを撫でさすった。なんども、なんども。
「押しつけられたなんて思っていない。わかち合えたんだ」
「バカ。わたしは、そなたを……人外のものにしようとしているのだぞ? それも、最低のやり方で……肉体だけではない。わたしの考えを、そなたに流し込んだのだ」
「キミはボクを助けようとしてくれた。だから、ボクはまだ生きていられる」
アシュレの言葉に、そうしていないと自身の誇りが許さないからだろう、まなじりをきつく固めてシオンが言った。
「はじめて出会ったとき――そなたは言ったな? 不名誉な生よりも、名誉ある死を選ぶと。あのとき、フラーマの漂流寺院が炎上し、海中に没しつつあったあのとき、もし、わたしが私のエゴを捨てて、そなたの選択を尊重していたら、そなたは間違いなく英霊の列に加われただろう」
それなのに、わたしは、こわくて、ひとりになってしまうと感じて……、そなたに外道の法を施した――そなたの尊厳を踏みにじった。
「胸を断ち割り、私の臓腑と命を――《アルジェント・フラッド》を――流し込んだ」
シオンが叫ぶように言った。
「徐々に己がヒトではなくなる恐怖をそなたに味合わせることになると、考えられもしなかった! ヒトが夜魔のように記憶を完全に保ち続け、うなされ続けることになる未来にどれほどの苦痛が待ち受けているのか、考えもしなかった!」
どうやって償っていいのか、わからない。
「そなたは、これから、半人半魔の生を歩むことになる。はじめは耐えられるであろう。けれども、だんだんとわかるはずだ。永劫に続く生と、その繰り返しが生み出す苦痛――“地獄”のことが。記憶の牢獄、血の渇き、そして、自分がもう人々のなかに混じれぬと知る――ぜんぶ、ぜんぶ、わたしの汚らしい独占欲のせいだ」
こんなに取り乱したシオンをアシュレは初めて見た。
だが、アシュレの声はますます優しい。
「いま“地獄”と言ったね、シオン? キミはいままで耐えながらそこを歩いてきた」
優しく言われ、シオンがちいさく喉を鳴らした。
「そんな場所に、キミをひとりで置いておけると思うの? それを知っていながら? ボクがそれで平気な男だと、キミは思うの?」
もし、いまボクの身に起こっていることが可能なのだと知っていたら……ボクのほうから言い出したかも、だよ?
わけ合えて、よかった。屈託なく笑った。それは心の底から湧出た、笑みだった。
それがアシュレの芯――本当に深いところから現れたものだと、肌を合わせるシオンには手に取るようにわかる。
シオンにはもう、言葉がない。
そのとき、アシュレの唇がなぜかすこしだけ意地悪なカタチになった。
「ははーん」とアシュレがひとり合点した。
「え?」
泣き濡れて、アシュレの器に触れて感動に打たれるシオンにはその意味が、まったくわからなかった。
「それで、“命令”しろって言うんだね? ボクに奉仕して許されてる実感が欲しいんでしょ? “ひどい命令”をしてもらって、すこしでも罪を贖いたいって思ったんだ?」
「な、な、な、な、なあああああっっ!」
ななあああああああっ、とシオンが身を起しながら言った。
「ちっ、ちがっ、あれは、こう、帝王学の、教育的なっ」
「的な?」
にやにやと精一杯ゲスな作り笑いを作ったアシュレの顔に、シオンは麦わらの固まりを投げつけた。
「ち、ちがうわい!」
「シオンって、動揺したり焦ったりすると、言葉遣いがおかしくなるんだね」
図星だったかな? 口に入った麦わらを吐き出し、なおも投げつけられるそれを手で庇いながらアシュレは言い募った。
シオンの顔は耳まで真っ赤だ。
「そなたっ、イズマの悪い部分ばかり学びよってッ!!」
「悪党になるって決めたからね。練習しているのさ。ところで、シオン、“命令”なんだけど?」
「わー、もう、しるかー! あれはお芝居のなかだけの話だ! 武装を整えるぞ! そなた、食事を用意せよ!」
わら屑をまき散らしながらシオンは立ち上がった。
こらえ切れずアシュレは笑う。そのせいで飛びかかってきたシオンをガードできない。
※
周囲を海に囲まれたカテル島の夜明けは早い。
小屋を出ればすでに朝日が昇ってきていた。横薙ぎの光は赤く、血のようだ。
奇妙な空だった。
遠くは完全に晴れ渡っているのに、カテルとその周辺の島々に限って雪雲に覆われている。局地的な天候操作を疑うべき状況だった。時刻とともに太陽は雪雲に隠れてしまうだろう。
アシュレはシオンを振り返り、夜魔たちの動向について質問した。
だが、シオンは首を振るだけだ。あの異常な雪雲を降らせているあいだはいることは間違いなかった。
「どこか、それほど遠くない洋上に全体を偏光空間でカモフラージュした軍船がおるのだろう。島の周囲に、かならず」
とシオンは言った。
だが、昨夜、棺桶をかたどった強襲揚陸艇を使用したことからみても、夜魔たちの《影渡り》では船には帰還できないのだ。距離がありすぎるのだ。
「活動を再開しさえすれば、捉えてみせるのだが……息を潜められると、よほど近くにおらねば捉えきれん」
「その探知能力も万能、というわけではないんだね」
「なにごともそうだ。近くに強い存在がいると、それに紛れて遠くのものは知覚できなくなってしまうし。大きな波に小さなそれが呑まれてしまうようなものだな」
技術ではなく、感覚だからな、これはあくまで。そうシオンが言った。
いずれアシュレにもそのような能力が備わる日があるかもしれない。その時のために、レクチャしてくれたようだった。
「こういうときにこそ、イズマがおれば、あやつの占術でポイントを絞り込めるのに」
口惜しげにシオンが言う。
尼僧の服とアシュレの衣類が、どこからともなく湧いて出た。
いや、どこからともなくというのは語弊がある。シオンの異能:《シャドウ・クローク》だ。これもまた夜魔に特徴的な異能で、異相をずらして括った自分だけの密閉空間を作り出す能力だ。
衣装持ちの高位夜魔は必ず、こうやって多数の衣類を持ち歩いている。
「なんで、昨夜のうちに出してくれなかったの?」
パンを煮崩しペコリーノチーズとオリーブオイルで味付けした粥を食べながらアシュレは言った。薪ではなく備蓄されていた炭を使う。薪に比べ煙が少なくて済む。焚きつけは藁だ。
そして、この料理は煮込む必要がなく、簡単にできるので火気の使用が最低限で済むこと、食べやすく、すぐにエネルギーに変換されることから、じつは古代アガンティリスの軍勢もよく食していたメニューだった。
訊いた途端、アシュレはシオンの手刀で頭を叩かれた。けっこう強く。
おかげでむせてしまった。シオンは真っ赤になり、顔を逸らしてしまった。
むせている間に、話題を逸らされた。
ともかく、だ。アシュレも思考を切り替えた。
「それでも至近まで近寄れば、いることがわかるだけでも、たいへんなアドバンテージなんだ。こうなったら、とにかく、考えられる場所をシラミ潰しにするしかない。夜が来るより早く、相手を見出さなくちゃ、だ」
アシュレはヴィトライオンに跨がり、シオンの騎乗を助けた。
ふたりを乗せたヴィトライオンは夜明けのカテル島を疾駆する。
朝焼けの赤に染め上げられた雪が巻き上げられ、血の河を渡る神話の英雄たちのようにふたりの姿を見せるのだった。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-10-19T10:51:06+09:00
まほそとトビスケ
NINJA BLOG
まほそとトビスケ
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http://crucrucible.blog.shinobi.jp/ss03/ss03eps19
燦然のソウルスピナ 第三話・第十九夜:鮮血の夜
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少数精鋭の、とくに《スピンドル》を代表とする異能力者集団を相手取った拠点防衛戦闘は、大軍相手のそれと様相が著しく異なる。
そびえ立つ城塞も、堅固な要塞も、異能者たちの進軍を阻む要因になることは、ほとんどない。転移、次元跳躍、物質透過、重力方向の変更さえ行うこと...
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少数精鋭の、とくに《スピンドル》を代表とする異能力者集団を相手取った拠点防衛戦闘は、大軍相手のそれと様相が著しく異なる。
そびえ立つ城塞も、堅固な要塞も、異能者たちの進軍を阻む要因になることは、ほとんどない。転移、次元跳躍、物質透過、重力方向の変更さえ行うことのできる彼らとの戦いは、だから常識的な防衛ラインである城塞や砦を飛び越えて、都市主要部であったり、要人邸内で行われる可能性が非常に高い。
西方世界での戦争の多くが主戦場で決着をつけるか、限定的な戦略拠点を争うかによって決することが多いのは、互いが互いの首都に能力者集団を送り込む戦いを続けると首脳部である王族・貴族階級が疲弊しすぎるため、またそれ以上に都市の生産機能・生活機能が灰燼に帰すため――つまり占領する意味を失う――という暗黙の了解からであった。
これはまったくの余談だが、その戦場にわざわざ名前がつけてある場合すらあり、戦地を互いが指定しすることさえあるのだ。建前上、領民を巻き込まない戦争、というわけだ。
だから、この夜、行われた夜襲は西方世界本土であれば、間違いなく未曾有の大混乱を巻き起こしたに違いなかった。人類の王侯貴族たちが、自分たちの都合で造り上げた「人道」というルールの外側に、それは属していたからだ。
けれども、そこで待ちかまえていた騎士団は、ただの軍隊ではなかった。
炎上と同時に増員されていた夜警たちが市民の避難誘導に動いた。
そして、潜んでいた騎士たちが刃を引き抜いた。闇に紛れるため身に纏っていた外套を脱ぎ捨てれば夜目にも鮮やかなオレンジのサーコート。
カテル病院騎士団、その精髄である能力者が四名、配されていた。
そのなかには法王庁使節の歓待を終え、駆けつけた騎士団長:ザベルザフトの姿もあった。
カテル病院騎士団は戦闘要員としての一般兵を、この戦地にほとんど配していなかった。投入されたほとんどの騎士たちは城塞や教会へ向かう市民を誘導し、夜魔の引き連れる従者や軍狼から防衛するためだけに武器を構えていた。
この時点で夜魔側の残存戦力はヴァイツ旗下:月下騎士団:残月大隊:騎士二名、少年従者:四名、軍狼:二頭。
対するカテル病院騎士団はカテル市の防衛にあてられたザベル旗下:《スピンドル》能力者の騎士三名という構成であった。
最初の交戦で少年従者のうち二名、軍狼のうち一頭が切り捌かれて、路上に屍をさらした。
高度な治癒能力を持たない下級の夜魔である従者や軍狼の肉体は、ただの炎でも巻かれれば致命傷になる。
カテル病院騎士たちはふたり一組となり、街路から襲いかかるそれら人外の獣に冷静に対処した。
盾をハンマーのように使い、戦鎚の嘴のように尖った切っ先で相手を捕らえては、そのまま燃え盛る家屋に放り込んだ。
内側から伝導される《スピンドル》エネルギーに加え、外側からは燃え盛る炎に巻かれて生けるたいまつと彼らは化した。
カテル病院騎士たちもまた、実戦で鍛え上げられたプロフェッショナルだったのだ。
月下騎士が相手ならいざ知らず、人外のものとはいえ、軍狼や従者に遅れをとりはしなかった。
「なかなかよい燃えっぷりではないか。さて――シオンザフィル、どう出る?」
だから、塔を備えた豪商の屋敷の屋根に陣取り燃え盛るカテル市を眺めていたヴァイツが戦況を知るのはその直後だ。
ぶんっ、と空を切る音がしてなにかがヴァイツの足元に投げ込まれた。
それは数メートル手前で屋根に落ち、そのまま雪の上を転がってヴァイツの足元に辿り着いた。
「リンデニオ」
それはヴァイツの寵愛する少年従者の名であった。
右腕の肘から先がなかった。長く伸びた爪が叩き折られ、牙が砕かれていた。そして、明らかな致命傷は《心臓》に突き込まれた一突き。剣によるそれは、周囲が炭化しグツグツと血液が沸騰していた。強力な《スピンドル》の回転が、リンデニオの内側から臓腑を徹底的に破壊したのだ。
「おう、ここにも季節外れの蚊がいたか」
長い年月に耐え、煤によって磨かれて鉄と見紛うばかりになった太い梁のように味わいのある声が、冷気と高温とがかわるがわるに渦を巻く風に負けることなく届いた。
カテル病院騎士団騎士団長:ザベルザフト、そのヒトだった。
「なにか、家畜が喚いているな」
ヴァイツがリンデニオの死体に屈みこみながら言った。
交わされた言葉は〈エフタル〉ではない。互いに祖国の言語だった。
もちろん、ふたりとも〈エフタル〉には精通していた。
アガンティリスの時代がすでに三千五百年以上の昔にすぎても、その時代の言葉〈エフタル〉がこのゾディアック大陸での人種を越えた基礎教養であることに変わりはなかった。
互いに言葉で意思疎通するつもりはないと、ふたりは言下に表したのだ。
刹那、横合いから襲いかかった軍狼の最後の一頭をザベルは切り捌いた。
そして、己の下僕がその命を賭して作り出した隙を、対するヴァイツは無駄にしなかった。
ビュウ、と鮮血に濡れた〈ヴァララール〉が唸りを上げ、刃と化した超高速の肉片が刃を振り切ったザベルめがけて襲いかかった。《グルートニー・クイルズ》。己の血肉を飛来する罠として打ち出す最悪の飛び道具だ。
必殺の間合い。
せまく滑る足もとでのそれは、決して躱すことのできぬ攻撃のはずだった。
だが、ザベルはありえぬ足さばきを見せた。《ラピッド・ストリーム》!
