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自走式空想会社:クルーシブル

二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。

燦然のソウルスピナ 第二話:第六夜・牢獄を破るもの

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燦然のソウルスピナ 第二話:第六夜・牢獄を破るもの





「ちょうどよかった。わたし、アシュレとお話したかったんです」

 イズマとともに食堂を去るシオンを追うべきかどうか逡巡していたアシュレの手が、テーブルの下で握られた。そのやわらかな感触に、アシュレは我に返った。



 気がつくとノーマンは眼前から姿を消していた。


「当直に立たれるそうです」

 いつのまにか、陽が傾きつつあった。
 交代で食事を取る士官たちが入れ替わる引け時でもあった。

 アシュレは束の間、呆然とした。
 ノーマンの退席に気づけぬほど動揺していた自分にショックを受けて。
 イリスが、茶を勧めてくれた。アシュレはそれを一息に飲み干した。


「お疲れですか?」
 なら、お話は今度でもいいんですが。そういう空気をイリスから感じて、アシュレはその華奢な手を握り返した。
「いや、いま、聞くよ。聞きたい。大事な話だろうから」
 イリスは、うれしそうに笑った。

 どこで話すかは、けっこうな難問だった。当然だが、いたるところに船員たちの目と耳があった。わざわざイリスがテーブルの下で手を握ってきたことの意味がわからぬほど、アシュレは鈍感ではなかった。内密な話なのだ。

 ボクの部屋で、と言いかけてアシュレは危ういところで踏みとどまった。
 シオンとのことがあって以降、ごまかしようのない芳香がアシュレの周囲にはあった。
 昨日の今日だ。女性相手に半端なごまかしが通じないことなど痛いほどわかっていた。
 ユーニスもアルマも観察力抜群だったからだ。
 イリスがその資質を引き継いでいるのは、間違いないだろう。


「わ、わたしの部屋では、どうでしょうかっ」
 ようやく、という感じでイリスが言った。勇気を振り絞ったのが掌の汗から伝わった。
 アシュレは無言で同意した。手を握り返した。

 まったく別の方向に食堂を出て、部屋で落ち合った。

 少し遅れて行く心づかいをアシュレは忘れなかった。


 ノックすると、開けられた隙間から滑り込むように入室した。
 賓客として迎えられたわけだから客室のしつらえは同じでも、もともと女性士官の用の部屋なのだろう、イリスの部屋は内装に柔らかみがあった。

「いい部屋だね」
 と言いかけて、アシュレは絶句した。
 羊皮紙だけではない。
 当時貴重だったパルプ製の紙が部屋の天井を埋め尽くすほどの勢いで吊り下げられていた。インクの乾きを待つ原稿だった。


「これは……」

 お呼びしたのは、このことなんです。
 食堂からもらってきたのだろうお湯で茶を点て、窓際に据え付けてあるテーブルとイスにアシュレを誘いながらイリスが言った。
 女性の部屋というより、歴史研究者の私室のようだった。


「夢を——書き留めたんです」
 そう言い放つイリスに、アシュレはかつて同僚だったときのアルマの姿・気質を見た。
「夢?」
「はい。毎晩見る、夢を」

 イリスは天井の画稿を指した。



 アシュレはそこに、イズマを見た。シオンを、アシュレ自身を見た。
 それどころか、自らが率い、死別したはずの聖堂騎士とその従者たちを見た。
 そして、屠ってきたはずの男たちさえいた。

 魔剣士・ナハトヴェルグ。
 降臨王・グラン・バラザ・イグナーシュ。


 それから——愛したひと——ユーニスの姿を。

 生きていたときの姿、アシュレの記憶のなかの生き生きとした彼女の姿のまま、緻密に描写され、彩色された画稿がそこにはあった。

 アシュレは天井から、ユーニスについて詳細に描かれた一編を手に取った。
 理性ではどうしようもない震えが、止められなかった。
 気づかわしげに見つめるイリスの装いに、気づかなかったほどだ。


 イリスは看護服から着替えていた。従軍看護婦として志願したというわけではなく、イグナーシュ領から乗船したとき、たまたますぐに着込むことのできた服がそれだったというだけのことだ。それに比べるといまのイリスのいでたちは部屋着と言うには少し装った感じではあったから、アシュレの来訪を意識していたのは間違いない。
 それから、不思議な器具をイリスは身に付けていた。


