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二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。

燦然のソウルスピナ 第二話:第四夜・復讐の作法

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燦然のソウルスピナ 第二話:第四夜・復讐の作法




 貴賓用の個室がシオンの居室だった。

 女性、それも大公の娘——いや、どちらかといえば夜魔の姫——であるという配慮から、アシュレたちより一段等級の高い船室(キャビン)がシオンにはあてがわれた。

 シオンはアシュレたちと同様の扱いを望んだが、派こそ違っても、イクス教は夜魔の一派とすでに千年間以上、暗にも明にも戦い続けてきた組織だ。

 いかにカテル病院騎士団が進歩的な考えを持つエリート集団だといっても戦闘的な宗教騎士団であることに変わりなく、宗教騎士団の第一義は異教徒と異種族の脅威から同胞を護ることであったのだ。

 ノーマンは人間が知識と感情を切り分けられない生き物なのだ、とシオンを説得した。もっともだな、とシオンは納得し、ノーマンの指示に素直に従った。イズマが後に続こうとして、また一悶着あったのだが、そのさなかにアシュレは倒れたのだ。

 だから、こうしてシオンの部屋を訪うのは四日ぶり、正確には扉までしか来たことはないのだが。

 船のせまい階段を昇り、船長室の真下にあたる貴賓室のノッカーを叩いた。
 真鍮製のノッカーはカテル病院騎士団の紋章である円十字とマーライオンが彫刻されている。
 扉の素材も貴賓にふさわしい仕上げで、防音・断熱も他の船室とは比べ物にならぬものだと外部からでも伺えた。


 返事がなかった。

 アシュレは動悸がして、もう一度ノッカーを叩いた。先ほどよりも少し強く。

 だが、反応がない。いないのか、それとも、なにか不具合が起きているのか。
 いよいよ心配になった、そのときだった。


 だしぬけに扉が開かれた。



 いつもは頭頂にまとめられている漆黒の髪が下ろされていた。
 恐ろしく重い——おそらくは男性用の大国の王のもの——王冠もなかった。

 そのせいで、シオンの持つ強さがやわらげられ、女性的な優しさが強調されていた。
 穏やかな波の動きに合わせ揺れるランプの灯とおなじように深い紫の瞳が揺れていた。
 予期せぬ来訪者に戸惑っていた。


「……ごめん、来訪の手紙も出さずに」

 この時代、男性が女性を訪うにはまず手紙で来意と日時を告げ、お伺いをたてる、というのが貴族階級では常識だった。

 邪魔だったね。
 アシュレは小さく笑い、無事ならいいんだ、とつけ加えた。それからそのままドアを離れようとした。痛む身体を引きずって。


 途端に、手を取られた。シオンの小さくて柔らかい指がアシュレの左手を取った。
 そのまま部屋に引き込まれた。


 無言で席を勧められた。

 正直ありがたかった。酔いと身体の軋みが限界だった。

 今朝の小便は赤ワインそっくりの色だった。
 激烈を極めた戦闘で赤血球が血管内で潰れて排出されるから、そういう色になる。


 たぶん、あと数日はこんな感じだ。完全に復調するには一月は優にかかるだろう。全力戦闘を行った人体は十日やそこらでは回復しない。貴石や霊薬を使用し過ぎると、恐ろしい副作用があることもアシュレは知っていた。

「ごめん、こんな夜更けに、突然」
「よい。じつはそなたが来なければ、わたしがそなたを訪っていたのだ」

 見るとベッドに、玉虫色の光沢を放つ外套が投げ出されていた。
 ゴブレットが目の前に置かれた、有無を言わさず注がれた。
 いや、アルコールはもう、ちょっと、とアシュレが言うと、

「安心せよ。ただの水だ」
 と見透かされたように言われた。

「凄い臭いだぞ。どれほど呑んだんだ」
「いや、呑んだというより、飲まされた、と言うべきだよ。なにか薬草が色々浸かったオードヴィが出てきたあたりから、おかしくなっちゃって」
「内臓や血管に疲弊があるときの深酒は、命の危険もあるのだぞ」
「戦勝祝いだと思ったら断れなくって。料理もお酒も、おいしいし」
「そなた、死ぬときはそれが原因だろうよ」
「えっ?」
「断れなくって、だ。バカ者め」

 なんだか怒っていらっしゃるのでしょうか、とアシュレはシオンの顔色を窺った。
 じろり、と睨まれた。ごまかすように杯の中身をあおった。果汁で風味をつけられた水は染み入るように旨かった。