かつてアシュレたちと同道したオズマドラ帝国の第一皇女:アスカリアが見せた異能を、カテル病院騎士たちは使いこなす。雪で滑り、せまく不安定な――圧倒的に夜魔にとって有利な交戦点に躊躇なくおもむけた理由だった。
水面上でさえ疾駆することを可能にするこの妙技は、おそらくアラムの能力者が得手だったのであろう。足場の悪い砂上での戦いが生んだ技なのだ。
そして、カテル病院騎士であるザベルがそれを習得するのは、互いが数百年に渡り交わし続けてきた戦火が、その技を伝播・学習させたに違いなかった。
そして、ここカテル島は常にその最前線だった。
迫り来る獣を切り捌いた方向へとザベルはさらに加速することで《グルートニー・クイルズ》を躱したのだ。
ヴァイツの放った《グルートニー・クイルズ》は軍狼の死体にぶつかり、まだ死にかけのそれを食い荒らした。
ぬう、と走り込むザベルに正対するようにヴァイツが矛先を変える間に、屋根にはもうひとりのカテル病院騎士が姿を現した。
だが、二対一であったのは一瞬だった。
空間の歪む音とともにもうひとりの月下騎士が現れたからだ。
戦局は目まぐるしく変転する。
その月下騎士は女だった。アーネスト。左手の〈ガラハッド〉が猛炎を発した。
カッ、とそれまで炎から免れていたはずの高台が一瞬、紅蓮に染まった。
屋上に辿り着いた新手のカテル病院騎士はその業火を、しかし転がるようにして回避した。
長剣の腹で突き込まれてくる〈ガラハッド〉の切っ先を逸らす。
返す刀で切り上げるように放った斬撃にアーネストのスカートが切り裂かれた。
息を呑むような攻防。
その間にザベルが間合いを詰めた。
斜面を駆け上がる疾風のごとき肉体が、甲冑の重量と《ラピッド・ストリーム》の加速力が可能にした巨大な運動エネルギーを纏い、文字通り弾丸となってヴァイツに襲いかかった。
ギィイン、と火花に続いて刃の打ち合わされる凄まじい金属音が上がった。
ザベルの剣が白熱していた。
カテル病院騎士団団長に代々受け継がれた至宝・〈プロメテルギア〉。
ノーマンの扱う〈アーマーン〉が絶対的な破壊を司るのであれば、ザメルの携える〈プロメテルギア〉は持ち手に活力を与え、死地の戦場に留まり続けるための《ちから》を与える不破の剣である。
握り続けるだけで肉体が活性し徐々に体力を回復させ続けるだけでなく、その肉体の機動、制御に《意志》の力で干渉できるようになる。
つまり、〈プロメテルギア〉の持ち主は、その予感や未来予測――勘までを含めた感覚、知覚、思考の速度で身体を統御できるようになるのだ。
それは〈プロメテルギア〉という《フォーカス》を鏡にして、外部から己の挙動を確認しながら操作することだ、と言い換えてもよい。
ゆえに、その力は使用者の鍛練と技量、精神の強さが如実に反映される。鍛練の足りぬものが振ったところで、真価は発揮できぬ、そういう剣であった。
ザベルはその意味で、この時代、屈指の騎士であった。
その正確無比の挙動に、うぬ、と上級月下騎士であるヴァイツが瞠目し、うめいた。
東西の別なく、その並ぶもののない不死生と高い戦闘能力によって夜の支配者の名を欲しいままにしてきた月下騎士、その最精鋭が目を剥くほど、ザベルの斬撃は速く、かつ重かった。
ヴァイツの武具が同格の《フォーカス》:〈ヴァララール〉でなけれは受けた剣ごとまっぷたつになっていたであろうほどの一撃だった。
強力なエネルギーを刃に伝導させ、夜魔の肉体にさえ致命的なダメージを与えうる戦技:《オーラ・バースト》。ザメルはわずか一呼吸ほどのうちに己の移動能力を高める《ラピッド・ストリーム》と攻撃用の異能である《オーラ・バースト》を扱って見せたのだ。
なんという練達だろうか。
カテル病院騎士団団長の見せた――《スピンドル》への精通具合であった。
「やるではないか、ヒトの騎士よ!」
思わず、ヴァイツは〈エフタル〉でザベルに称賛を浴びせた。広げられた獰猛な笑みが隠されていたヴァイツの犬歯をあらわにした。
だが、ザベルはニコリともしない。無言でさらに一歩踏み込む。
みしり、とすでに還暦に迫ろうかというザベルの肉体が鎧の下で音を立てた。
第三の技:《インドミタブル・マイト》。
鋼鉄の壁が迫るような圧力をその一歩は宿していた。
家畜と侮っていた人類の老騎士に押し込まれ、ヴァイツは一歩、後退った。
瞳がさらに見開かれる。
だが、それ以上は下がらなかった。
ザベルの肉体がそうであるように、ヴァイツのそれもまたダンディに着こなされた夜会服の下で膨れ上がった。
夜魔の血脈――《ミディアンズ・ブラッド》と呼ばれる異能を、ヴァイツは解放したのだ。
《インドミタブル・マイト》が《スピンドル》により己の身体能力、特に筋力とそれを支える骨格を瞬間的に強化する技だとするなら、《ミディアンズ・ブラッド》は夜魔が捕食しその内側に溜め込んだ犠牲者の血、その記憶――《夢》を解放する技であった。
ぐう、とヴァイツの上背が大きさを増した。
それは比喩でも何でもない。
体内に溜め込まれていた血液を戦闘的な燃料として肉体へ送り込んだ証拠だった。
もし、ヴァイツの肉体が露出していたなら、ザベルは見ただろう。
その血流の激しさに耐え切れなかった毛細血管が破裂し、夜魔の再生能力によって即座に再建される過程が引き起こす、体表面を走る青黒い蛇のような模様のうねりを。
押し込まれた一歩を、ヴァイツが押し返した。
もし、そこでザベルがこのまま騎士としての意地の張りあい――鍔迫り合いに執着していたなら、勝負はヴァイツのものだった。
ヴァイツの佩刀:〈ヴァララール〉がその刀身を、まるで二枚貝がそうするように開いた瞬間を、ザベルは見逃さなかった。シールドを割り込ませながら即座にバックステップを切っていなければ、終わっていた勝負だった。
ごぶり、と水袋があふれるような音がして〈ヴァララール〉が血塊を吐き出した。それも無数の牙と顎を備えた。
夜魔の持つ他者を生きたまま捕食する性(さが)が、最悪の異能として顕現した姿がそこにはあった。《プレデション・タスク》。望めば全身を捕食器官と化すことさえできる夜魔の能力を、射出可能なカタチに〈ヴァララール〉はする。
鋼鉄製のシールドは一秒持たなかった。
耳障りな音とともに、火花が飛び散り、まるで紙を破るかのような容易さで無数の牙がそれを噛み砕いた。
そして、次の瞬間、さまざまなことが同時起こった。
神懸かり的な判断能力でシールドを手放したザベルが飛来する血塊を一刀両断する背後で、くぐもった悲鳴が上がった。
背後で戦っていたカテル病院騎士の脚に、軍狼の死体が襲いかかった。
それは先ほど、ザベルによって切り捌かれ、完全に息絶えていたはずの死骸であった。
ガイゼルロンの軍狼が、いかに夜魔に近しい再生能力を持っていても、《フォーカス》によって収斂された達人の《スピンドル》エネルギーを受けては絶命するほかない。
だが、そこにからくりがあった。
ヴァイツの初撃、〈ヴァララール〉の《グルートニー・クイルズ》による射撃攻撃は、ザベルが躱すことをあらかじめ予測し、軍狼の死骸を狙って放たれた一撃であったのだ。
夜魔はその血を持って、下僕を生み出すことができる。
そして、生ける罠:《グルートニー・クイルズ》の弾体は、他になにあろう、ヴァイツの肉体そのものであった。ほとんど死にかけ、伝達される《スピンドル》エネルギーによって破壊されていく軍狼の肉体にヴァイツはそれを植え付け強引に動かしたのだ。
通常であれば、手練れのカテル病院騎士が、鈍重な攻撃速度しか発揮できない木偶に等しい動死体を避けることなど簡単だっただろう。
だが、戦場ですでに完全に死滅したと判断した死体が、突如として攻撃を仕掛けて来たとなれば、それは話が違ってくる。
そして、その攻撃は女夜魔:アーネストの猛攻によって巧妙にカモフラージュされていたのだ。
完全に死角であった足元からの強襲、そしてアーネストとの挟撃を受け、若年の騎士が敵の手に落ちた。
夜魔たちが狡猾であったのは、それだけではなかった。
アーネストはわずかな時間、相手の自由を奪う《パラライズ・ボルト》を行使した。
効果時間が短く、対象によっては効きが甘いことあり、殺し合いの最中に使うような技とは言えないそれを、アーネストは必殺の殺傷力を持つ〈ガラハッド〉の大技を目くらましにして成し遂げたのだ。
動きの止まった騎士のチェインコートが破り裂かれ、首筋があらわになった。
そこにアーネストは牙を突き込んだ。
大胆にもこの場で、騎士を殺さず、吸血によって下僕と化そうというのだ。
これには、しかし、たいへんな効果があった。
もし、アーネストが騎士を一撃の下に屠っていたのなら、ザベルは迷わずヴァイツとの戦いを続行していただろう。死者を振り返るな。それは戦場での習い性であり、掟であり、鉄則だった。
生きながら吸血され、下僕に落される恐怖に騎士の喉から絶叫が上がった。
それでも震える手で小剣を引き抜き、己の背後にいるアーネスト共々貫こうとする気概を騎士は見せた。
それをアーネストは虫けらを踏みつぶすような無慈悲さで阻止した。
数十秒で吸血は終了する。そうなれば、その騎士は夜魔の下僕と化す。
ザベルがその若い騎士を助けるべくヴァイツに背を向けてしまったのは、単に仲間の命への献身からではなかったはずだ。
夜魔たちに手駒を補充させない、そういう判断があったはずだ。
だが、それは明らかな失策だった。
そして、その失策があきらかだったからこそ、ヴァイツは飛び道具ではなくあえて手応えを実感できる白兵を選択した。
冷徹な老騎士が、土壇場で仲間の命に拘泥した隙を捕らえたのだ。
ザベルが背を向け数歩、《ラピッド・ストリーム》によって加速された能力で仲間の窮地に駆け出そうとしたのと、ヴァイツが《影渡り》によって掻き消え、その背中に迫るのはほとんど同時だった。
だが、勝利の確信に〈ヴァララール〉を振り上げたまま短距離の次元跳躍を終えたヴァイツが見たのは、回転しつつ振り返りざま袈裟懸けに切りつけてくるザベルの姿だった。
仲間の元へ駆けつける姿でさえも、フェイントだったのだ。
常在戦場を己の御旗として掲げてつづけてきたカテル病院騎士団、その騎士団長が戦場で得た経験値、死生観は、不死者であるヴァイツには決して感得・理解できぬ領域にあったのだ。それは死線を潜り抜けてきた者だけが獲得しうる、死せる定めに生きる者だけが感得しうる、一種のギフトだったからだ。
その予想外の反撃に対して、ヴァイツが思いきりよく剣から手を離せたのは、だから、相手がザベルという真の強者であったかもしれない。
戦場の内で己が高まっていく感覚を、死を意識するとともに、ヴァイツはこのとき初めて得たのだ。
亜音速に達した切っ先、白熱するその横腹を得物を手放したヴァイツの右手が叩いていた。
もしそれが間に合わなければ、ヴァイツの肉体は完全に両断されていただろう。
それでも左腕を肩の付け根から奪われた。
だが、ザベルが刃を返すより疾く、ヴァイツの攻撃が繰り出された。
振り切られた〈プロメテルギア〉を、ヴァイツの脚が押さえた。
そして、残った右腕のまま掴み掛かった。
こぅ、と限界まで開かれた唇から呼気とともに鋭い犬歯が姿を現した。
ザベルはとっさに左手で庇った。それが彼の命を救った。
ザベルは後に隻眼・隻腕の騎士として史実に名を残す。
ヴァイツの牙が甲冑をかみ砕き、手負いとなって本性を現した夜魔の膂力が、肩関節ごとザメルの左腕を引き抜いた。
想像を絶する痛みと大量の失血を《意志》の力でねじ伏せ、最後の一太刀を浴びせようとしたザベルが一命を取り留めたのは、駆けつけた援軍に対して優れた将であるヴァイツが即座に撤退を実行したからだ。
ヴァイツにすれば戦術的にはカテル病院騎士団の抵抗は予想以上であり、失点を被ったものの、大局的な部分で言うのなら必要な情報は得たのである。
夜魔は捕食した相手の血に溶けた《夢》を味わう。
左腕一本とはいえ心臓に直結すると言われる部位、それもカテル病院騎士団の団長の血肉を得たのだ。それは敵の極秘情報を入手したことと同義だった。
長居は無用だった。
月下騎士団:残月大隊はかき消えるようにその場を去る。
援軍はなんと法王庁の特使だった。炎に炙られ溶けた雪で作られた水面をゲートに“聖泉の使徒”であるジゼルとラーンが現れたのだ。
ジゼルは転移終了と同時に夜魔に捕われたカテル病院騎士を奪還した。
予期せぬ雪解け水さえ、“聖泉の使徒”であるジゼルには追い風だった。
そして、その登場が最後の一押しだった。
今宵のカテル病院と月下というふたつの騎士団の激突は、ひとまずにせよ決したのである。
カテル市の攻防は一般市民に死傷者は少なかった。
だが、カテル病院騎士団は一名の能力者を失い、騎士団長:ザベルほか一名が重傷を負った。対する月下騎士団も女夜魔ひとり、少年従者を一名、軍狼を二頭、殺害されている。
必死の消火作業が行われたが延焼は明け方になるまで収まらなかった。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-10-14T23:07:19+09:00
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燦然のソウルスピナ 第三話・第十八夜:雪暮を紅蓮に染めて
※
「間違いない。これは〈シヴニール〉の光条――《ラス・オブ・サンダードレイクズ》による攻撃だね」
ジゼルの《アクア・サーバント》が断末魔の瞬間に体験した記憶を、ラーンはジゼルとの繋がりを持つことによって感得した。
「だが、我々がここにいるのを知りながら《ラス・オブ...
※
「間違いない。これは〈シヴニール〉の光条――《ラス・オブ・サンダードレイクズ》による攻撃だね」
ジゼルの《アクア・サーバント》が断末魔の瞬間に体験した記憶を、ラーンはジゼルとの繋がりを持つことによって感得した。
「だが、我々がここにいるのを知りながら《ラス・オブ・サンダードレイクズ》を放ったというのか――危ない決断を躊躇なくする――このカンジは、私の知るアシュレダウとはもはや別人という気がしてならないな」
ジゼルのために温めたブランデーを渡してやりながら、ラーンは感想した。
「あのコが……他者を巻き込み、自らを窮地に追いやるかもしれないような、こんな危ない判断を下したなんて――信じられない」
そう言うジゼルの頬が朱に染まっているのは、すくなくとも手渡されたブランデーのせいではなかった。
「ジゼル――“なんて素敵”という顔をしているよ。ひさしぶりに再会した許嫁の予想外の成長ぶりに心が動いたかね?」
ラーンの指摘に、ジゼルは驚いた表情をした。
「――なんで、繋がってもいないのにわかるんですか?」
「異能などなくても、長年連れ添っていると、相手のちょっとした仕草で多くのことが察することができるようになってくるのさ。共感能力というのは、そういう《ちから》のことなんだよ。……キミが自分を組み伏せ、率先してくれるタイプの男性に弱いのはわかっていたけど、少し気がはやり過ぎではないかね?」
強引にしてくれるなら、だれでもいいのかい? ラーンは冗談混じりに訊いた。
なにが不満なのか頬を膨らませるジゼルは、あの頃とちっとも変わっていない。ラーンは笑い、しかし、即座に表情を引き締めた。
「消滅した《アクア・サーバント》の情報から、少なくとも〈シヴニール〉がここにあることは間違いないとわかった。ただ、その使い手が“わたしたちの知る聖騎士:アシュレダウ”かどうかは、判断が難しいところだがね」
記憶の中にある誠実で温厚だが、自らの手を汚すことに躊躇する年若い聖騎士の姿をラーンは思い浮かべた。
だが、それよりも気掛かりなことがある、とラーンは言った。
「“敵”ですね」
ラーンとの接触の間に、やはり記憶を追体験したのだろうジゼルがうなずいた。
「夜魔の一個戦隊が上陸した。もうすぐここは戦場になる」
「でも、なぜ、ここなのでしょう?」
西方世界の東の果て、異教徒の闘争の最前線、それもよりにもよって堅固に城塞化されたカテル病院騎士団の本拠地を攻めるなんて。
ジゼルはあっという間に戦士の顔つきに戻って言った。
「攻めるに難く、守るに易い。陥落させたところで維持するのも難しい。
なによりカテル病院騎士団の猛者たちは、その城塞と戦闘能力で過去に幾度も百倍近い戦力差の戦闘を潜り抜けてきたいわば精鋭中の精鋭。
その実力は我々、エクストラムの聖騎士に比肩します。実戦経験だけなら、ずっと上かも」
わざわざ敵のもっとも優れた兵士が待ちかまえる場所へ、夜魔たちが仕掛ける理由ってなんでしょう?