「〈スペクタクルズ〉」

 アシュレがもう少し落ち着いてそのことに気がついたとき、イリスが教えてくれた。
 イリスは茶をカップに注ぐことで、アシュレを席に誘導した。

「写本筆写者(スクライブ)が使う虫眼鏡みたいだ」
「本来なら聖遺物として扱われてもいいほどの——すごく貴重な道具です。図説の模様に擬態した小さな隠されたメッセージを見つけるときとか、すごく役に立つんです」

 青味の強い草色の弦に、上品なトンボの彫刻がなされていた。

「メガネウラ、って船長は言ってましたけど」
「でっかいトンボ(メガネウラ)? たしかに、大きな目だけど……って船長?」
「航海日誌をつける職務が高じて、歴史小説を書くのが趣味になっちゃったヒトなんです。船員さんたちには秘密なんですけど。それで、奥さんと知りあうことができたって。奥さん、歴史学者だったんですって。これは、奥さんの持ち物らしいんですが」

 アシュレは船長——ヘクターの容貌を思い出し茶を吹きそうになった。
 巨漢の海の男が机にむかい、猫背になってコツコツとペンを走らせる。歴史学者の、眼鏡の似合う、美人の奥さんが茶を入れてくれる……。


「どんな夢があるものか、ヒトは本当にわからないものだなぁ」
「それ、失礼ですよ」
 くすり、とイリスが笑い、アシュレは困った顔をした。キミだって笑ったじゃないかと。
「でも、そんな大事な品物を、貸してもらったの?」
「オレは……使えないから……って」
 この紙も、着彩道具も、全部そうです。
「それは……形見なんじゃあ……」

 アシュレの問いに、イリスは無言で頷いた。

「遺跡の発掘現場で起きた落石で、見習いの子供たちを庇って」
 船長・ヘクターの、あの豪放な容姿に隠された悲しみをアシュレは思った。

「わたしに以前の記憶がないことは乗船時の面接で知ってらしたんですけど、それ以来なにかと気にかけてくれて。偶然、画稿を目にされて……それで」

 資料整理には最高の道具だから、って。

 つい、と揃えた指で〈スペクタクルズ〉の位置をなおして、イリスはアシュレを見た。

 先達たちの気づかいが、アシュレの胸を熱くさせた。
 悲しみを忘れなくてもよい。ただ、打ちひしがれていてはいけない。

 落馬しない騎手などいない。問題はいつまで競技場(チルコ)に倒れているかだ。可能なかぎり早く起き上がる努力をする者だけが、勝者となる可能性を持ち続けられる。


 そのあとで勝者たるか、そうでないかは、天の采配だ。
 そう言われているようにアシュレには感じられた。
 だから、まだ震える手でユーニスの画稿を持ち、それでも言った。

 ひとこと、ひとこと、噛むように。

「これは、かつて、ボクの愛したヒトだ」

 イリスは左手を胸に当て、瞳を閉じた。
 ひとすじだけ、涙がその美しい頬の曲線をなぞって落ちた。


「では、あの夢は、幻ではなく、現実にあったことなのですね」
 まっすぐな瞳をアシュレにむけて、イリスが言った。

「いつ、気がついたんだい」
「ついさきほど。イズマさんの英雄譚を聴いたときに。それまで綴じ糸を切られバラバラだった夢の断片たちに、筋があるのだと気がついたんです」

「思い出したのかい?」
「思い出した、というのとは違うと思います。
 英雄譚を聴く者が、登場する英雄たちの心の底まではわかるはずもないように。
 理想化され、美化された断片しか——受け取りたいと望んだものしか、そのようにしかヒトは物語を受け取れないように」


 でも、わたしは、あの物語のなかにいた。

「それだけは間違っていませんか? もしかしたら登場人物のひとりだった?」
 アシュレは返答に困った。イリスは自分の推論を頼りに先に進んだ。

「だとしたら、奇妙です」
 イリスがなおいっそう、アシュレをまっすぐ見て言った。

「こうして、夢の断片を描き出すと、わたしの夢を見る視点には、おかしな点があるんです。
 ふたつ……いや、ひとつなのかな」


 アシュレはイリスをまじまじと見、それから天井を見上げた。
 書き連ねられたメモワールと画稿の数々が、割れないよう青銅で補強されたランプシェードから漏れる光に揺れていた。