「うまい。もう一杯もらえる?」
「勝手に注ぐがよい。水差しごと飲んでもよいぞ」

 それは、さすがに不作法が過ぎる、とアシュレは自分で注ごうとして失敗した。手が震えてけっこうな量をこぼしてしまったのだ。
 すまぬ、と弾かれるようにシオンが謝った。

「? どうして? 失敗したのはボクだよ」
「意地の悪いことをした。そなた、まだ身体が癒えておらぬのに」

 どんなに怒りで外面を鎧っても、シオンの本質である慈愛の深さはごまかしようがないのだと、アシュレはあらためて認識しなおした。
 胸の奥が温かい光で満たされるような気持ちになった。


「気味が悪いな」
「どうかした?」
「その笑みだ。癒されました——みたいな顔になっておるぞ」

 卓上を拭き、あらためて水を注いでくいれるシオンを見ながらアシュレは、そのとおりなんですけどね、と思った。

「美味しいね。陸からすでに四日も離れているのに、この水は清浄だ。イグナーシュでは調達も難しかっただろうに」
「もう知っておるかも知れんが、蒸留器を通した海水だ。そのままではまずくて飲めんから、レモンやらライムをぶち込んである」
「まずい?」
「不毛な味、だな。ひとことで評すると」

 なるほど、とアシュレは頷き、おかわりを催促した。やたらと喉が渇いた。
 ふん、とシオンは呆れつつも、アシュレに水を注いでくれた。アシュレはそれもまた半分ほど飲み干し、それから、ずっと気になっていたことを口にした。

「シオン……訊いていいかい」
 よいぞ、と水差しを覗き込み、注ぎ足すために立ち上がりながらシオンが言った。
「すごくかわいいんだけど、その服……ちょっと無防備過ぎない……かな?」

 

 言いながら底をついた水差しに水を足すべく立ち上がったシオンを目で追い、アシュレは吹き出しそうになった。
 髪の毛が下りているせいで隠れていたが、大胆に背中を開いた夜会服のような衣装は、丈も恐ろしく短く、シオンのまばゆいばかりの脚線がほとんど見えてしまっていた。生足だ。それどころか、サイドスリットのせいで目のやり場がない。
 無防備どころではない。立ち上がるまでわからなかった。
 可愛いを通り越し、やり過ぎだ。

 手折ってくれと言わんばかりだ。

 な、ななあっ、とシオンが表現の難しい声をあげて水差しを放り出し、ガウンを羽織った。
 慌てるその様子を指の間から、しかし、目を逸らせずにアシュレは冒頭の会話を思い出し、さらに動揺した。


 こちらから訪うつもりだった、とシオンは言った。ベッド上の外套は、アシュレの来訪時に脱いだためだろう。出かける直前をアシュレが訪問したのだ。
 つまり。

「その格好で、ボクのところに来るつもりだったの?」

 とは訊けなかった。訊いたら殺ス、みたいなオーラが夜魔の姫の背中から立ち上っていたからだ。
 ドン、と不機嫌丸出しで水差しが置かれた。

「くそう、あのオヤジの言うことを、ちょっとでも信じたわたしが愚かだった……」
 だれかに騙されたのだろうか、シオンが珍しく悪態をついた。
 だれ? なに? とアシュレは首を傾げた。イズマ?
「定命(モータル)の者たちの習慣では、じょ、女性から男性の部屋を訪うときは、それも夜間、密室で。こ、こういう格好が正装だと……れ、礼儀だと」

 耳まで朱に染めてシオンが言った。うつむいたまま膝の上に握り拳を置いて。

「来訪というより……特攻だね……ソレ」
 玉砕覚悟の。アシュレはぽりぽり、と顎を掻いた。

「それより、シオンを騙せる相手がいたなんて、すごいな」
「最低なヤツだッ」
 シオンが、これほど悪しざまにヒトを言うのをアシュレは初めて聞いた。
 それほど長いつきあいではないが、普段の彼女からは考えられない激高ぶりだった。

「……もしかして……オヤジって、親父さん?」
「そうだ。スカルベリ・ルフト・ベリオーニ。ガイゼルロン。夜魔の大公だ」
 医者みたいに論理的な口調で、まじめくさった顔つきで言うもんだから、くそっ、疑うべきだったんだ。意地悪された子犬みたいな顔でシオンが唸った。