「わからないかね?」
「ボクには、よくわからないな。苦手な分野です」
この手の概念にはとことん疎いのであろうジゼルが首を傾げ、熱いブランデーを口に含んだ。ラーンから分け与えられた熱によって、ほとんど回復していたジゼルの身体の内側にひとすじ、熱い通り道が走った。
もう起き上がっても大丈夫だと思えるほどに。
ラーンはその様子に、安堵したようにため息をついた。それから言った。
「それはね、誇りだよ、ジゼル。
あるいはこう言い換えてもいい。名誉を傷つけられたからだ、と。
夜魔という生き物はね、恐ろしく長命で強力だ。
しかし、だからこそ、名誉につけられた傷に関して、どんな小さなものでも看過できないんだ。
ヒトは年月とともに老いる。衰える。その記憶も、怒りも、恨みも、やがて若き日の情熱とともに朽ち果てる。
だが、夜魔にとってはそうではない。それらは、永劫、永遠だ。だから、彼らは自らの誇りを傷つけた輩を決して野放しにしない」
探し出し、追い詰め、殺す。完全にこの世から痕跡を葬り去る。
「そうするまで、彼らの闘争は止まないんだ」
「じゃあ、ここにはやつらの誇りをそうとう手酷く傷つけた輩がいるって話ですよね?」
それは良い推理だね、とラーンは軽く握り口元に当てていた拳から、人さし指を出しながら言った。そのしぐさは“教授”:ラーンが興味を抱いたときの癖だった。
「カテル病院騎士団全員を相手にするには、あの数では投下戦力の見積もりが甘い。
ただ、彼らにだってそれはわかっているはず――百も承知だ。
実際に〈シヴニール〉の砲撃に数名が巻き込まれていた。いくら夜魔でも、あの超高熱の粒子の直撃を受けては生き残れない。
仮にカテル病院騎士団:筆頭騎士と謳われるノーマン・バージェスト・ハーヴェイがアシュレたち行動をともにしているなら、この島には〈シヴニール〉と〈アーマーン〉という強大無比の攻撃型《フォーカス》ふたつが揃っていることになる。
これらふたつの偉大な聖遺物の使い手がふたりいるだけでも侵攻の困難は予想されたはず――それなのに、彼らは、来た」
なぜかな。
すでに自分が答えを得ていても、ラーンは相手の解答を待つ。
それは自分がすでに正解を知る上位者として振る舞いたいからでは決してなく、自らが先んじて解答することで“あったかもしれないべつの視点からの答え”を封殺してしまうかもしれないと思うからだ。
「それほどの危険を冒してでも、復讐・報復を成し遂げなければならない相手が、この島にいる。そうか――“反逆のいばら姫”:シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・ガイゼルロンもここにいる――いまだに」
ジゼルの口からこぼれた言葉は、ラーンの想定を出てはいなかったが、充分だった。
ラーン自身が用意していたそれとまったく同じだったからだ。
ジゼルがブランデーを飲み干し、杯をサイドボードに置いた。
「すぐに武装を。全隊にも準備させましょう」
「後者は、すでに。あとはわたしたちだけさ」
「さすが“教授”です」
「亀の甲より、年の功と言うだろう? 伊達に歳をとってはいない」
夜魔の血が引き起こした猛火がカテル市街を襲うのは、ふたりが慌ただしく武装を整え終えた直後だった。
※
自らの血液を触媒に爆発的な火線を走らせるふたりの夜魔の淑女:アーネストとカリサの《カーマイン・パイロニクス》が本来、発火せぬはずの石造りの壁を燃え上がらせた。
ふたりの右手と左手、それぞれに装着された黄金の籠手のカタチをした《フォーカス》:〈ガラハッド〉の引き起こした効果だった。鋭利な爪を備える〈ガラハッド〉はふたりの上官であるヴァイツが授けたもので、その佩刀である〈ヴァララール〉と同じく、使用者の肉を食み、その血液を糧とする。
そして、精製されその掌から迸るようになった血液は恐ろしく高い発火性と爆発的な延焼能力、そして粘性で持って相手を焼き尽すナパーム弾となる。
個々の高すぎる身体特性とそれに比例するように高いプライドから、これまで大規模で組織的な軍団運用を経験したことのない夜魔が、敵対する異人種、異文明を殲滅、焦土と化すため前例のない軍事行動に出る――その急先鋒であるヴァイツらハイネヴェイル家の新戦術のテストケースとしての二面性も、この侵攻作戦は持っていた。
本来、一対である〈ガラハッド〉を分けて使用すれば、その本来の性能を引き出すことはできなくなる。
だが、個々の戦闘能力の追及よりも、ヴァイツは全体、組織的運用に着目していた。
そもそも、軍事侵攻という観点で視れば、大多数の軍団を一気に恐慌状態に叩き込むことのできる火災を引き起こす〈ガラハッド〉と夜魔の血族の相性は最高と言っても過言ではない。
ただの水では簡単には鎮火できぬ火種を持つ異能者が、夜魔の特有の能力である《影渡り》を使って都市の、駐屯地の、野営地のそこここに瞬時に、神出鬼没に現れるのだ。
敵対勢力の側の司令官からすれば悪夢以外のなにものでもない《フォーカス》:〈ガラハッド〉の能力を真に使い切るためには、あえてふたつにそれを分割し運用するほかないとヴァイツは確信し、それを実行したのだ。
必要なことは混乱だ。恐慌だ。
火は、二ケ所で、やがて数え切れぬ場所で同時に上がった。
それを待ち、ヴァイツは己の戦場へと突入した。
優秀な司令官であるヴァイツは、ただ混乱を引き起こすだけでは戦争に勝つことはできないと知る男だった。決定的な破滅とは物理的な死や、破壊から来るのではない。
相手の《意志》を挫くこと――すなわち、《希望》の芽を摘み取ること。
カテル市街に入る前、補給を兼ねて襲撃した村落はことごとく無人だった。
これはこの襲撃があらかじめ人類側に予期されていたことの証左に他ならない。
そして、時間的にも地理的にも、夜魔の襲来をこれほど的確に察知することは人類には不可能だ。
ただひとつ、より上位の夜魔であるシオンザフィルの協力を除いては。
宿敵であるカテル病院騎士団が夜魔であるシオンを受け入れたとは容易には納得し難かったが、現実を認めなければ戦には勝利できない。
ヴァイツは疾風のように駆けながら思考を巡らす。
夜魔の姫であるシオンザフィルが、仇敵であるはずのカテル病院騎士団に受け入れられた理由を考える。
ヴァイツとその部下を狙撃し、ふたりをこの世から消し去った小僧――おそらくはエクストラムの聖騎士――と行動をともにし、追手がかかっていることを知りながら、この島から立ち去らなかった理由がここにはある。
そして、その過程で、シオンが精鋭の騎士たちに囲まれ守られることをよしとせず自分たちを囮にしてまで守ろうとしたものを知ること――それこそが真の勝利に結びついている、と確信した。
ならば、敵の上級士官を――最低でも上級騎士を捕らえねばならん、とヴァイツは考える。
やつらの《希望》を挫くのだ。
「そして――やつらの血に訊くことにしよう。その“秘密”をな」
われわれは家畜と交わす言葉を持たぬがゆえに。
獰猛に笑う。
※
「アシュレ、ヴィトライオン、待て」
シオンが〈ローズ・アブソリュート〉に通し続けていた《スピンドル》を切りながら言った。陽動として、囮として目立つために、あえてシオンは自らの剣を励起させ続けていたのだ。
「どうしたの?」
「やつら……追ってきていない……むしろ……離れて行く。なぜだ、なぜ、こちらに来ない?」
一瞬、シオンとアシュレは顔を見合わせた。
もちろん、次の瞬間にはその答えは互いが得ていた。
「挑発に乗ってこない。相当の指揮官がいるのか」
「ありえん。不死者のプライド――その高く伸びた鼻先をへし折った相手を、夜魔が二の次と見なすなど……と言いたいところだが、現実は認めねばならんな。陽動を見破った上で、戦術、攻略目標を柔軟に変えてきた。これは……手強い」
これまでの夜魔の行動様式とは明らかに違うヴァイツたち侵攻部隊の行動に、いつもは冷静なシオンでさえ、ほぞを噛んでいた。
シオンたちの抱える事情のすべてを敵方が把握しているわけではないだろうが、夜魔の姫と年若い聖騎士が市中に混じることのできない複雑な事情を抱えている点を、ヴァイツの戦術は的確に突いていた。
エリート集団であるカテル病院騎士たちはともかく、島民・市民たちはシオンの存在すら知らない。異人種が完全に受け入れられることはいつの時代にあってもたいへん難しい。
加えて長射程攻撃能力の〈シヴニール〉、広範囲殲滅能力に長けた〈ローズ・アブソリュート〉、とふたりの主武器は市街では甚大な被害を周囲にもたらす欠点を抱えていた。
人口密集地域に引きずり込み激烈を極める攻撃手段を封じるという観点からも、巧妙な作戦指揮だったのだ。
どうする?
視線の交錯があった。だが、ふたりにはもはやそれだけで互いの意思がはっきりと判るのだ。
敵襲の第一報は、すでにシオンが地下礼拝堂の指揮所卓上に残してきたヒラリが、同じく卓上に広げられた文字盤の駒を動かして状況を報せている。
これはノーマンが対処に動いた。カテル病院騎士団が手を打っていないはずがなかった。
ただ、物理的な移動手段に限られる騎士たちの対応より、それらを無視するなかば次元跳躍的移動手段である《影渡り》を持つ夜魔たちの侵攻速度が勝るのは明らかだった。
イズマがいれば話は別だったかもしれないが、土蜘蛛の刺客をイズマはひとりで阻むと請け負ったのだ。互いの役割分担を疑っていては戦列は簡単に崩壊する。
アシュレは無言で馬首を巡らせ、それから言った。
「このまま丘を越えて、カテル市の上に出る。そのまま市中に突撃する。キミとさんざんやった夜警を欺いて逃げ回る鬼ごっこのリハビリ訓練が役立つさ」
「途中の村落は無視する、という判断だと取って良いか」
「そうだ。必要なら――敵がすでに侵攻しているなら――斜面の上からカテル市街を〈シヴニール〉で狙撃する。撃てまいと思っている敵ほど、よく効くさ」
「市民は?」
「今夜の祝宴は偽装――敵の襲来に備えての篭城をカモフラージュするための――だそうだ。
イダレイア半島の都市国家ではどうかわからないけれど、さすがは対異文明、異教徒との闘争の最前線:カテル島の住民だよ。馴れたものだった。
まあ、それもカテル病院騎士団が約束した戦後補償を約束を違えずやり通してきたからこその信頼なんだけど。
いま、カテル市街の人口は教会と城塞、そして、市街から少し離れてある法王庁使節の逗留先に集中している」
「だが、無人ではない」
巻き込むやも――いや、必ず巻き込むことになるのだぞ。
「ボクたちがカテル島に来ただけで、もう巻き込んでしまっているよ、シオン。
もし、ボクが彼らに対して責任を取れるのだとしたら、やつらの侵攻を挫き、殲滅してみせることだけだ。いま躊躇していても傷口が広がるだけだろう。
後悔したり、懺悔したり、慚愧に駆られる時間は生き残ったものにだけ許される贅沢なんだって、最近すこしだけど、わかってきたんだ。
ボクはイリスを護ると決めた。キミやイズマとともに、この世界の真実に迫る、とも。
だから、それ以外のことに、ボクは残酷になる――そう、決めたんだ。
それを阻むなら、たとえ法王庁の人間でも容赦はしない」
ほんとうは忸怩たる思いが渦巻く胸中と決別するかのように言い切ったアシュレの横顔を、シオンはまじまじと覗き込み、それからやれやれとため息をついた。
「この――悪党め」
「認めるよ。ボクはもう立派な悪党だ。ねえ、シオン……なんで嬉しそうなの?」
「あ、あきれたのだ、ばか!」
シオンの口調とは裏腹に背中から温かい気持ちが流れ込んでくる。
「苛烈に死ぬより、苛烈に生きることのほうが何万倍も難しいって父さんに習ったけど、ほんとにその通りなんだな。《意志》を持って生きるということは、狂人として世界に相対することに等しいって、そういうことだったんだな」
自分の成し遂げたいことのために、どれほどのものを犠牲にすることになるのか。
たぶん、このときのアシュレにはその全貌が正しく見えてはいなかっただろう。それでも予期せず漏れたつぶやきには、苦いものが混じっていた。
降りしきる雪の夜空が朱に染まったのはその直後だった。
「始まった」
「行こう」
アシュレはヴィトライオンの腹に蹴りを入れた。
ふたりを乗せ、雪の草原をヴィトライオンは疾駆する。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-10-12T17:55:02+09:00
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燦然のソウルスピナ 第三話・第十七夜:人魚姫の記憶
法王庁特使側にとっての作戦司令室となった旅籠の特等室に入るなり、ジゼルがもたれかかってきた。ラーンは慌ててその身体を抱き止めた。
「大丈夫かね」
「いきなり、撃たれちゃったかんじです。《アクア・サーバント》、一体、壊されちゃった」
「顔色が真っ青だ」
ラーンの指摘通り、ジゼルの顔色は...
法王庁特使側にとっての作戦司令室となった旅籠の特等室に入るなり、ジゼルがもたれかかってきた。ラーンは慌ててその身体を抱き止めた。
「大丈夫かね」
「いきなり、撃たれちゃったかんじです。《アクア・サーバント》、一体、壊されちゃった」
「顔色が真っ青だ」
ラーンの指摘通り、ジゼルの顔色は蒼白で、ショック性のものだろう痙攣に全身が震えていた。
ばら色の唇が赤い口紅の下で青く変色しているのがうかがえた。
探索に放った《アクア・サーバント》一体が、アシュレの放った《ラス・オブ・サンダードレイクズ》の起こした水蒸気爆発に巻き込まれたのだ。
浜辺を目指す奇妙な小舟の集団をジゼルの分身は発見し、追跡し、上陸地点を特定した。その強襲揚陸スタイルから、その小集団が夜魔の襲来であることも、ジゼルには予想がついたし、事実、そうであることを目視確認した。
その直後のことだった。
一万度を優に超える超高温の重粒子が、ジゼルと意識・感覚を共有する《アクア・サーバント》が潜む海面を直撃したのだ。
ジゼルの使う《アクア・サーバント》に限らず、使い魔や分体、別体を作り出すタイプの異能は恐ろしく強力で決定的だが、同時に意識や感覚を共有する分体、別体が損壊したとき被るショックやダメージが、その意識・感覚共有の精度に比例する。
水を媒体とするジゼルの《アクア・サーバント》は、それらの異能のなかでも情報収集に特化した、特に高精度なものであった。それを三体、同時に繰ることのできるジゼルの才能こそまさに特筆すべきものであったが、それは同時に喪失時に被るダメージの高さを示してもいた。
生きながらにして瞬時に沸騰する海水によって、肉体の内外から蒸し焼きにされる恐怖と痛み。ちなみに、ジゼルの《アクア・サーバント》は伝説の人魚姫そっくりの姿形をしている。
並みの能力者なら、ショック死さえありうる事態だったはずだ。
気絶で済めば、たいしたものだと言えただろう。
それをジゼルは、会食の場面で殺し切って見せた。笑みを絶やさず、淑女としての振る舞いを演じ切って見せた。凄まじい精神力だとラーンは思う。
「教授、苦しい、です」
「胸元を緩めるよ? いいかね」
ラーンはジゼルの了解を待たず、ジゼルの胸元と腹部を締めつけるコルセットを緩めていった。鋼鉄の補強が入ったコルセットは言うなれば社交界という戦場に、ご婦人方が赴くための戦闘用重甲冑だ。全身をこんな拘束具で固めたまま、〈クォンタキシム〉という強力な《フォーカス》を使いこなし、並みの能力者では一体でも精一杯な分体の制御、統御をマルチタスクで進行させてみせるジゼルの力量には感嘆するほかない。
だからこそ、反動も凄まじいものとなる。
馴れた手つきでラーンはジゼルを解きほぐしていった。
ジゼルの肉体は冷たい汗に濡れそぼっていた。
「寒くないかね?」
ラーンはささやくように聞いた。
こくり、と震えながらジゼルは頷いた。
「脱がすよ」
濡れて貼り付く冷たい衣服を剥ぎ取れば、成熟した女の肉体があらわになった。ラーンは渇いた柔らかいタオルでその肉体を拭いてやった。ジゼルの肉体は冷えきり、突端は硬く尖っていた。
「なにを視たのかね?」
女の体をいたわる運指とは裏腹に、ラーンは冷静に訊いた。
男ならば誰しも眩暈を覚えるような絢爛な美の顕現を前にしてさえ、ラーンという男は小揺るぎもしないのだ。
聖務を遂行する。
その《意志》がヒトのカタチに凝って、地に降り立ったかのような存在。
それがラーンベルト・スカナベツキという男だった。
「夜魔の、群れ。棺桶のカタチをした船団――閃光と爆発……を」
「竜槍――〈シヴニール〉かい?」
ラーンの問い掛けに言葉を紡ごうとして、ジゼルが弱々しく首を振って見せた。
かわりに両手がラーンを導くように差し出された。
繋がってください、の合図だ。直接、ボクのなかを覗いてください、というサインだ。
ラーンとジゼルの関係は、ジゼルが聖堂騎士団に入団を果たした頃まで遡る。
その当時、従士隊に入団したジゼルはすでに《スピンドル》能力者としての覚醒を果たし、またその血筋も名家の出とあって将来を嘱望されていた。
ただ、その素行にはさまざまな問題があり、特に座学・講義をおろそかにする傾向が指摘されていた。
実際、ラーンの受け持つ神智学、歴史、練金学のうち、神智学、歴史では落第すれすれの成績を特別講義で補わなければならなかったほどだ。
総じて座学関連の講師たちからの評判はすこぶる悪かった。
あけっぴろげでざっくばらんな性格が、ネコをかぶっていても透けて見え、それが倫理・道徳に厳しい聖堂騎士団教官たちの勘に障るらしいというのも、やがて聖騎士に登用される可能性のある騎士団の下部組織と考えれば当然の話だった。
だが、練金学――それも実験や応用実践で見せるジゼルの鋭い観察力、記憶力、洞察力をラーンだけは見逃さなかった。さらに行動力と高いコミュニケーション能力で、物事の中心になる才能がジゼルにはあったのだ。
そして、興味の向く事象に対しては、驚くべき忍耐力を発揮した。
そんなこともあってか、なにかと目をかけるようになったラーンに、ジゼルは懐いてしまった。いつそれが、好意から恋愛感情に発展したのかはわからないのだが。
恋文が送られてくるようになった。