 どんな、とアシュレは促した。

 アシュレが彷徨わせていた視線を戻すと、確信したようにイリスが言葉にした。

「わたしは、あの夢を俯瞰できません。
 つまり、神の視座、あるいは聴衆の視座で、あの物語を観れているわけではない。
 具体的にはイズマさんや、シオンさん、アシュレ、それから、あの悲しい降臨王や哀れな魔剣士の視点からは、わたしは世界を見ていないことに気がついたんです」


 それなのに、なぜか。

「わたしの他にもうひとり世界を見ることのできる視座を持つ、だれかがいるんです。
 夢のなかの登場人物に。
 そうでないと、あきらかに話の筋がおかしい。時系列も、なにもかも。
 夢のなかでわたしが視ることができるものが、わたしの視界に限られているのなら、わたしの姿を客観視できるはずがないもの。

 こんなたとえでいいですか——まるで一人称のお話の作者がふたりいて、ひとつのお話について、それぞれに別々に、同時に語っているような感じなんです」


 こんな話、気でも狂ったんじゃないか、と思われるでしょうね。
 だから、こわくて……話せなかった。


「でも……、アシュレが目覚めたあと、すぐに事故でベッドに押し倒された格好になったとき、それから、さっきアシュレに庇われて抱きしめられたとき——心臓が早鐘みたいに鳴って、あの胸の苦しさを——わたしは知っているって思ったら……言わなきゃ、って思って」

 夢のなかのわたし——ふたり分の視座をくれた、だれかたちがアシュレに感じる想いと、同じだと気がついてしまって。

 一息にそこまでまくしたて、イリスは席から立ち上がった。頬を上気させ、胸に手を当てて。

 アシュレはあらためて、アルマとユーニスのふたりから愛の告白を受けたのだと気がついた。
 胸の奥を締め上げられるような切なさが襲った。
 それは故人からの遺言だった。


「でも、だとしたら……わたしは、アシュレにひどいことをした人間のどちらか、あるいはその両方、なんですね」

 ふっとイリスの顔を、さびしさが過っていった。

 イズマの語った英雄譚がキレイに塗りつぶした陰惨の部分、現実が物語にトランスレイトされる過程で省略された卑劣さや矮小さ、汚濁やもろもろのヒトの心の暗闇を、イリスはアルマとユーニスの視点から目を覆うこともできず体験したはずだった。


「そう考えるしかない。そう考えるしか、あの夢の結末を、つじつまを合わせる方法がないんです」

 イリスは天井からもう一枚画稿を取った。卓上に丁寧に置いた。

 アルマステラ・オルテ・イグナーシュ。
 僧服の彼女と、だれかを救おうと励ます夜会服姿の彼女がそこにはあった。


 自分の記憶を、だれかの夢として見る残酷さが、アシュレにはわかった。

 記憶に対してそれを再見した本人でさえ外部からの観衆・傍観者であるとき、そこにはヒトに許されているはずの最後の弁護者がいないのだ。
 自分の心、という。

 客観視であるからこそ、残酷に罪はあばかれる。

 だれからも庇ってもらえず、打ち据えられるままになるほかない。

 アシュレには真実を告げなければならないとわかっていた。
 だが、そうしたとき、イリスがどうなってしまうのかアシュレには、わからなかった。想像すると《意志》とは無関係に、肉体が怯懦に震えた。イリスはひとりだった。味方などいなかった。自分の心さえ、いまや、敵対者となっていた。


 板挟みになり、どうすることもできず、アシュレはイリスを見上げた。

 それが、答えだった。
 すべてを悟ったように、イリスは微笑んだ。画稿を吊るしなおし、席に腰をおろした。


「アシュレ、わたしなんかのこと、そんなに思いやってると壊れちゃいますよ?」

 アシュレは不意に動悸を感じた。
 眼前のイリスの笑みを蠱惑的だ、と感じている自分に戸惑った。
 軽い眩暈と酩酊感、同時に奇妙な高揚があった。


「アシュレは、わたしの視点のこと知らないでしょう? 
 わたしがあの英雄譚(ものがたり)のなかで、どんな登場人物だったか、ホントには知らないでしょう? 
 アシュレは、わたしのこと嫌いになるべきなんです。卑劣なんだから。
 アシュレは、わたしのこと憎むべきなんです。悪人なんだから。
 アシュレはわたしのこと壊しちゃうべきなんです。