 人類の仇敵である夜魔の、さらにその真祖のひとりでもあるスカルベリの意外な一面を見るにつけ、世にはさまざまな親子のカタチがあるもんだな、とアシュレは苦笑した。

「ボクもあるよ、父さんに騙されたこと」
 真っ赤になってうつむいていたシオンの肩が、ぴくり、と動いた。

「小さい頃、ボクは病弱で、貴族の家ではときどきある風習なんだけど、男子を女の子として育てて病魔を欺くんだ。ボクはひとりっこだったから、なおさらでね」

 シオンが顔を上げた。明らかに興味をそそられた顔だった。

 自分の失敗や恥を笑い話にしてだれかに話せるようになったら、それが大人になった証拠だ、と父は言った。積極的に話す気にはなれないが、シオンを元気づけるためならできる気がした。

「ある日、オマエの礼儀作法と応用力をテストするって言われて、思いっきり着飾ったカッコにされて、どこかのお屋敷に連れていかれたんだ。凝った設定と脚本を渡されてさ。そこで行われる夜会で身分と性別を偽って、淑女として振る舞えって。コワイ父だったから、そりゃあ必死にやったさ。なんかの試練なんだと思って。バートンなんか変装して、ボクのお付をやってさ。監視されてるって思った」


 もー大変だった。次から次へとダンスの申し込み。あげく十人以上からプロポーズ。ボクは男だ、まだ十歳だーてんのに、危うく寝室に連れ込まれそうになって、さ。

「しばらくしたら、父さん上機嫌で奥間から出てくるの。こっちは逃げ出すの一苦労だったのに。帰りがけに古書を一冊買ってもらえたけど、絶対あれ、いま考えると賭けで儲けてたんだ。バートンと笑い合っていたもの」

 それまで難しい顔をしていたシオンが、ふふっ、と笑った。我慢できずに。

「ひどい話だろ?」

 だが、アシュレは知らない。
 あの日、アシュレが囮になって場の注目を引きつけている間、その背景で、地下で、進行していた事件を。聖騎士としての父・グレイの働きを。だが、それでよかった。笑い話として語られる物語の背後には、往々にして語ることを許されぬ暗渠があるのだ、ということだけだ。

 ありがとう、とシオンは礼を言った。肩にとまっていた頑なさが消えていた。

「水は、もっと要るか」
「これ以上飲んだら、噴水の獅子みたいになってしまうよ」
「では果物にするか。リンゴ、オレンジ。アンズは乾燥モノだが」
「リンゴ、かな」

 うむ、とシオンは頷き、果物鉢からふたつ取り上げた。ほれ、と卓上に置かれた。

「む、剥かないの?」
「り、りんごは皮に栄養があるのだ」
 む、剥こうと思えば剥けるぞ、ホントだぞっとシオンが言い張り、アシュレは笑った。
 シオンの獲物である聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を思い出して。
 夜魔の姫のプライドに配慮した。

「半分に割ろう」

 小ぶりで硬い身質のリンゴはいまのアシュレの握力でも簡単に割れた。
 戦士階級の握力は凄まじい。《スピンドル》なし、現在の痛んだ肉体でも、リンゴくらいなら片手で楽に粉砕できる。そうでなければ剣など振えない。
 はい、と手渡すとシオンはうれしそうに笑った。

「それで……来意というのは?」
 リンゴを齧り終え、訊いたのはシオンだった。うん、とアシュレは言った。

「キミの無事を確かめたかったのと——これは、いま済んだ。もうひとつは朝の、その、ベッドでの件——どうしても気になって」

 もしかして、キミがボクを訪う、っていうのもその件かな? 
 アシュレは務めて平静に訊いた。

 鋭いものだな、とシオンは感心したようにテーブルに残されたもうひとつのリンゴを指で撫でながら言った。

「まずは……詫びたい。すまなかった。ベッドに無断で忍び込み、同衾するような真似をして。そなたのプライバシーを損害した」

 最初に謝罪するあたり、シオンの育ちのよさが知れた。いいんだ、とアシュレは促した。それよりも、なぜ、どういった経緯でそうなってしまったのかが知りたかった。シオンの身に起きていることを把握したかった。

「……じつを言うと、わたしにも、なにがどうなっているのか、本当のところ、よくわからなくって、な」
 自分が制御できていない、とシオンは言っているのだ、とアシュレは理解した。

「ヒラリが……そなたの懐に潜り込んでおったのは、憶えておるか?」
 もちろん、とアシュレは頷いた。

「びっくりしたけど、結果的には助かったよ。イズマは……ちょっと痛そうだったけど」
 卓上の水差しを見てアシュレは言った。男性的には大いに同情の余地があった。
「あれの男性機能など、どうでもよい」
 さらっとひどいことを言って、シオンが目をつむり眉を上げた。