ありえない、とラーンは取りあわなかった。少女にありがちな恋に恋する恋愛のあり方だと捨て置いた。時間が解決するだろうと考えた。
ジゼルがすでにバラージェ家の御曹司との婚約を結んでいることは周知の事実だったし、火遊びなら成熟した人妻相手のほうが後腐れないことを、ラーンはよくわきまえていた。
当然、恋文に返事を書こうともせず、そして、ジゼルのほうも面と向かって相対したとき、そのような素振りを持ち出したりはしなかった。
だが、恋文だけは毎月、一、二通必ず届いた。
それは座学のレポートに擬態していた。暗号のカタチをとって。たぶん、ラーン以外では気づきもしないだろう方法で、それは考え抜かれた恋文だった。
だから、ラーンは気づかぬフリを押し通すこともできたのだ。
相手を追い詰めすぎない、しらを切り通せる余地を残しておくジゼルのやり方は、なるほど、政治的配慮に満ちており、それゆえ逆に法王庁内での政争に身を置くラーンに対しては「評価対象になる」のだという計算まで感じられた。
こんな手間を考え出せるなら、真面目に授業に精を出せばおそらくトップクラスの成績を叩き出せるだろうジゼルに、ラーンは苦笑したものだ。
そんな矢先に、ジゼルは不祥事を起した。
暴力沙汰だった。
ジゼルの出自をやっかんだ女生徒数名が、その素行不良をネタにしつこくジゼルをからかったらしい。ジゼルはしかし、暴力には訴えなかった。
かわりに、言葉に訴えた。
ジゼルを中傷した女生徒たちをひとりひとり指さし、彼女たちがひた隠しにしたきた秘密――まあ、多くは性的な――を白日の下にさらしてのけたのだ。それも、もはや独創的にして天才的としかいいようのない修飾――罵詈雑言を駆使して。
だから、暴力に打って出たのは取り囲んだ女生徒たちのほうだった。
だが、これさえもジゼルは鎧袖一触に蹴散らしてしまう。
指導教官が問題の起きた食堂に駆けつけたとき、ジゼルを取り囲んでいた女生徒たちは
仲良く床に転がり、気絶していたそうだ。
いや、それだけならまだ情状酌量の余地があったかもしれなかった。
だが、よりにもよって指導教官は座学関係のそれも女性――ジゼルに日頃からあまりよい感情を抱いていない尼僧だった。
頭ごなしにその場でジゼルを叱りつけた。
四半刻ばかり、ジゼルは黙って尼僧の説教を聞いていたらしい。だが、ややヒステリックめいた尼僧の説教が一息ついた瞬間に、やり返した。
クラスメイトたちを逆上させた例の舌鋒で。
口は禍の門、とは先人というのは良いことを言う、とラーンは思う。
危うくジゼルは退団を言い渡される直前まで行った。
だが、その事件の現場にはラーンがいた。
眼前で始まってしまった騒ぎから逃れるように柱の影に移動して、愛読書とともに茶を啜っていたのだが、あまりの事態の進展に厄介事はごめんとばかりに逃げ出そうとしたところを見つかり、姿を現したのだ。
しぶしぶと言う態度とは裏腹に明解かつ明晰な口調で、私見を交えず、しかし一語一句に至るまで違えずやりとりを再現して見せるラーンによって、ジゼルの正当性が立証された。
もちろん、女生徒たちの秘密、尼僧の秘密についてはうまくぼかし、根も葉もない作り話だと弁護しておいた。
それでもジゼルは謹慎処分となった。一月。
普通の従士であったらもはや学業についていけなくなるほどの時間だ。
処分を受け寮の自室に戻るジゼルに、ラーンは訊いた。
どうやって、彼女たちの「秘密」を暴いたのか、と。
簡単だったから、とジゼルは答えた。
ジゼルの類い稀な資質にラーンが気がついたのは、その時だ。
同時に、ジゼルに足りていないものを、いまのうちに誰かが教えなければ、いずれとんでもない事件が引き起こされるに違いない、と確信した。
だが、そんな面倒な役目を負うのはまっぴらゴメンだった。
自分の人生は聖遺物の発掘と管理・研究、そして人妻とのアバンチュールに費やされるべきだという確固たる信念がラーンにはあった。
ところが、翌日、定例の枢機卿団会議で法王からこの問題の処理に当たるよう勅詔を受けた。否も応もない。法王からの名指しとなれば、ラーンに拒否権などない。
あの座学の尼僧だった。ジゼルを庇ったラーンに、すこしでも厄介事をなすりつけようと彼女なりに画策したのだろう。
毎晩、夕食後、談話室での「倫理・道徳」の講習が行われた。
ジゼルは正当な理由なく一度でも講習をサボタージュした場合、即退団。
ラーンは法王本人からの名指しで、得意どころかもっとも不得手な科目の講師。
うまくいくはずがなかった。
だいたい、倫理や道徳というものは座って習得するものではない。
そこでラーンはそうそうに講話・説教を諦めた。教科書を投げ出し、ジゼルの話を聞くことに終始した。ジゼルの異能の発露、その根源にあるものを突き止めようとした。
驚くことに、これは恐るべき効果をあげた。
ジゼルの素行は三日後には驚くほどよくなっていた。
溜まっていたレポートが次々と提出された。それも素晴らしい出来栄えで、それは全教官が認めざるをえない完成度を持っていた。
ただ、当のラーンだけは言い知れぬ不安に、襲われていた。
これはなにか巨大な災厄の前兆なのではないか、と。
それは毎夜かわされる会話のなかからも感じ取れた。
「なるほど、どうやら、キミの異能は水を媒介にするものなのだね」
「相手が触れている水や、触れた水、近くにある水面からボクはそのヒトのことを読み取れるんです」
「そりゃあ、勝手にやるのはよくないだろうね。プライバシーの侵害だ」
「ふうん。みんなにはできないんですねー。ボクだけ知り放題っていうのは、やっぱり、まずいのかなー?」
「たぶんね(苦笑)。わたしだって、知られるとまずいことは一杯ある。人間だからね」
「やっぱりまずいですかねー」
「それは、まずいだろうね。知るべきではない事柄がこの世には数多くあるものだと、聖イクスもおっしゃられているよ?」
「それって、隠さなければならないような後ろ暗さを作るな、ってお話じゃありませんでしたか?」
「隣人を詮索するな、とも」
「なのに“教授”は聖遺物の探索や研究、聖人の認定に血道を上げているんですよね?」
「それはわたしの職務だからね?」
「“つまみぐい”は?」
「えっ?」
「“教授”を名指しでちょくちょく懺悔に来るご婦人方と防音機構の効いた隠し部屋で、“つまみぐい”しているでしょう?」
「あー、いや、あれは、その、懺悔だよ。告解の秘密は他者に聴かれてはイケナイ」
「“教授”って、絶対、聖職者失格ですよね」
「面目ない。だが――そんなわたしでも神は許してくださると信じているよ。これでも改悛の気持ちはあるんだ」
だから、とラーンはとりなしたつもりだった。
だから、わたしといっしょにキミの異能の使い方を考えていこうじゃないか、と。
もちろん、それほど熱心な言葉でないことはラーン自身がよくわかっていた。
一言で言えばごまかし、その場しのぎだった。はやく、この一ヶ月を乗り切り、自身の本来の職務に復帰したかった。
だが、ジゼルの言葉を聞くうち、ラーンは深入りしてしまうのだ。
「でもね、“教授”、ボクの能力って、どっちかって言うと“目で視る”よりも“耳で聴く”に近い能力なんですよ。その、けっこう無意識なところがあって。耳にまぶたはない、って言うでしょう? 知りませんか?」
「! 自分で選択できないのかい?」
「無意識ではしてるのかもしれませんけどー。じつは、けっこう辛いんですよねー、ときどき」
ぱんぱんに膨らんだ水袋がいつか弾けちゃうみたいなツラさ、あるんですよねー。そういうジゼルの笑いにラーンは陰りを見出してしまった。
「正直、こんな能力なんていらなかったなー、ボクは。いままでは、みんなどこかにそういうのを持っているんだって思っていたから……我慢できたのかも」
一瞬、のぞいた陰りの色を、黒板の板書を消しとるみたいにジゼルは拭い去り、けろりと笑って見せた。快活で、だが、貴族の子女というにはあけすけな、いつものジゼルに戻っていた。
「正直、どこまで行けるのか、行けるところまで行って試してみたいって気持ち、ありますよ? この世に隠された秘密があるなら、暴き切ってみたいって気持ち、“教授”なら理解してもらえますよね?」
だれにも、こんなこと話したことないのに、ふしぎだなあ、とジゼルは笑うのだ。
こんな危うい会話を交わす代償に「ジゼルはおとなしく振る舞うようにしている」のだと、その素行の改善に目を見張る人々は思いもよらないだろう。
危険だ、とこのときラーンは思った。
道徳や倫理といった概念――社会理念を醸成・教育する、などというような悠長なことを言っている場合ではないと確信した。
だれもジゼルが駿馬などではなく、国ひとつ火の海に沈めかねない火竜の幼生だと気づいていないのだ。だれかが死を覚悟でその背に跨がり、御さなければ巨大な災厄が育ってしまうと気がついていないのだ。
醜聞、いや、法王庁がひた隠しにしてきたこの世界の暗部という炎を、吐息にして吹き散らす最悪の邪竜の存在に。
いや、とラーンは己の聡明すぎる頭脳、先見性を呪いながら、ひとつの仮説に突き当たった。バラージェ家当主・グレスナウは、それを見越して一人息子とジゼルの婚姻を進めたのではないか?
このとんでもないバケモノのお嬢様の騎手として、自らの息子の将来性に賭けたのではないか?
バラージェ家とラーンには、親密というほどではないが繋がりがあった。
女の子とみまごうような美貌と、柔和で温和な性格を兼ね備えたバラージェ家の御曹司が、その内側にしっかりとした価値観と《意志》を育みつつあることは、ラーンには数時間、会話をすればわかったことだ。
たしかに、彼ならば、いずれこの怪物を御しきれるかもしれない、と感じた。
だが、『いずれ』では、間に合わない、とラーンは思った。
そして、それは実際、そのとおりだった。
為政者、権力者としてヒトを御すには優しさや、誠実さ、倫理や道徳、論理的で筋の通った説得だけでは片手落ちだ。そこに必要なのは、暴力的な、あるいは時には実際の暴力に訴えかける冷酷さ、非情さ、苛烈さが必要なのだ。
それを、あの御曹司が学び取るには、まだ時間がかかる。
いまはまだ、己が必ず相対することになる厳しい現実や逆境に抗するための土壌を培っている最中――人品の豊かさを育んでいる最中なのだ。
聖職者ゆえに子を設けたことのないラーンは、だからこそ、このとき、聖騎士:グレスナウという男に戦慄にも似た感情を憶えたのだ。
自らの一人息子に、この恐ろしいバケモノを伴侶としてあえてあてがおうという峻厳な、あるいは冷酷な《意志》に。
しかし、その試み、目論見は数年の誤差によって瓦解するようにラーンには思えた。
ジゼルの内側で萌芽し、急速に育ちつつある“なにか”は、グレスナウの読みを大きく上回って成長しようとしていたのだ。
けれども、それに気がついたからといって、だれが、この怪物の背に跨がろうというのか? それは自ら燃え盛る火刑台に駆け登ろうとする愚行にそっくりだった。
いや、とラーンは思う。
このジゼルという娘は、もしかすると、わざと私の前でそのことをほのめかしているのではないか? 淑女のドレスの下に隠されたバケモノの尾を、ちらちらと、しかし目に留まるように見せて?
女心は謎かけに似たり、とはだれの言葉だったか。
ラーンの胸中に湧いた黒雲のような疑念とは裏腹に、ジゼルの謹慎期間――つまり一月が過ぎようとしていた。
そして、それが起きた。
秋の嵐の晩だった。
吹きすさぶ風に雨は横凪ぎになり、渡り廊下が水浸しになるほどだった。そこここで、木々が折れる音が法王庁の伽藍に響き渡った。
その夜、最後の予定だったジゼルの補講をラーンは延期にした。
女性従士たちの寮は、補講に使用される講堂からは随分と距離があったせいだ。
講師であるラーンが休講を言い出したのであれば、ジゼルが責任を問われることはない。それにラーン自身、嵐のなかを出かけるのは、まっぴら御免だった。
だが、ひさしぶりに自身の研究に没頭できる。ラーンは世話役の僧たちに夜食を都合してもらい聖遺物管理課の施設に籠った。
手をつけかけた文献があった。毎夜の補講のせいで、滞っていたものだ。
貪るように読み進めた。アガンティリス王朝期の考古学者が書き記したもので、そこには驚くべき記録が残されていた。
ラーンは文字の海に耽溺した。
その幸せな没入からラーンを現実に引き戻したものは、吹き込んだ一陣の風だった。
ごうっ、と燭台にはめ込まれた三本の大蝋燭の炎が揺らめいた。
とっさにラーンは書籍を庇い、それから、風の吹いた方角を見やった。
信じ難いことに書籍群を護るため、通気、採光にも細心の注意が払われた聖遺物管理課の工房、その扉が開け放たれていた。そこから、外気が吹き込み続けていたのだ。
なぜ、というラーンの疑問はすぐに解けた。
侵入者があったからだ。
その身体は濡れそぼり、月下の白蝋のように蒼かった。陽光の下では淡い桃色に輝き奔放に跳ねるその髪の毛はやはり雨に濡れて、その華奢な肉体に貼り付いていた。
乙女だった。
その証が、濡れた丈の短い貫頭衣の――アガンティリス期の饗宴においてワインを注ぐ係であった美少年たちのいでたち、そっくりの――下に透けて見えていた。
それがだれであるか、ラーンには一目で判った。
「ジゼル……なぜ、ここへ来たのだね?」
こんな嵐の晩に? どうして、ずぶぬれになって? なんてかっこうで? 見張りの衛兵たちはなにをしていた? 訊くべきことはきっといくらでもあっただろう。
だが、ラーンにはそのいずれも、答えを訊くことはできなかった。
なにも言わず、放心したように扉の脇にもたれかかる無残に濡れたジゼルの髪を、タオルで拭ってやろうとした。
パンッ、と雷光に触れたかのように、その手が弾かれた。
ジゼルの《スピンドル》が渦を巻くのをラーンは感じた。
だが、それは敵意からではなく、ないがしろにされた飼い猫が飼い主に不満を現しているときのそれなのだと、ラーンにはすぐにわかった。
理由は見えないが、ジゼルは怒っていたのだ。
思えばジゼルの怒る様子を、初めて見たとラーンは気がついた。
食堂での舌禍事件の渦中にあってさえ、ジゼルには、どこかディベートで相手を打ち負かすときのような冷静さと、愉悦を感じているような高揚があった。
雲のようにとらえどころのない、自由な心の持ち主だと、ラーンは感じてきた。
だからこその危惧でもあったのだ。
だが、眼前のジゼルは、これまでラーンの見たどのジゼルとも異なっていた。あきらかな不満、怒り――拗ねてしまった猫のように、それが全身から感じ取れた。
「どうしたのかね?」
ようやく、ラーンはそれだけ訊いた。
「……講義、なんだ来なかったの」
逢瀬をすっぽかされた乙女の口調でジゼルが言った。
「講義……今日は、休講にする旨の木札を掲示板にかけておいたはずだが」
「これ、掛かっていたけど?」
ゴランガラン、と講義を通常通り行う旨の木札が床に転がされた。
「わたしでは、ない」
「なるほどねー。そうだね、“教授”はこんなくだらない嘘吐くわけないもんね」
ははっ、わたし、バカみたいだ。渇いた声でジゼルが笑った。
「どういうことだね?」
「いつもの嫌がらせだ、って言ってるのさ。本気になって損したよ」
「いつものって、ジゼル、キミはいつもこんなことをされているのかね?」
ラーンの問い掛けにジゼルは口を噤み、ラーンを見た。射るような光をそこに認めて、ラーンはすべてを察した。ジゼルが耐えてきたものを。
「だからといって、この格好は、いくらなんでも……」
「水が媒体だって言いませんでしたっけ、ボクの異能のこと。肌に直接触れてる部分が多いほど、精度も感度も上がるんですよ。まさか、素っ裸で法王庁内をうろつくわけにもいかないから」
「まさか、わたしを探していたのかね?」
「ほかに、だれを?」
「……キミの異能を使えば、だれがこんなくだらない仕打ちをしたのか、突き止めることもそう困難ではなかったんじゃないかね?」
「自分の周囲が敵だらけだなんて念を入れて確認したいんですか、“教授”なら? だれが自分の敵なのか、明確に知ったら、次の段階はすぐですよ。“索敵”って、偵察ってことじゃないでしょ? 辞書にも載ってます。サーチ&デストロイはひと括りの言葉ですよ、“教授”?」
ラーンはこのとき、ジゼルという娘の内側に穿たれた埋めがたい穴蔵をのぞいた気がした。
不意に湧いた衝動は、愛しさだったのか、憐憫であったのか、ラーンにはわからなかった。
だが、次の瞬間には抱きしめていた。
ジゼルは震えていた。
突然のなりゆきに四肢を強ばらせ、震えていた。ぎゅう、と両手がラーンの胸ぐらを掴み、濡れそぼった衣服と髪の毛が染みを作った。
「“教授”……ボクを、このあとどうしたいんですか?」
震える声でジゼルは言った。
「つらければ、いつでも、わたしに相談するといい」
それは狡い大人の逃げ口上だと、ラーンはもちろんわかっていた。わかっているのに、そのセリフが口をついたのは、ラーンにはまだ、いくらでも退路が残されていたせいだろう。
だが、相対するジゼルは、そうではなかった。
ぐい、と腕の中でジゼルが身を捩り、腕をついて身体を引き剥がした。
「そんなもので――そんな程度で、ボクを、制御しようっていうのかい? “教授”、そいつはお笑いだね」
痛烈な批判が嵐の夜の法王庁にこだました。
ざあああああああああああっ、とジゼルの体表面を流れ落ちていた水滴が逆流するのをラーンは見た。
「知らないように――ヒトの心や秘密に触れないようにって――どれぐらいボクが必死になってこの《ちから》を御そうとしているか、アンタたちは知りもしない。人間は相手とまっすぐ相対しようとするとき、相手の目をきちんと見るでしょう? 言葉を真摯に聴こうと耳を傾けるでしょう? 手を触れて、まさぐって、実存を確かめようとするでしょう? だけど、そうしようとすると、ボクは――ボクの異能は“相手の秘密を探り当てて”しまう」
ずっと、相手をまっすぐ見れず、耳を塞ぎながら、息を潜め、触れることを諦めて社会に紛れなければならない――その苦しみがアンタにわかるか。
ジゼルはそう言っていたのだ。
「常時発動型――」
「言っておくけど――“教授”、ボクはアンタたちが思ってるより、ずっとヤバイ情報だって知ってるよ?