 あ、あなたをっ、あなたをそんなに、したんだからっ」


 

 震えながら、泣きながら、笑顔でイリスが言った。

 おかしい、とアシュレは思った。震えが止まらなかった。
 
 悪寒で、ではない。武者震いに似た高揚があった。
 お茶の成分か、とアシュレは疑った。いや、と思い直した。
 イリスのカップも二杯目だった。第一、イリスが自分に薬を盛る理由などないはずだった。


「疑ってますね? 薬なんじゃないかって? 
 違います。そんな簡単なもんじゃない。これは絶対に解けない呪いなんだから。

 こんなに長く、同じ部屋にふたりっきりでいたら、おかしくなるに決まってるでしょ? 

 わたしだって、知らなかったんだから、さっきまで、全部がひとつになるまで、じっ、自分がどんなに、卑劣で汚くって、みっ、淫らなっ、人間なのかって」


 わたしを、アシュレは使いたくなるんだから。そういうふうにしたんだから。
〈デクストラス〉に、〈パラグラム〉に、《ねがった》んだから。
 わたしなしじゃ、狂うくらい、おかしくなるくらい、離れられないようにしたんだから。


「わたしの全部が、アシュレには抵抗できない媚薬なんだから。そういうふうにしたんだからっ」

 高圧的なセリフとは裏腹にイリスはかわいそうなくらい震えて泣いていた。
 ごめなさい、と全身で謝っていた。どうやっても償えないから、罰してもらうしかないと覚悟した娘の苦渋がアシュレにはわかった。


 アシュレは痛いくらい昂ぶる自分を感じた。
 逃げるよう立ち上がり、部屋の隅に離れようとした。
 己の暴力的衝動から、イリスを護りたかった。


 うまくいかなかった。ベッドに倒れ込んだ。イリスの匂いがした。もう立てなかった。

「もう立てないでしょ。そうだよね。だって毎晩そこで夢に襲われて、そのあとでなだめていたんだもん。
 この一週間が、どんなに苦しかったかわかる? アシュレのこと、毎晩、夢に見るんだ。
 ひどいよ、こんなに好きになるなんて。目を閉じるたび、あなたに愛される夢を見るんだ。
 跪いて、お願いして、服従して、屈服して、悦んでしまう。どうしたらっ、どうしたらいいのっ、こんなの、耐えられない」


 わたしだって、もう、完全にアシュレのものなんだよ? 
 少しだけスカートの裾をめくってイリスは踝を見せた。それだけでイリスの窮状が伝わった。

「誓ったことが、本当になっちゃうのが、《ねがい》なんだから」
 アシュレ、と懇願された。
 罰して。めちゃめちゃにして。復讐して。
 代価を贖わせて。

「それから……嫌ってください。寄るなって、軽蔑して、侮蔑してください。視界に、入るなって——命令して」

 観念した生贄の羊のように、イリスは衣装を解いた。
 アシュレは世界に満ちる《ねがい》の強大さを思い知った。

         

 夜半だった。上弦の月だった。
 島影が月に輝く波間に見えた。ざわざわ、とささやきのようなものを聞いた気がしてアシュレは目覚めた。
 灯は消されていた。
 空気を取り入れるための小さな窓が開いていて、そこから風が入ってきているのだ。

 ざわざわ、とまた音がした。木漏れ日の下で眠っているかのような音。

 月光にその正体が明らかになった。
 無数の画稿。それはグランというオーバーロードが描き、イリスの手を伝わって現世のマテリアルに刻み込まれた《閉鎖回廊》そのものだった。


 アシュレはイリスを望みのとおりにした。
 暴力的に強いられているはずのイリスのほうが、まるでアシュレを傷つけたかのように泣きながら謝罪した。すべてがちぐはぐで、だからこそ、救いがなかった。


 生まれ落ちた国と時間と慣習のせいで、叶わぬ恋をした。
 それでもアシュレの腕に飛び込んできた。
 死ぬまでともに、と誓い合い、それなのに離別した。
 死の間際、たったひとりで孤独に震えたであろうユーニスと、国が滅んだ後の十年を暴力と理不尽と孤独に耐え続けたであろうアルマのふたりに、その間隙を埋めるために求められているのをアシュレは感じた。