例えば、ボクの許嫁になったバラージェ家の子息:アシュレダウの幼なじみ:クーヴェリア枢機卿(後のマジェスト6世)の姪:レダマリア・クルスが本当は同枢機卿の娘だってこと。
バラージェ家の当主:グレスナウが先の聖務遂行の折り、夜魔の姫と密かに接触し託された聖遺物を自宅に隠匿していること――そして、そして……」
平衡を欠いた笑顔で泣きながら告げるジゼルの声は震えて、しかし、どこか浮世離れして――神託を告げる巫女のように――狂おしかった。
ざあああああああああああああっ、と翻る水の羽衣が一際、逆立ち、ジゼルの心中を代弁していた。
ラーンはその有様から、ジゼルの異能は双方向のものだと洞察・推論した。
情報を知るだけではない。相手に伝達することを可能としているのではないかと。
そして、その洞察も推論も、正しい。
思わず伸ばしたラーンの右腕が空を切った。
ヒトが水を掴めないように、ジゼルの肉体は施設の廊下を駆け戻るべく、ラーンの静止を擦り抜けようとした。
ジゼルの心の動きが、ラーンには、はっきりと見てとれた。
たぶん、それはラーンに触れて染みた雨の滴のせいだったのだろう。
自爆。その二文字がラーンの脳裏にはっきりと焼きついた。
ジゼルはこのまま、水浸しになった法王庁の中庭に飛び出し己の異能を暴走させようとしている――それがわかった。
ここが法王庁でなければ、狂気に彩られたジゼルの目論見は、ラーンが手を下すまでもなく潰えたはずだ。《スピンドル》は《閉鎖回廊》の内側でしか正常に作動しない。
たとえ強力無比の能力者であっても、平常空間で操作できる《スピンドル》エネルギーには限りがあるのだ。
だが、ここ聖都:エクストラムにあって、こと――この法王庁の敷地内では、まるで《閉鎖回廊》かのように《スピンドル》がトルクを上げる。
聖地だから――そう誰もが口を揃えて言う。
だが、常時発動型だというジゼルの告白を信じるなら、この敷地内にあることはジゼルにとって無理やり強力な異能を使い続けるよう強要され続けることであり、それは精神を引き裂かれるような苦痛を彼女に与え続けてきたはずだった。
いつも、必死で歯止めをかけ続けてきたのだ。
その肌が擦り切れ、肉と骨がのぞくほどその心を摩滅させて。
そして、ジゼルの自爆とは、つまり、その内側に溜め込まれた“秘密”――自他の区別ない――を解き放つことに他ならなかった。
それは水を導体として荒れ狂うサージのように他者の脳裏に侵攻し、心象を焼つける。
場合によっては脳神経を焼き切るほどの出力にそれはなるかもしれない。深刻な後遺症。
いや、それ以上にジゼルが先ほど口走ったいくつかの“秘密”は、けっして世に出してはならぬものだ。
蜃気楼のように手の届かぬ場所へ離れていこうとするジゼルを、自らが御さなければならないのだとラーンが覚悟したのはこの瞬間だった。
ぴしり、と空間が凝る音をジゼルはたしかに聞いた。
石化(ペトリフィケーション)と誤って呼ばれることの多いラーンの異能:《メモライズ》は、正確には対象の時間進行を停滞させる特殊な能力だ。
重要な資料の保存や、負傷者の延命など驚くべき多様な応用が可能なこの能力を、限定的だが《フォーカス》の助けなしで行使できる異能者は、聖騎士を教練する教導騎士団にさえいない。ラーンが枢機卿でありながらいまだに現役の聖遺物管理課・課長と現場指揮官を兼任する理由だ。
専用の《フォーカス》である宝珠と、それを操作するための特殊な手袋のセット=〈グラパルダ〉を用いれば、短時間かつごく限定的な事象に限れば時間遡航さえ可能にするラーンの異能は、数多くの強力な異能者を輩出してきた法王庁にあってさえ並ぶもののない代替不可能な才能として扱われてきたものである。
これは、ラーンの意識の中にある“記憶”を対象に押しつける《ちから》ということもできる。
その《ちから》で、ラーンはジゼルを纏った水ごと、その場に縫い止めたのだ。
ごつり、と音がして、扉が時が巻き戻るように閉じた。
つう、とラーンの額を汗がひとすじ流れ落ちた。いや、見れば玉のような汗がいくつも浮いていた。それほどに対象に己の意識内の時間進行を押しつける《メモライズ》は高い負荷を使用者に強いる技なのだ。
「なるほど……ジゼル、キミの言い分はよくわかった。その苦しみと、孤独も、わたしには少しは理解できる。先天的な異能者として生まれてきたわたしの人生もまっすぐではなかったからね」
つづれ織りの坂道をひとり、何度も折り返して上っていくような日々だったよ。
「だが――我がエクストラム法王庁の聖堂に、ヒトが管理できないような異能者は必要ない。この先、永久に、だ」
ジゼルに施された遅滞時間の技は、その肉体の動作にだけ限られる。
指一本動かせず、瞬きひとつできないが、聴覚はラーンの声を脳に届けるし、視野に入れば視覚はラーンを捉えることもできる。
ジゼルは《メモライズ》の解けた瞬間に、まるで夢を一瞬で見るようにそれらを知覚することになる。圧縮された情報が、脳内で解凍された瞬間、爆発的に浸潤するのだ。
だから、停滞した流れのなかにいるジゼルにラーンが話しかけることは無駄ではない。
「制御できない《ちから》など無用――そのことは、ジゼル、キミだってよくわかっていたのだね。あえて『よくわかっていたはずだ』とは言わないよ? だからこそ、キミは今日ここまで来たんだ。そうだろう?」
声をあげることさえおっくうな様子でラーンは続けた。
いつもの明晰な調子ではなく、それはどこか後ろ暗い響きを持っていた。
「『一緒に堕ちてくれ』というわけだ。『この苦しみに満ちた生から解き放ってくれ』というわけだ。その人生の始末の片棒を、わたしに担げ、とキミは言うのだな。
キミ自身は無意識にも、いや無意識だからこそ、徹底的に計算していたのだな? だから、今日、この日、嵐の晩にそんな無防備な姿で、狙いすまして、わたしのところへ来たのだな?」
ずらり、とラーンが腰のナイフを抜き放った。
護身用というにも心もとない鋼の刃だが、身動きひとつままならない生け贄の子羊の命を終わらせるには、それは充分すぎる得物だった。ラーンはジゼルの正面に回り込んだ。
「そして、“秘密”を打ち明けた」
燭台から差す炎の照り返しで、刃が鈍く光った。
ジゼルの体表面で《メモライズ》に巻き込まれた水滴が重力に逆らい、プディングのようにふるふると揺れた。停滞時間が解除される前兆だった。
「ジゼル、キミを野放しにするわけにはいかない」
言い終えるより早く、ラーンはナイフをジゼルの胸に振り下ろした。
びゅ、と絹の裂ける音がした。それから、ラーンが手放したナイフが床の石材に落ちて甲高い音を立てた。
血はしぶかなかった。それどころかジゼルの肉体には、傷ひとつなかった。かわりに小さな切れ目が貫頭衣に出来ていた。
そして、ラーンはジゼルの衣服に手をかけ、力任せに引き裂いた。加えられた切れ込みから、絹の衣装は簡単に断ち切られた。
次の瞬間、ジゼルの凍結されていた時間が、解凍された。
ぱたたたっ、と水が床を叩いた。
ジゼルはラーンの腕に捕らえられていた。右腕に肩を抱かれ、左手に臀部を鷲掴みにされて。
「キミはこれ以降、わたしの管理下に置かれる。
所有物、収蔵物として。肉体の、精神のいたるところ、あらゆる場所に刻印を施す。
片時も忘れることができないようにする。
だが、かわりにキミには“わたしの命令に服する権利”を与える。
それに従うかぎり、全責は私が追う。キミが知りえたいかなる“秘密”もわたしのものだ。
だから、もう、“知ってしまうこと”に思い煩うな。
キミはわたしのものだ。わたしがキミの主だ。
従え」
オマエを――わたしが操ってやる。
低く、そうささやきながら、ラーンはジゼルの裸身を資料室の裏側に隠された寝室のベッドに運んだ。夜を徹して研究に没頭する癖が抜けないラーンの為に特別にあつらえられたものだ。
「もう、後戻りは許されない」
われわれは、いま、この瞬間から、“秘密”の共有という背徳によって結ばれた同盟者となる。
いいね? そうラーンは確認した。
ジゼルからの応えはなかった。
ただ、強く抱き返してくる腕と脚だけが、ジゼルの心を言い表すのだった。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-10-05T18:35:02+09:00
まほそとトビスケ
NINJA BLOG
まほそとトビスケ
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http://crucrucible.blog.shinobi.jp/ss03/ss03eps16
燦然のソウルスピナ 第三話・第十六夜:密偵
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波しぶく島の首都:カテルの波止場に隣接する倉庫街の暗がりをするり、と抜け出す影があった。
それは密航者であった。
だが、その密航者を運んできた法王庁からすればそれは意図的な、つまり図られた密航であった。員数をごまかし、荷に紛れて自らの密偵を潜り込ませる意図が法...
※
波しぶく島の首都:カテルの波止場に隣接する倉庫街の暗がりをするり、と抜け出す影があった。
それは密航者であった。
だが、その密航者を運んできた法王庁からすればそれは意図的な、つまり図られた密航であった。員数をごまかし、荷に紛れて自らの密偵を潜り込ませる意図が法王庁にはあったのだ。
老齢にさしかかりかけた男であった。灰色になりかけた頭髪にヒゲを蓄えていた。
身なりはどこにでもいる、働き盛りをすぎた男のようであった。
しかし、見るべき者が見ればその身のこなしには遅滞がなく、老齢から来るはずの関節の軋みなどどこにもないことに気がついたであろう。
それは絶え間なく体幹と柔軟性を鍛え続け、その鍛練と同じかそれ以上の時間、肉体の手入れを抜かりなく行ってきた者だけが獲得することのできる技だと気がついただろう。
バントライン・パダナウ――バートンという愛称で呼ばれるこの男こそは、かつてアシュレの従者であったユーニスの祖父だった。バラージェ家の執事と密偵を兼任する。
法王庁から奪取された聖遺物奪還の任を受け旧イグナーシュ領に赴くアシュレを補佐していた男である。
国境の村:パロでアシュレに重要な情報を届けた後、バートンは一度、エクストラムに戻った。そして、事件の解決を待ち、法王庁の遠征軍に先んじて再びイグナーシュに赴き、アシュレが聖遺物強奪の賊を追討する旅に無断で出立したことを知ったのだ。
なにかある、と直感した。
幼いころからアシュレを知るバートンは、己の孫同然であった少年騎士――そして、当主:グレスナウ亡きいまではバートンの主である若き騎士が、法王庁への報告を怠るような気質の持ち主ではないことを、充分すぎるほど心得ていた。
バートンは一週間をイグナーシュで過ごした。
そして、困窮に喘ぐ旧イグナーシュ領の民を救済し、また生活と治安とを恒久的に回復させるため、一時的に法王領に編入するとの名目で進駐してきた聖堂騎士団と聖遺物管理課の先遣隊と入れ替わりに、いったん法都:エクストラムへ戻ろうとした。
ともかくバラージェ家の屋敷で息子の安否を気づかう未亡人:ソフィアに、とにもかくにも無事であるという報だけは持ち帰ろうとしたのだ。
その矢先、法王庁側が接触を持ってきた。
すなわち、ラーンからの正規の委任状を携えたジゼルが、復興の悦びとようやく到着した救いの手がもたらした物資の分配に湧く人々の輪から、ひとり離れようとするバートンを呼び止めたのだ。
知己、という堅苦しい記し方が滑稽になるくらい互いを知るふたりであった。
バラージェ家とオーベルニュ家。
古い貴族の血に連なるふたつの家が結びつきを強めるため取り決めた結婚――将来アシュレの奥方となることを定められたジゼルのことを、バートンもまた幼少からよく知っていた。
許嫁の取り決めはアシュレ八歳、ジゼル十二歳のときであった。
そしてその取り決めは、本人たち以外には秘されていた。
もし成人までにアシュレに《スピンドル》能力の発現がなかった場合、さらにアシュレが聖騎士に昇格できるほどの能力者でなかった場合、この婚約は破棄されることになっていたからだ。
幼いふたりは言いつけを守った。
ジゼルは周囲に口を酸っぱくして釘を刺されてようやくに、アシュレは素直に。
いまでもやや優等生気質の強すぎるきらいのあるアシュレだが、当時にあってさえ、その責任感の強さは、バートンであっても驚かされるところがあった。
幼少期は病弱で、そこから抜け出してもまだ少女のような、ばら色の頬と柔和な性格・顔立ちの持ち主がときおり見せる《意志》の強さに、バートンは貴くまぶしいものを見るような心持ちになったものだ。
そして同時に、ひどく遠く危うい場所にいつかこの少年が行ってしまうような予感を覚えた。
おそらく、当時の当主であったグレスナウもそのような危惧を抱えていたのだろう。
まったく正反対の気質――勝ち気で奔放で、さっぱりとした言動の――少女を許嫁としたのは、単に政治的な背景からだけではない、とバートンは思ったものだ。
ただまあ、ジゼルは薬としては劇薬過ぎたようで、その過激なアプローチに耐えかねたアシュレがバートンの居室に助けを求めて飛び込んできたり、ユーニスやレダマリアが幼いながらの乙女心を傷つけられたり、嫉妬に燃えたりと、とにかく来訪の度に一悶着も二悶着も起してくれる娘だった。
それでもバラージェ家に新鮮な空気を運んでくれるという役割はした。
もっとも、もしかしたら当のオーベルニュ家でもジゼルを持て余していたのかもしれない。なんのかんのと理由をつけてはジゼルはバラージェ家に入り浸った。
アシュレが《スピンドル》能力を発現させ、聖騎士となり、その初任務を済ませたら――法王から賜われるはずの恩賞に替えて、アシュレはジゼルを娶る申し出をする、というのが両家の取り決めだった。
その初任務こそが、今回の事件の発端、イグナーシュ領での出来事だった。
現地でバートンが得た情報を総合すると、任務を続行するためとはいえ、なんの報告もせずにアシュレは旅立ったわけで、どんな事情があるにせよ、聖騎士の行いとしては少なからぬ難があった。
もし、アシュレがイゴの村人に言い残したという『追討に赴く』なる言葉が、法王庁からの離反を意味するであるとしたら、アシュレはジゼルとの婚姻をも破ったことになる。
なにごとも真面目に捕らえすぎるところのあったアシュレを知るバートンからすれば「よくやった」と褒めてやりたいくらいだが、その後の政治的状況を考慮すると手放しに称賛するわけにもいかない。
そこへ、民衆の救済という大儀の御旗を掲げた救援部隊を、ジゼルが率いていたのだ。
もちろん、こちらもその任務を鵜呑みにすることはできない。
バートンが疑問を抱くくらいだ。法王庁側も『聖騎士としてのアシュレの離反を疑っている』と考えるのが筋だった。
ややこしい人物に、ややこしい場所で、おまけにややこしい状況で捕まったものだ、とバートンは神に毒づいた。
聖騎士に任ぜられてからはとんと顔を出さなくなったジゼルとの邂逅はひさしぶりだったが、互いの顔を忘れることなどなかった。
赤みを帯びた豪奢な金髪と、強烈な印象を残すタイプの美貌の持ち主である。忘れたり見間違えたりするほうが難しい。
成人前、いや成人してからも治らなかったお転婆ぶりに手を焼かされ続けてきたバートンである。忘れろというほうがムリだった。
奉仕活動中なのであろう、尼僧の僧衣と被り物に聖堂騎士団、聖騎士、聖遺物管理課と所属を示す記章、腕章、袖章を身につけた彼女は、ごった返す人波のなかで的確に使節に従軍してきた商人を装うバートンを見抜いた。
「バラージェ家のバントラインさま? ご同行いただけますね?」
柔和なジゼルの微笑みにも、バートンは決して気を緩ませたりはしなかった。
聖遺物管理課というその字面だけを追えば、異端審問課などとは違い、歴史的・宗教的遺物の発掘と回収、管理を司る内政的な部署だと勘違いしがちだが、それは大いなる間違いだということをバートンは心得ていた。
聖遺物――多くの場合それは強大な力を秘めた《フォーカス》であり、それを法王庁の手に回収せよという任務の意味するところは、その聖遺物で武装した敵対勢力から実力で持ってそれを奪還する実動部隊こそ聖遺物管理課であるということだ。
そして、聖遺物管理課にはさらに上位の使命が存在する。
それは聖人認定の聖務だ。
イクス教の教義に厳密に照らし合わせれば、聖人とは生前、そして、死後の奇跡により認定されるものとある。
問題はこの“死後”の部分だ。
この世界――ワールズエンデには数多の魔物が息づき、恐るべき不死性を備えた魔の氏族も実在する。そしてなにより、己の所領――《閉鎖回廊》のその深奥で、王として、あるいは恐れ多くも神を気取るオーバーロードたちの振う《ちから》は、民衆の思い描くところの“奇跡”となんらかわらない。
その正否、正邪を見届け、確かめる任こそ、聖遺物管理課に在籍する聖騎士に課せられる最大級の聖務であった。
聖人認定という聖務の困難さ、特殊性は聖遺物管理課が法王直属の機関であることからもうかがえる。これは異端審問課に匹敵する権力だ。
このような特殊な所属、聖務に対し聖遺物管理課に属する聖騎士たちは、それらを全うするため、子飼いの――つまり私的な密偵を必ず囲う。
それは正攻法だけではいかんともしがたい局面が現実には無数にあり、旗印として嫌でも目立ってしまう聖騎士の影として、汚れ仕事を担当する者たちが、やはりどうしても必要であったからだ。
法王庁は聖騎士たちがいかなる人間を雇い入れたのか報告する義務までは課さなかった。
これは管理がずさんなのではない。いざ面倒事が起きたとき、政治的にしらを切り通すための保険であった。
バラージェ家の前当主:グレスナウもその例に漏れず、執事であるバートンが同時に密偵であることを法王庁に届け出たりはしなかった。
だが、聖騎士となったジゼルはいつのころからか、それに気がついていたらしい。
ジゼルのふたつ名――“聖泉の使徒”とは「いかなる嘘も見破る水鏡」の伝説から着いたものだという話に、バートンは眉をひそめたものだ。
そうでなくともこの時代、エクストラム法王庁は西方世界で一、二を争う情報網を持つと恐れられた集団だった。
バートンは連れ込まれた法王庁特使の天幕で聖騎士:アシュレの支援を前提とした捜索への協力を要請された。“教授”ことラーンと“聖泉の使徒”ジゼルテレジアのふたりからである。ふたりはアシュレを案じる様子で、暗にその離反の可能性をほのめかした。
もし、仮に離反が明らかとなれば、バラージェ家への沙汰は相当なものとなるだろう。
所領の、あるいは財産の没収程度で済めばよいほうで、異端審問課が口を挟まないとも限らない。
アシュレの母:ソフィアはまだ四十にも達さない若き未亡人であった。異端審問官たちが女の口からどんな手管で、彼らの望む証言を引き出すのか、バートンはよく心得ていた。
ラーンとジゼルは暗にそれをほのめかしながら、聖遺物管理課としてアシュレを支援したい、そのために彼の足跡を追いたい、とバートンに話した。
つまり、バートンはバラージェ家とソフィアの身を質草に取られ、協力を強請られたのである。
もちろん、バートンもこれまでいくども困難な状況を潜ってきた男であった。
「願ってもないこと」と快諾して見せた。
それは半分は演技であり、しかし半分は本心だった。アシュレの安否とともに、同道した孫娘のユーニスのそれをバートンは案じていたのだ。無論、アシュレとユーニスを襲ったことの顛末をバートンは知らない。知るよしもない。
「それで具体的にはなにを調べればよいのですかな?」
「“なにか”をだよ。バントライン氏。わたしは貴方の、いや、貴方だけが持つその“なにか”を期待している」
曲者ぞろいの法王庁で“教授”と徒名されるラーンの要求は、なるほど哲学的かつ直感的だった。
だが、その言葉にしきれないニュアンスはバートンにはよくわかる――いや、むしろたいへんに馴染み深い感触ではあった。
バートン自身に《スピンドル》能力はない。
しかし、《スピンドル》とはヒトの《意志》が引き起こす強力なエネルギー反応だと、バートンは経験から学んでいた。
そして、《意志》の《ちから》に無自覚であっては見落としてしまう“なにか”が聖騎士を代表とする《スピンドル》能力者たちが立ち向かう《世界》には無数にあることを、バートンは知悉していた。主であり無二の友であったグレスナウとともに幾多の暗い夜を駆け抜けた経験が、バートンに見落としてはならぬ“なにか”を見出す注意深さを養わせたのだ。
それは予兆、前兆、しるし、だ。
ラーンはあえて、法王庁がすでに得ているであろうアシュレの足跡についての予備情報を、限定的にしかバートンに開示しなかった。
これはバートンという男をラーンが信用していないことのしるしであると同時に、なんらしかの化学変化――偶発的な遭遇が引き起こす“なにか”を期待しているのだとバートンは理解している。
それにしても、妙な具合だ、と闇にひそみながらバートンは思う。
ラーンからバートンが要請された案件は「アシュレダウと接触を持ち、状況と事情の詳細を報告させること、また同時に正規の支援体制を法王庁は整えつつあり、これを受けるよう通達すること。もし、接触できない場合は、その足跡を可能なかぎり細部に渡るまで調べ、ラーンに報告すること」だった。
けれども、いったん法王庁に戻ったラーンたちとともに、秘匿された任務を負い商船に偽装したガレーシップに乗せられ辿り着いたのは、同じイクス教徒、それも勢力を拡大するアラム教のオズマドラ帝国に東方世界ではもはや唯一といってよい対抗組織:カテル病院騎士団の本拠地、カテル島だった。
アシュレが聖遺物を強奪した賊を追い、イグナーシュ領から出立するのを影ながらカテル病院騎士のひとりが支援したことはすでに判明している。
そして、その男が精鋭ぞろいのカテル病院騎士団で筆頭騎士を勤める、ノーマン・バージェスト・ハーヴェイであることも。
そこまでわかっていながら、ラーンはあくまで今回の来訪は、新法王:ヴェルジネス一世の誕生を報せるためだとしらを切り通している。
その裏で、バートンをアシュレ捜索に駆り出しておいて、だ。
バートンはこの使節に同道してからというもの、首筋に走るぴりぴりとした感触が抜けずにいる。
単刀直入に訊けば済むものを、あえて切り出さず、それなのに背後で秘密裏に諜報戦を仕掛けるこのやり方は、相手の失脚を狙う貴族たちの権力ゲームに構図がそっくりだ。
ただ、多くの引け腰貴族と違うのは、ラーンはやるといったらやり通す男であり、その背後には強大な権力を備えた組織――法王庁が控えているということだ。
軍事面では法王庁は聖堂騎士、従士隊を含めて正規兵は二〇〇〇程度、傭兵を雇い入れてまあ、四〇〇〇から五〇〇〇といったところだが、新法王:ヴェルジネス一世は十字軍の提唱に熱心であるらしい。
アシュレの父、グレスナウが戦死した第十一次十字軍では、その総戦力は二十万に達した。これでも十字軍としては小規模なほうで、最大と言われた第九次では、なんと二十年に渡り二百万人もの人口が参戦したのだ。
それだけの軍事力を揃える覚悟、いや、狂気が現在の法王庁では胎動している。
あの思慮深いレダマリアという少女を、幼少時からよく知るバートンにとっては信じ難い話だが、権力の座に着くとともに豹変する指導者の姿は、ある意味で歴史のなかでは風物詩とも言えるありふれた光景だ。
まさか、あのひとが、あのひとだけは、そんなふうには見えなかった、などというのは人間という生き物に対してよほどの無知か、無関心なだけであろう、とバートンは思う。
いや、本人ではなく取り巻きの枢機卿団が吹き込んだ可能性だって大いにある。
新法王選出ともはやひとつそろいの行事となった感のある新枢機卿の任命にあたり、ずいぶんときな臭い名前を聞いたことをバートンは忘れていない。
十字軍などありえない、現実的ではないなどという都合のよい夢想に身を任せてよい時間は過ぎ去ったのだ。
その強大な軍事力を背景に、法王庁はカテル病院騎士団を揉み潰そうとしているのではないか? これはその戦端を合法的に、大義の御旗によって開こうという工作の、その前哨戦なのではないか。
そうバートンは疑っている。
カテル島はひどい嵐だ。
気候が穏やかなことで知られるカテル島で雪が積もるなどここ一世紀の記録にはないはずだ。
薄暗い倉庫が風雪と叩きつける海水に軋みを上げるなか、バートンは身体の凝りをほぐす準備運動を行いながら、夜陰に沈むカテルの街並みを観察した。
法王庁からの使節歓迎のためだろう。嵐の晩であるにも関わらず、カテルには明かりが灯っていた。ガラス窓を備える富豪の邸宅や商館、各国の騎士館はいうにや及ばず、港をぐるりと取り囲む城塞にもいたるところに篝火が焚かれている。
灯台の尖端で燃やされる盛大な炎が、バートンのいる倉庫外の屋根裏部屋からもよく見えた。
そして、バートンは夜陰に紛れて哨戒を続ける軍人たちの姿を幾度となく見た。
もちろん、歩哨や定期的に都市を見回る夜警番とは別に、だ。
これは異例なことが動いている、とすぐに察することができた。よく観察すれば歩哨も、巡回も増員されており、これは警戒度を上げると同時に、夜陰に紛れた兵士たちが部外者に見咎められたときすぐさま夜警の交代要員として言い繕うことができるなかなかにうまい手であると、バートンは見抜いた。
だが、これではまるで戦時ではないか。
ガレー船三艘の乗組員が上陸しているとはいえ、そして、一手指し手を誤れば、致命的な事態を招く可能性のある会談が持たれているとはいえ、この警戒度の高さは尋常ではない。
いかにこのカテル島が異教徒との闘争のその最前線に位置しているとはいえど、だ。
これでは、まるで今夜のうちに襲撃があることを予見しているようではないか。
そうバートンが疑問を抱いた瞬間だった。
一瞬、夜陰が真っ白に消し飛んだ。バートンの目に雪に煙るカテルの街並みがはっきりと焼きついた。続けて、腹の底に響き渡る――雷轟。
ごうらん、と大気が爆ぜ、次に地面がたしかに揺れた。
ただの落雷ではない、とバートンは瞬時に理解した。
これは《スピンドル》能力者による戦闘行動の余波だと、強力な《フォーカス》とそこに伝導され発現した異能・超技の影響だと。さらに見抜いた。
この効果は、〈シヴニール〉によるものだ。少なくとも最初の雷轟に、バートンは馴染みがあった。グレスナウとともに暗闘を続けてきた経験は伊達ではなかった。
ここにアシュレが、若当主がいる。
しかし、多くの住民が、何事かと雷光と爆音とが飛来した側に目を向けるなかで、バートンはひとり冷静に観察していた。
その雷轟に呼応するように、カテル山のそこかしこが発光したのを。
それは一瞬だったが、たしかな光をバートンは認めた。
数人の騎士だろう男たちが市街からグレーテル派の教会が位置する丘を目指して駆けて行く。その教会の背後にカテル島はそびえている。
バートンは見出したことを直感した。
これこそが探し求める“なにか”だ、と。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-09-28T16:54:41+09:00
まほそとトビスケ
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まほそとトビスケ
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第一夜:素拉麺への道:後編(もしくは、茹で鶏は冷めているか)
□あらすぎる前回のあらすじ
(「胃のなかの蛙が、グウと鳴くので」第一夜前編:前回までのお話は→こちら)
おみやげのミード同人誌にうつつをぬかし、鍋を吹きこぼしてしまったアシュレ。
出汁を取るための素材は、同時に液体に粘性を与えるため、これらを加えられた鍋は、
真水のそれに比...