 世界には聖なるものでは贖えない、そういう暗い淵があるのだと知った。


 いや、聖なるものがあるからこそ、救われないなにか、を。
 アシュレは半身を起こし、ベッドに背を預けて水差しからゴブレットへ水を移し、一口飲んだ。ぱたた、と羽音がした。

 ぽてり、とそれは落ちてきた。

 ヒラリだった。愛らしすぎる動きと顔でアシュレを見た。
 ごめん、とアシュレは謝ってしまった。シオンを思い出したのだ。
 つまみ上げ、膝の上に乗せた。


「どんな《ねがい》でも叶ってしまうって、恐ろしいことでもあるんだな」
 叶わないことがあること。その意味を、大切さをアシュレは思い知らされていた。

「わたし……まだ、壊れてません」
 起こしてしまったのか。枕に半ば顔を埋めたまま、イリスが言った。
 アシュレはその頭を撫でた。
 やさしくしないで、と噛みつかれた。

「イリス、まだ、嫌われたいの?」
「バカなんじゃないの? こんなことされて、まだ嫌いじゃないの? アシュレって、ホントにバカ、お人好しッ!」
「それ……よく言われるんだ」
「わたし、あなたの人生をメチャクチャにしたんだよ? 憎くないの? 殺してやりたいって思わないの?」
「なんでだろ。ぜんぜん、思わない」 

 ボクは、なんであれキミが生きていてくれて、うれしいよ。
 素直にアシュレは言った。


「わ、わたしは、平気じゃないよっ」
 許せない、自分が。
「好きだからって、愛して欲しかったからって、しちゃいけないことがあるよっ」

 それはそうかもしれないけれど、とアシュレは言った。

「でも、そうしなかったら、キミもボクも生きてなかった。そういう場所を、ボクたちは潜り抜けてきたんだ。そう思えば、こんなの悪戯みたいなもんさ」

 それに、とアシュレは少し笑った。

「まだボクが嫌いじゃないってんなら、ボクに嫌われるために、イリスはあんな恥ずかしいセリフを、毎回——もしかして、じつは、けっこう毎晩? 言わなきゃならないんだよ?」
 それはちょっと、男冥利に尽きるかな。

「大好きなヒトに嫌われるために必死になるって、だいぶ、かわいくない?」
 へ、へんたいっ、悲鳴のようにそう言ってイリスは枕に顔を突っ込んだ。雪のように白い裸身が真っ赤になっていた。

「イリスは嫌だった? 罰になった?」

 アシュレは復讐の方法をシオンから教わっていたことに感謝した。
 イズマとのやりとりが搦め手を鍛えてくれていた。
 ああ、決意するとはこういうことか、とわかった。
 自分の無垢を、無謬を保とうとするだけでは助けられないものがあるのだ、とわかった。


 だから、そのようにした。

「まだ、罰されたいの?」
「き、決まってるでしょっ、そ、そうだよ。き、嫌いになってほしいっ。わたしなんかのために、アシュレの人生が台無しになったなんて……許せない」

 くすくす、とアシュレは笑った。そう、と頷いた。凄みのある笑みだった。
 なにがおかしいの、と鼻白んだイリスに、アシュレは向き直り言った。

「うん——決めた。ボクは、キミを困らせる凄く悪い男になる。約束するよ」
 このヒトに罰されたい、なんてとても思えないような男に、ボクはなる。

「この世界に否定されても、それでも人間をやめずに立っている男に、ボクは、なる」

 なぜだろう。父・グレイと並んで、イズマの背中を思い出してしまったのは。
 アシュレは苦笑した。

 困り切った顔でイリスが一度だけアシュレを見て、すぐに枕に隠れてしまった。

 たぶん、《閉鎖回廊》に関わったボクらの愛は、まっすぐには進めないのだろう。
 アシュレはそう思う。

 結末の見えないそれを、どこかで操作して悲劇にしてしまう“なにか”。

 それに《ちから》に与える根源の姿・その在処が、画稿に採録された《閉鎖回廊》を通して、アシュレには、ぼんやりとだが、見えた気がした。

 







 

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