□あらすぎる前回のあらすじ
(「胃のなかの蛙が、グウと鳴くので」第一夜前編:前回までのお話は→こちら)
おみやげのミード同人誌にうつつをぬかし、鍋を吹きこぼしてしまったアシュレ。
出汁を取るための素材は、同時に液体に粘性を与えるため、これらを加えられた鍋は、
真水のそれに比べて格段に吹きこぼれやすくなる。
冷めかけた茹で汁に昆布を放り込み中火にかけたアシュレは、そのことを失念していた。
シオンの忠告で、すぐに気がついたからよかったものの、リチェッタを忠実に再現するなら、
ほんとうは、この昆布は沸騰前に取り出さなければならないものだ。
かつお節を入れた後だったら、もっと取り返しのつかないことになっていただろう。
□ ボク、やらかしました
「いきなり、つまずいちゃったな」
「浮気症の男はなにをやらせてもダメだ、という話だな。
それもひとさまの本に気をとられて、己の本道を見失うようでは……。
しかし、さいわいにも失われた茹で汁はごくわずかなようだし、人生にハプニングはつきものだ。リチェッタの通りにならんことのほうが多い。このまま続けてみよ」
「シオンが寛大な公女さまで、ボクはしあわせだよ」
「そうであろう? 意外と融通が利く――これも惚れた弱みと言うやつか」
「あはあは、なんだか、汗が出てきちゃったな――続けよう」
アシュレは気を取りなおし、昆布を鍋から取り出すと再沸騰させるべく火を入れた。
「ふーん、かつお節を入れるのには、ぐらぐらになるまで沸かさねばならんのだな?」
「魚や麺類は多いね、そういうの。あ、素麺もそうなんだよ」
「ぐらぐらか? なるほど、煮えきらんのはヒトも湯も、やはりダメなのだな」
「(いや、昆布は煮ちゃだめなんですけど)」
「それにしても、かつお節、うっとりだな。この薫り、美しい断面とスープの色、そして、あの味わい。最初見たときは、なぜ木材を削って鍋に入れるのか、ちっともわからなくて困惑したが、まさか、かちこちに乾燥させたお魚さんであったとは」
「素材を丸ごと見る機会って、料理人でもないかぎり、あまりないからね。ちなみに、今日は本枯れ節を使うよ」
「ほう! 贅沢であるな! ふーん、そうやってわたしのご機嫌をとろうというのか。ふふ、これ見よがしの華美な宝飾より、たしかに好みではあるな、そういうほうが」
「そう。よかった(パックのヤツだとはとても言えない)」
アシュレは、あらかじめ材料を皿に出していたことを神に感謝した。
小袋に分けられていたかつお節はよい薫りを放っている。
これ一袋分で約2.5グロセル(グラム)に充当するから、ほぼレシピ通りだ。
ちなみに、市販品のほとんどは原材料名:「かつおのふし」となっていて、これは「荒節」のことだ。沸騰する直前の湯で静かに熱を通したあと、骨を丁寧に除去し、いぶして乾燥させる。ここまでの加工で作られたものが「荒節」。
さらにこれを日干しして、周囲を綺麗に削り、そのうえでカビ着けし油脂を分解させ、徹底的に水分を取り去ると同時に、独特の香気を与えたものが「本枯れ節」である。
成分表示で原材料名が「かつおのかれぶし」となっているなら、それは「本枯れ節」を指していることになる。
いざ探してみると、じつは見つけ出すのは意外と難しいし、すこし高価な食材だ。
ただ、これはものの優劣を指しているのではない。
たしかに工程を差し挟む分、本枯れ節は高価でその味わいも薫りも繊細だが、逆に荒節は強いコクと薫蒸香、かつお本来の野趣を保っている。
今回はあくまでシンプルな構成なので本枯れ節を選んだのだが、トンコツや、丸鶏などで取った動物性のもっと力強いスープには、荒節でないと打ち負けてしまう。
魚介系トンコツスープのつけ麺に、ウルメイワシの魚粉が乗っているのを見たことがないだろうか? ふつう、あんなに魚粉を投入すれば、そのスープはとんでもなく魚臭くなるはずだ。
だが、超濃厚なトンコツスープを前にしては、あれほどの魚の匂いがないと「効いて感じられない」のだ。
それは逆説的に言えば、動物の乳脂肪、脂や骨髄の放つ「獣臭」は「魚臭」を押さえ込むことが出来るというある種の「奥義」・「秘伝」に繋がるヒントなのだ、とイズマはアシュレに語ったものだ。
たとえば、ある致命的な毒素を打ち消すのに、これも恐ろしい別種の毒を用い、拮抗状態を作り出すことさえできる――そんな秘奥へと。
もっとも、食材の場合は「相乗効果で旨くなる」んだけどね、と笑った。
「いろんなとこに気づかないうちに使われてんだよー。観察すればー?」
といつものあの軽薄で小癪な口調でそう付け加えたものだ。
□ 小癪な態度
すべては用途次第。使い手の工夫次第。
素材そのものに貴賎はない――だから、料理は面白いんだよ、と。
そんなことを思い出しながら、アシュレは調理を続ける。
「お、そろそろいいのではないか。よく沸いておる」
「よし。一気にかつお節を入れるよ。一瞬、爆発的に吹き上がるから、投入したらすこし火を加減して」
「おお、いい薫りだ。出だしの失敗を取り戻すような金色になっていく――うっかりすると捨ててしまうような茹で汁が、見事なスープになってゆくな!」
「こうしてる間に――麺を茹でて……これは指定時間の半分でいい。この麺だと1分だね」
「なぜだ?」
「熱いスープに浸かるんだ。指示通りじゃのびちゃうよ」
「そなた、賢いな?」
「それ、褒めてるの?」
「もちろんだとも」
アシュレは素麺を二束、これもあらかじめ沸かしておいた湯に投入した。
「ふむん? そのちっこいフライパンはどうするのだ?」
「よおく熱して……ここへ、お醤油を――入れたら、すかさず火を消す!」
「おお、醤油の焦げるよい薫りが! 俄然、食欲が湧いてきたな!」
「これを、どんぶりに移して、スープで割るんだ」
「なぜわざわざ、焦がす?」
「そのまま入れると、醤油の匂いが立ち過ぎて、調和しないんだ」
「ふーむ、いろいろあるのだな、細かいコツが」
言いながら、アシュレはさらにどんぶりに油をティースプーンに2杯ずつくらい垂らした。
「それは?」
「ないときは、オリーブ油でもごま油でもいいんだけど、今日はたまたまネギ油を作っていたから――ほんとは鶏油(チーユ)で作るんだけど、これは綿実油でネギを炒めて薫りを移したものだよ?」
「ほー、そなた、あれこれ手の込んだことを」
アシュレは茹であがった素麺をスープの満たされたどんぶりに移し入れ、ひと混ぜ。
下層に溜まりがちな焦がし醤油を均等に行き渡るようにする。
最後に小口に刻んであったアサツキを散らして――
「さあ、完成だ――めしあがれ!」
□ 今回のお料理
透き通ったスープに浸かった純白の素麺を見下ろし、シオンは一口、スープをレンゲで音もなく含んだ。
「?!」
驚愕の表情でアシュレを見つめ、それから思い出したように麺を一口、これも音もなくすすった。
「?!?!」
それから怒濤の勢いでシオンはどんぶりの内容を平らげた。
誇り高い夜魔の公女が、音を立てて(つまり拉麺の作法としては正しく)麺をすすり、スープを最後の一滴まで、アシュレがゴブレットについだ冷水までも飲み干してから、瞠目して見つめ返してきた。
「――な、なんだこれは?」
事情のわからぬアシュレとしては冷や汗ものだ。
冷ましているチキンを差し出すのはともかく、合点のいかないものをシオンに食べさせたとなると、気が気ではなかった。
「だめ……だったかな?」
アシュレの気弱な問いかけに、シオンが見せたのは破顔一笑だった。それも天を仰いでの。
「逆だ、逆。これは……まったく素晴らしい!」
標準的かつ本格的な、店舗のラーメンという意味では規格外だが、と前置きしてシオンは言った。だが、その前置きは否定的にものを語るためのものではない。むしろ意気込んで、称賛しようとする衝動を、なんとか中立に保とうとする心の働きだった。
「これはもう、いまでは見かけることさえ難しい、なつかしい鶏ガラベースの醤油ラーメン――そのルーツのようだな。いや、むしろ麺がかん水を使わぬ素麺であるだけに、スープの風味を、まったく阻害せぬから、一体感が、すごい」
「鶏を茹でるときに甘味の強く出る野菜を加えなかったのが、いいほうに出たみたいだね。
お醤油の旨味と塩気、鶏、昆布、カツオにニンニクの旨味が合わさって――カードゲームで言うならファイブカード、といったところなのかな?」
「あっさりとしているから、胃にもたれることもない!」
「時期が合うなら、シジミのスープで割り割りにしてもいいかもしれない」
「そなた、天才であろう! 店舗を持て!」
シオンの手放しの称賛にアシュレは照れ、頭をかいてから、真顔になって言った。
□ それは違うよ
「それは違うよ、シオン。こんなことは、もう、ずっと以前にプロフェッショナルたちは、気がついていることさ」
「なんだと? わたしは……しらんぞ?」
「丸鶏のスープがあって、茹で鶏のラーメンがないなんてこと、あるはずない。シジミの澄まし汁の旨さを知る人間が、そこに麺をあわせたいと思わないはずがない。ボクのやっていることは、たぶんきっと、アガンティリス期の――たとえば滑車の再発見みたいなことなんだ」
「では、では、なぜ、こんなあっさりとして、手早くできて、うまいものが――世にないのか? すくなくとも、ほんとうに、わたしは知らなかった。
こう言ってはなんだが、インスタントとは比べ物にならんぞ? このスープなど、へたな店舗のものより……」
意気込むシオンを、アシュレは手を挙げて制した。
「ひとつには、スープの脆弱性だろうね。……このスープ、長時間の加熱には到底、耐えられないんだ。たぶん、いま鍋の中身を再加熱しても味が劣化してるんじゃないかな? 瞬間芸なんだよ」
「そう……なのか?!」
「ボクが思うに、プロのほんとうに凄いところは、瞬間的な逸脱をすることだけではなくて、その再現性――何度同じ作業をさせても、ほぼ的中の再現能力にあるんだ。
目を見張るような、すごい才能を発揮するヒトはアマチュアにもたくさんいる。
でも百回、千回、一万回、それ以上、同じ作業を繰り返してなお、人々に感動を与えることのできるものを、そのヒトたちは毎日、確実に何度も生み出せるだろうか?
同じことを繰り返せる?
いつ来るのか、何人で来るのか、年齢も、その構成も、男女比さえもわからないお客相手に?
数百、数千、数万のお客さんを相手に――ずっと、長い年月を通して。
お店の、それからインスタントのラーメンは、そのすべてに耐えなければ、耐えられなければならない。圧倒的なタフネスさを要求されているんだ。
そのとき、一緒に食事するだれかと美味しく食べれたなら、それでいいボクの料理とは――根幹が違う」
キミたち夜魔ならべつかもしれないけれど、これは人間にとっては至難の業なんだよ。
それから、とアシュレは宙を見つめてから言った。
「もうひとつは、このあっさりしすぎた味だと思うんだ。
汁まですべて飲み干しても、まったくしんどくない。麺に癖も皆無だ。
でも、それは裏を返すと、中毒的なインパクト、濃さを求める現在の世相からは逆走している、とも言える。
インスタント麺にあって、これにないもの――もしかしたら、そこにみんながラーメンに求める“なにか”の本質があるのかもしれないって、ボクは思うんだ」
「あ……」
シオンが口に手を当てて、自らを省みた。
素麺はラーメンにはなりえないし、という自らの言葉にたいして、だ。
だが、そんなシオンの桜色に上気した頬を見つめてアシュレは言うのだ。
「だから、これは、ボクがシオンやイリスにだけ作ればいい――そういう、世には決して露出しないメニューであっていいと思っているんだ。
逆に言うとシオンやイリス以外のヒトに、これはラーメンではない、と断じられても構わない。
評価されなければならない、それも多くのヒトに、という思い込みは一種の病気だとボクは思っている。
もちろん、プロとして、それで飯を食っていくなら、その病気の海を泳ぎきれなければだめだ、とは思うよ? その覚悟がないなら、プロを目指すべきでない、とさえ思う。
でも、すべてが、なんでもかんでもが、そうであるべきとは、とても思えない。
だから――すくなくともボクの料理は、せいぜい趣味、それ以前にかたわらにいてくれるヒトのためのものだ。
だから、これは、これでいいんだよ」
□ 微笑み
気負いのないアシュレの発言に、シオンの頬はますます上気する。
だが、それを自らの言葉に照れてしまって顔を逸らしたアシュレは知らない。
「アシュレ」
「なんだい?」
「やっぱり、お腹がすいた」
え、とアシュレは固まる。
小さな《夢》を込められたアシュレ渾身の一杯は、その《夢》を糧として生きる夜魔の姫であるシオンにとって呼び水でしかなかったようだ。
くるくるくー、とそのお腹がかわいらしく、しかし、獰猛に鳴った。
拉麺を食べてる間に、綺麗に冷めたチキンの運命は、推して知るべし、である。
素拉麺への道:fin.
あらら、やっぱしチキンは食べられてしまったのでした。
そして、小説形式に戻ってしまっとるやないけ!
と、いうわけで、胃のなかの蛙が第一夜:素拉麺への道、とりあえずの終幕でございます。
この素拉麺は、この夏(2014)、ボクらが参加させてもらった「てふや食堂さん」と「醤油をこぼすと染みになる」さん主催のそうめん本「毎日そうめん」に寄稿させてもらう原稿の、いくつかあった、断念したものの再現になります。
1P に収めるの、ムリだったんですね。
(つか、二品だから。茹で鶏と素拉麺だから。ワン、ツー、2つですよ? 気づいていこう、気づいていこう、な? な?)
わざわざ茹で鶏から作らずに顆粒の鶏出汁(丸鶏の化学調味料無添加の、だって探せばあるご時世です)を使えば、一行で再現できるんですけど、あくまで「残り湯(茹で汁)」にこだわりたかったのでしょう。当時のボクは。
まあ、おかげで《夢》を糧とする夜魔の姫:シオンの食へのこだわりと、うまく絡めることができた気もいたします。
いかがでしたでしょうか?
読んでいて、小腹の空く内容であったでしょうか?
みなさんの胃のなかの蛙に、すこしでも働き掛けるものがあったなら、作者的にはガッツポーズなのですが。
それで、ついでにしてはいけないんですけれども、そうめんの話題の締めくくり的に、何度も話題に上ります「毎日そうめん」のご紹介をさせてください。
もともと、ことの発端はここからだったのですから。
□ たとえば、そうめんの茹でかた一例と、一押しそうめん列挙
このように、イラスト満載の楽しい構成(調理過程は、こちらでモザイク入れさせてもらっています。また掲載にあたり「てふや食堂さん」には、事前にご許可頂いております)。
豪華なゲストさんたちによるアイディア満載のそうめんのページも、美しい写真やイラスト、漫画に彩られていて、とってもステキな本でした。(そこにわれら、まぎれてます)。
ああ、こんなステキな本がチビッコの頃にあったなら(少年期の数奇な食生活を回想)――腐った弁当で命の危険にさらされることも(つまりトビスケは学校に生ゴミを運搬したわけである)、二週間分の食料として渡された段ボール箱いっぱいの塩ラーメンを前に呆然とすることも、切れていた小麦粉のかわりにプロテインで代用され、コンクリートのような色彩と食感を獲得し、異臭を放つグラタンに突っ伏すことも、きっときっとなかったであろう!!
エリ・エリ・レマ・サバクタニ!!(あまりの回想に血涙し)
じつはもうすこし、紙面を割いてご紹介したいのですが、この本、すでに完売ということでして、もう手に入らないものを「もってるぜー。参加したぜー(小学生)」と幾度も騒ぐのは、ちょと大人的にはどうなのさ、と思い、このようなあっさりとした紹介にとどめました。
ただ「てふや食堂」さんは、ほかにも様々な食べ物に関する同人誌を作られてまして、これがまたどれも丁寧な考察と実調理・実食による高い実用性を、美しい写真とかわいいイラストでくるんだ逸品ぞろいなのであります。
巻末漫画も楽しいし、四匹のネコたちのイラストがこれまた、たまらなく愛らしい。
最新のものは現在(2014/09/26日)のところ「にんにく料理」とのこと。
ボクも送っていただいて持っているんですが――「にんにく料理」の本。
巻頭に「女の子たちに次はにんにくの本だすんだ、と告げたら薄ーい反応だった」みたいなことが書かれているんですけど、どうなんでしょうか。
ボク個人的には、世間体が女の子たちの本音を偏向させてしまっているのではないかなー、と思ってしまうのです。
だって、にんにく、美味しいもん。
美味しいものは男女を問わないはずだもん(そのカワイコぶるのをやめろ、トビスケ)。
どうなの? 女の子たち? ほんとのとこは?
というわけで、誰はばかることなくご自宅で、心ゆくまで、女の子たちもにんにくを堪能してもらいたい――という、願いを叶えるマジカルなこの一冊。
□ ってオイッ、男は黙ってにんにく!ってサブタイトル ガッツリ入っとるやないけッ(笑)!!
……オッホン(キャラを直す咳払い)
こちらのリンクから頒布予定のイベント確認できるみたいです。
→てふや食堂
では、なにか危険なトビスケの本性がスタンドのように現れるスターダスト・クルセイダーズですが、あまり長引くとさまざま危険な性なるヴィジョンなので(大事なので二回言いました)、
次回、胃のなかの蛙がグウと鳴くので(以降「のなかのグウ」)第二夜でお会いしましょう。
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胃のなかの蛙が、グウと鳴くので
2014-09-25T20:00:00+09:00
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燦然のソウルスピナ 第三話・第十五夜:雷轟の夜
「ハイネヴェイル子爵。ご無事ですか」
舞い上がった土煙を吹き下ろす寒風が吹き流したとき、そこには片膝をつくヴァイツの姿があった。
瀟洒なスーツは鉤裂きとなり左腕がぐずぐずに溶解していた。
異臭が鼻を突く。
その傷の中心に〈ローズ・アブソリュート〉が残した白銀の刃が青白い光を放っ...
「ハイネヴェイル子爵。ご無事ですか」
舞い上がった土煙を吹き下ろす寒風が吹き流したとき、そこには片膝をつくヴァイツの姿があった。
瀟洒なスーツは鉤裂きとなり左腕がぐずぐずに溶解していた。
異臭が鼻を突く。
その傷の中心に〈ローズ・アブソリュート〉が残した白銀の刃が青白い光を放っていた。
「任務遂行中は隊長と呼びたまえ、アーネスト君」
「失礼しました。ヴァイツ隊長」
苦痛を耐えながら、その身を案じて駆けつけてきた旗下の女騎士をたしなめる余裕をヴァイツは見せた。
たった数秒の攻防で、砂浜にはクレーターが穿たれ、そこに続く草原の丘陵地帯は表土を剥ぎ取られ、まるで砲撃を受けたかのような様相となっていた。
緒戦は月下騎士側の大敗となった上陸作戦だったが、混乱から立ち直った騎士たちの動きは素早かった。
アシュレの不意打ちにより四散消滅した騎士や従者を除けば、もっとも深手を負ったの隊を率いるヴァイツ本人だった。
シオンの放った〈ローズ・アブソリュート〉がプラズマ乱流となって吹き荒れる直前、危険を察知したヴァイツは本能的に、そして連続的に《影渡り》を使ったのだ。
恐ろしい負荷が全身を軋ませ、眩暈を引き起こした。
けれどもなかば虚数の側に身を投じ、瞬間的に爆心地から逃れようとしたヴァイツにさえ〈ローズ・アブソリュート〉は追いすがってきた。
数百年を生きてきた夜魔の伯爵の血統をはっきりと心胆寒からしめたその攻撃を、ヴァイツは躱すことを断念し、左手を持って受け止めた。
子供の掌に収まる程度の刃だった。
途端に、その生涯で感じたことのなかった痛みと恐怖にヴァイツは襲われた。
夜魔の伝説に語られた邪剣:〈ローズ・アブソリュート〉は凄まじい威力を発揮した。
その刃に犯されている間、夜魔は一切の再生能力を封じられるのだ。羽根を引きむしられ地面に叩きつけられる鳥の気分をヴァイツは味わった。
それでも、怨敵:シオンザフィルに対し一太刀を返すことができたのは、意地と誇りのなせる技であった。
「隊長、いま、わたしが取り除いてさしあげます」
「やめたまえ、アーネスト君! その刃に触れてはならん!」
明らかにヴァイツの身を案じる夜魔の女騎士に対し、ヴァイツは玉のような脂汗を額から滴らせながら押しとどめた。
「では、どうしたら?」
「切断せよ。根元から、腕を」
ヴァイツの命に、アーネストと呼ばれた女騎士は目を瞠った。
夜魔とはいえ、同族の、それも上位者に対する敬意は存在する。その肉体を傷つけることへの躊躇もまた同じであった。だが、戦場での冷静な判断もまた騎士の資質として重要視されるものである。アーネストもガイゼルロンの誇る月下騎士の一員であった。
すらり、と自らの得物を抜刀し、アーネストは構えた。
「では、参ります」
「ひとおもいにやってくれたまえ」
鋭い呼気とともに、アーネストは剣を振り下ろした。
馬上戦闘を想定しているのだろう、片刃の反りを持った長剣は狙いあやまたず、ヴァイツの肩口から右腕を丸ごと切り落とした。
きりっ、とヴァイツの歯が鳴り、切断された肉塊がどうと地面に落ちた。
ヴァイツの右腕は〈ローズ・アブソリュート〉の刃に対する抵抗力を失い、瞬時に燃え上がった。真っ青な炎から鮮烈にバラが香った。
恐るべきは、たった一片の刃の破片をして夜魔の肉体を根絶する聖剣の威力だった。
その炎にヴァイツの肉体が再生する様が照らし出された。
人類であればそれだけで致命の一撃である肩口からの腕部切断だったが、上級夜魔に属するヴァイツにとっては、〈ローズ・アブソリュート〉の残刃によって継続的に再生を阻害されていることのほうがよほど危険であったのだ。
めきり、ごきりと肉が、骨が、腱が、新たに建造され復元する。傷口から大量に噴出していた血液は瞬時にその流出を止めた。表皮の完全再現までわずか三十秒。これが夜魔という種族の戦闘能力――ほとんど反則とも言える継戦能力の真骨頂だった。
もちろん、消耗がないわけではない。それら肉体の建材は基本的には夜魔がその肉体に蓄えた血液によって贖われる。
腕一本、完全な再構成はかなりの負担をヴァイツに強いたはずだ。
だが、美丈夫は顔色ひとつ変えず、立ち上がると鉤裂きになり、己の血潮を吸いそれがさらに土ぼこりによって汚された上着と上等なシルクのシャツを脱ぎ捨てた。
均整のとれた肉体が降りしきる雪のなかであらわになった。
アーネストが歩み寄り、自らのスカーフを外すと、ドレスの首筋から胸元までの肌をあらわにした。訴えかけるようにヴァイツを見上げた。
ヴァイツはアーネストの視線に真っ向から応えた。
アシュレの初撃で閃光のなかに消えた月下騎士のうち、ひとりはアーネストの夫であったのだ。そして、彼は知らぬことだがアーネストとヴァイツは密通関係にあった。
支配階級としては当然だが、ヴァイツもまた妻帯者であった。
さらにこれは前述したことだが、夜魔にとって首筋を差し出すことは隷属さえ厭わぬ求愛の仕草であったのだ。
「わたしの血で、贖ってくださいませ」
子爵――ヴァイツ様の消耗を。熱く濡れた瞳でアーネストは言った。頬は上気し、その呼気は弾むように白かった。
通常、従者である少年・少女たちはこういった場合に率先して消耗される食料であった。自律的に行動し、しかし命令には絶対服従で、自らの意志で「主人の血肉となる」存在。だが、アーネストはあえて、それをヴァイツにさせず、逆に自らを差し出そうとした。
それは亡き夫の徒をヴァイツに討って欲しいという心の現われであったか、それともようやく公然とヴァイツとの関係を結べることへの期待であったか、あるいは両方か。他種族にはとうてい理解することなどできぬであろう倒錯的感情のありようこそ、しかし、ある意味で夜魔という種族の特質を如実に表してもいたのだ。
それとも復讐心と背徳的な肉欲とは、どこか通底するものをもっているのだろうか。
女の目は、強い欲望でぎらぎらと濡れていた。
その真意を問い正すほどヴァイツは無粋ではなかった。
無言で美丈夫は応じた。
ヴァイツはアーネストの細い腰を抱き寄せると、その首筋に己の牙を埋め、思うさま血潮を貪った。喉笛を強く噛まれ吸血の贄となったはずのアーネストの顔には、例えようのない法悦の表情が浮かぶ。
夜魔はその隷属の代償に犠牲者に絶大な快楽を与えることができた。
奉仕するものに、心だけではなく肉の悦びを与え、文字通り身も心も虜とする能力は、夜魔が種として生存するために獲得した――蛇の毒のような――特性であった。
アーネストの肉体を抱え上げ、ヴァイツは鮮血を啜る。
ごぎり、めきり、と骨に犬歯の食い込む音が響くのに、アーネストの肉体は本能的な防御行動さえとらぬ。唇の端から血混じりの唾液とともに甘い鳴き声が漏れた。夜会服の長いスカートの奥で切なげに太股が擦り合わされる。
吸血はそれほど長い時間ではなかった。
まだ、戦闘は続いているのだ。大切な戦力の肉体から、使い物にならなくなるほど血液を抜き取ってしまうほどヴァイツは愚かではなかった。
「君の忠誠、女としての愛、そして、亡き夫のための復讐心――たしかに受け取った」
行為を終え、下ろしたアーネストを支えながら、ヴァイツはささやいた。
ああ、とふらつく足元を支えられながらヴァイツの胸板にしなだれかかり、アーネストは吐息をついた。首筋の傷はすでにない。だが、ヴァイツに首筋を捧げたのだという記憶は消えぬ痕跡となってアーネストの心に残るのだ。
その足元に馳せ参じた従者たちがかしずく。替えの衣服だった。
無言で彼らに奉仕させ、衣類を纏うヴァイツにアーネストが訊いた。
「やつらを、反逆者:シオンザフィルを捕らえたなら、その拷問にはぜひわたしを加えていただきたいのです」
「約束しよう。生まれ出でたことを後悔させながら、永劫に責め抜くと。その役割を君に賜るよう、陛下に進言すると」
「ありがたき幸せ。――では、すぐにでも追討を」
血気逸るアーネストの言葉に、いや、とヴァイツはかぶりを振った。
「それはしない」
アーネストの顔に驚愕が浮かんだ。
「なぜ、なぜですっ!」
「まず、体制を立て直す。さいわい、ここはそのための材料にはことかかない。君も、その消耗では戦えまい」
悠長な、とアーネストの表情が険を帯びた。ヴァイツはアーネストの顔は怒りに燃えているときこそ美しいと常々、感じていた。
ゆっくりと笑う。
「その怒りの顔、先ほどまでのわたしと同じだ、アーネスト。だが先ほどの一撃で、わたしは完全に醒めてしまったよ」
その笑みは酷薄な司令官のものだった。
「我らを狙撃したあの長射程兵器――〈シヴニール〉――エクストラムの聖騎士を名乗る者たちのなかに、その使い手がいたはずだ。たしかグレスナウ・バラージェ、といったか?
わたしに手合わせの経験はないが、数人の月下騎士が交戦記録を残している。人類の年齢を考えるなら、本人か、その息子か――おそらくシオンザフィルによって籠絡されたのだろう男が、手を貸しているな?
過去の交戦記録からだけでは〈シヴニール〉なる《フォーカス》の能力、その仔細まではわからぬが、先ほど見せた強大な攻撃能力は逆につけ入りどころでもある。
やつらは同じく家畜たちの生活、命、市街を踏み躙れないからだ。
そして、彼らの戦術はどうも奇妙だ。我々を挑発し、頭に血を昇らせ、自分たち以外の獲物のことなど考えられぬようにしてやりたい、という意図がはっきりと感じられる。
これは逆にやつらが“護りたいもの”を持ち、そこから我々を引き離したいのだということを、はっきりと現している。
さらには、どうしてやつらが第一に迎撃してきたのだ?
ここは我らが仇敵の一角:カテル病院騎士団の土地ではなかったのか?
十名はいるという精鋭の《スピンドル》能力者たちはどうした? なぜ出てこない。戦場に駆けつけ、殺到し、我らに闘争を挑まない?
これには必ず意図がある。そこを読み解くのだ」
淡々と語るヴァイツの顔を見上げながら、アーネストは感嘆の溜め息をついた。
ヴァイツは冷酷で残酷な性を持っていたが、それはある意味で優秀な司令官に必須の素養でもあったのだ。
己の間違い、指し手の誤りを率直に認め正し、さらに相手の指し手を読んで巻き返す。
戦場で揉まれ、培われたヴァイツの洞察力に、アーネストの心はすでに鷲掴みにされてしまっていた。
部下を酔わすことのできる司令官はそれだけで、他者を逸する存在だ。
「では、どうされるの、です?」
「やつらのもっとも嫌う状況を作り出し、演出する。つまり、やつらの陽動には乗らず、こちらが陽動をしかけ、混乱を巻き起こすのだ」
「どうやって?」
「本陣を食い破り、そのはらわたをディナーとしよう。鮮血の味はワインに勝るだろう」
この島の首都、カテルに進撃する。
「そうすれば、シオンザフィルたちは、わたしたちを追わざるをえない」
そして、彼らの最大の武器――〈シヴニール〉と〈ローズ・アブソリュート〉の広範囲攻撃はその時点で封じられる。
「メインディッシュは向こう側から飛び込んでくるのだ。我々は、ゆっくり前菜を食しながら、その到着を待てばいい。手始めに、火を熾そう。大きな暖炉だ。都市ひとつ、家畜の油を使ったな。冬の暖炉ほどよいものはない」
そうだ、アーネスト、君も喉が渇いただろう? ヴァイツは思い出したように言った。
「この島は本来、人類にとってじつに暮しやすい気候であるのだそうだ。そこで育った家畜たちの血に溶けた《夢》は、きっと素晴らしい味だろう」
年若い少年や少女の、甘い喉ごし。壮健なる若者の力強さ、清らかな乙女の清冽な薫り、脂の乗った壮年の血の重厚さ、そして歳経たものだけが獲得する枯れた味わい。
そこに、加えられた恐怖の苦味が、最高のアクセントだ。
「やつらは後悔することだろう。これならばおとなしく、我らと正々堂々、剣を交えるべきだったと。卑怯者をあしらうには、それなりの作法というものがあるのだと教えてやろう」
さあ、闘いの犬を放て、とヴァイツは命じる。
月下騎士団は進軍を開始する。シオンとアシュレが逃げた方向とは、まるで逆に。
悪夢の夜が始まった。
※
突然、耳を聾する大音声が周囲を圧した。ビリビリと大気が震えた。
アシュレの《フォーカス》:〈シヴニール〉が射出した大気を裂く大エネルギー、その高速擦過が生み出した轟音に、直後の水蒸気爆発、そして展開した〈ローズ・アブソリュート〉のプラズマ炎の炸裂がほとんど同時に重なった。
もし、法王庁の関係者が屋外で、しかも雪吹きすさぶ嵐の晩に海を眺めていたのなら、その正体が落雷ではなく、島影に巻き起こったエネルギー流の引き起こしたものだったと気がついただろう。
一瞬、島の上部に垂れ込めた雪雲が真っ白に光り輝いたほどだった。
「おっと、これは失礼」
優雅に銀のグラスで島特産の赤ワインを楽しんでいた枢機卿:ラーンがその轟音に驚き、ワインを衣類にこぼしてしまったことを同席者に詫びた。
二度目の湯浴みを終え、カテル病院騎士団の招きに誘われるまま歓迎の宴に出席したラーンを「歓待する」という名目で騎士団長:ザベルとグレーテル派の重役たちが監視している最中での出来事だった。
「落雷、でしょうかね?」
言葉だけなら人畜無害というかんじでラーンは言った。
それまでにこやかに言葉を交わし、互いの意見を率直に述べ合っていたラーンとザベル
だが、その実、ふたりはふたりとも互いを小指の先ほども信用していなかった。
事情を知るものが聞けば互いが針を飲み下す苦行を強いられているような痛みを、胃の辺りに感じたことだろう。
ラーンはやんわりと、そしてさも個人的興味からという様子で島の近況をあれこれと訊いた。
ラーンは法王庁:聖遺物管理課の主任であるだけでなく、音に聞こえた文人枢機卿である。今回のコンクラーベでも、法王当選の最有力候補のひとりに数えられていたほどだ。まったく個人的な随想録のため、と称して専任の秘書に食卓での会話を筆記させたほどだ。
いかに前法王の姪とはいえ、まさか十八歳の乙女:レダマリア・クルスがその座に着くとは、コンクラーベ終了間際まで誰も考えつかなかったのだ。
通例的に法王はその時の枢機卿団のなかでも最年長とは言わずとも、年長者たちが選ばれる例が多く、つまり老齢者が法王に多いのはそういう理由からなのだが、したがって在位期間が十年を越す者などまれで、法王選出から三ヶ月で死去した例もある。
壮年から老齢に達するまでに、枢機卿たちは数度に渡りコンクラーベ=法王選出のチャンスにたちあうことになる。だが、とうに五十の半ばを過ぎてしまっているラーンが七十に達したとき、レダマリアはまだ三十なかば。女盛りだ。
これでは、そんな可能性は諦めて作家として身を立てますよ、というラーンの言葉を冗談と笑い飛ばすことなどできない。
むろん、そこは一癖も二癖もある西方諸国の君主にはじまり、名門貴族に地方豪族、海運都市国家:ディードヤームを盟主とするミュゼット商業連合、そして現状を楽観視しがちな法王庁相手に資金調達から軍需物資である木材や鋼鉄の通商ラインの確保に尽力してきたザベルである。
実際の統治はダシュカマリエが、外交に関してはザベルザフトその任にあたってきた。
その主腕は下手な外交官など相手にならぬほどのものだったから、ふたりの攻防は、それは見事な剣の試合を観ているかのようでもあったのだ。
互いの撃ち込みを避け、躱し、受け、返し突き(リポスト)で攻め込む。
拮抗した、いや、権力と地位で勝る分、大胆な手を撃ち込めるラーンの有利を、騎士とは思えぬ老獪で腹の底の読めぬ防御で凌ぎ切る主腕で、ややザベル側上手という試合展開であった。
だが、その流れを轟音の一撃が、一気に変えた。
落雷だろうか、とは控えめな聞き方だった。
閃光と轟音に遅れて、ずしり、とたしかに地面が揺れたほどの衝撃だ。
「落ちた、のでしょうかな。この音、振動は」
もちろんザベルも、これが落雷でないことくらい百も承知であった。ラーンとは事前情報の量が違っていたのだ。島のどこかで戦端が開かれたこと、そして年若いアシュレが躊躇なく大技を叩き込んだであろうことがわかった。
中途半端にできぬ隠密に逃げず、己の最大戦力を躊躇なく叩き込んだ少年騎士の思いきりのよさに、ザベルは憂慮ではなくむしろ好感を憶えるのだ。
轟々と吹き荒れる嵐の晩に至近の落雷。大の大人でも震え上がるような状況にあって、ザベルの口ひげの奥の唇が自然と笑みのカタチになった。
「さすがは、勇猛で知られるカテル病院騎士団の団長殿だ。動じるどころか、笑っていらっしゃる」
ザベルの表情の変化を鋭く見抜いて、ラーンが指摘した。
「カテル島は古代から音に聞こえた保養地だったはず。かつてはアガンティリスの皇帝たちも都度都度訪れたという歴史あるリゾート。
アラム勢力が台頭していなければ、わたしたち枢機卿団も法王のお供として、毎年訪れたいほど穏やかな気候だと聞き及んでいましたが、やはり真冬ともなれば、このように厳しい気候なのですか?」
「いえ、今夜の嵐は特別のようです。
わたしも騎士としてすでに三十年以上この地におりますが、このような激しさは、はじめてのことです。
ただ、まるで戦の前のように嵐には心が浮き立つ性分なのです」
カテル病院騎士団はアラム勢力に対して海賊行為を日常茶飯事に行う船乗りの集団でもあったから、嵐程度で肝を冷やしているようでは稼業が成り立たぬのだと、ザベルは言った。
「あの、わたくし、一度中座して服を替えさせていただいてもよろしいですか?」
ふたりの会話がいっとき途切れるのを見計らって枢機卿の護衛を務めるジゼルが控えめに申し出た。淑女の装いと作法に身を固めた“聖泉の使徒”の胸元から、ワインの香りが立ち上っていた。
控えめにだが開けられた胸元が白ワインに濡れていた。豊かな胸乳が純白の装いから透けかけていた。
「不作法をお許しください。わたくし、雷が苦手で、その、驚いてしまって」
こぼしてしまったのです。
上位者を前にして、その歓談を遮り中座することへの無礼に怯える神の端女を、ジゼルは演じていたのだ。
おお、それは、とザベルは言った。互いが事態を動かす好機、と見たのだ。
ラーンが頷き、口元を隠した。
それは笑いを噛み殺すためだったが、眠気を装い提案した。
「馴れぬ長旅で、わたしも疲れてしまいました。どうでしょうか、ザベル騎士団長。キリも良い。今夜の宴は、これにていったん、お開きということでは?」
わたしも赤ワインでついた染みを処置せねば、赤の法衣で目立たぬとは言っても、枢機卿の衣を汚したままにはしておけぬし。
ラーンの言葉がすべてを決めた。
もちろん着替えも眠気も、そのすべてが方便である。互いの陣営がついに動き始めたのだ。
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小説:燦然のソウルスピナ第三話
2014-09-21T15:03:22+09:00
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