「まず、どうも、最近、ヒラリがわたしの言うことを聞かないことが増えた。まったく、と言うのではないのだが……その、無断で、そなたの部屋にだな、お邪魔している、というか、潜り込んでいるようなのだ」
「懐かれたのかな。そういえば、グランの時はお世話になった。お礼をしなきゃ、だ」
「よいよい、礼など。コウモリにまで恩義を感じておったら、そなたそのうち、あの羊にも頭が上がらなくなるぞ」
 それはいやだなあ、とアシュレは笑った。

「それで、だ。自らの使い魔だからして、呼び戻さねば、と思っておったのだが……気がつけば、そなたのかたわらで眠っておったのは、わたしのほうだった。——ほらな、わけがわからんだろう?」
 眠っている間に、無意識で《影渡り》を使っておったのだろう。シオンが推測した。たしかに部屋は施錠されたままだった。イズマでもないかぎり、合鍵は艦長しか持っていない。室内の人間が鍵を持つ以上、そこは密室だ。

「ヒラリが座標を固定するアンカーの役割を果たしたのだな。まさにグランのときの再現だ」
「無意識で《影渡り》? 危ないな」
「ぞっとしたよ。転移系の技での失敗は致命的な破滅を導く。まかり間違えば、よくても消失(ロスト)。最悪、空間に異常を生じさせて……都市ひとつ消えた例もある。巨大な岩盤ごと、なにかに齧りとられたみたいにな」

「すぐ手を打とう」

 そうしたいのはやまやまなのだが、とシオンが言った。もじり、と身を捩った。
「なにか、心当たりがあるんだね。《影渡り》暴発の原因に関する」
 シオンの身体から発せられる微かなサインを見逃さず、アシュレは言った。
 観察力の低い戦士は戦場で真っ先に死ぬ。
 戦場を生き延びるには槍の腕より観察力、なにより運だ。


 う、うん、とシオンが曖昧に頷いた。
「ボクには、話しにくいこと?」
 自分で口にして、アシュレは気がついた。そうか、と言葉が漏れた。

「夢だ。キミが捕われている夢に、それは起因しているんだね?」

 こく、と小さくシオンが頷いた。
 先ほどまでまっすぐアシュレを見てくれていた視線がまた下がってしまっている。
「ボクに相談しづらいなら、イズマを呼ぼうか? 彼は夢に関しては専門家だ。自身が夢のなかで生きているようなものだから。病理的なものならノーマンでもいい。聖職者だから聴聞僧としての訓練も受けているはずだよ。そうだ、」
「ならぬ……」
「異性に話すのが不安なら、イリスに同席してもらってもいいかもしれない。そのまえに、」
「ならぬ……」
「とりあえず、ヒラリを確保しよう。この手のことは……やっぱり、イズマか」

「決してならぬッ!」

 大音声でシオンが叫んだ。うわ、とアシュレはイスごと後ろに倒れ込みそうになった。な、なにごとですか、と狼狽えた。

「他のだれにも相談してはならぬ。そなたの口からもならぬ。これは、そなたとわたしのふたりだけの秘密にせねばならぬ。絶対に口外無用の門外不出、秘密裏の裏工作だッ!」
 いったいどれくらい裏返ればいいのかわからぬ様子で、シオンが言った。
 凄い剣幕だった。血走った目の端に大粒の涙が溜まっていた。一大事だった。


「とりあえず、落ち着こう」

 茶が欲しかったが、あいにくとここには炉がない。船長室には専用の食堂が付随しているので、軽食くらいは作れるはずだが、ここにはなかった。ふたりは水を飲んだ。

「ワインを開けてよいか」
 呑まねばやってられないということなのだろう。わかります、とアシュレは同意した。そういう案件というのは、たしかにある。
 樽の色が強くついた白ワインだった。アシュレはその透明度に驚いた。カテル病院騎士団が用意するくらいだからカテル島の原産だろう。信じがたい技術だ。
 
 アシュレにも、つきあえ、ということなのだろう。グラスは二脚やってきた。


「いや、もう一度沈んだら、復帰できないかも、です」

「カタチだけでよい」
 じゃ、と乾杯した。

 シオンはワイングラスを触れさせてきた。ふつう、貴族階級は互いの食器や杯を触れさせたりしない。そして、ワインは基本的に貴族の飲み物だった。テーブルマナーという礼儀作法のうしろには、疫病や感染症への防御という衛生的な側面もあったのだろう。
 だから、互いのグラスを触れさすのは、この時代、口づけを交わすのと同じくらい親密な意味があったのだ。

 その杯を口もつけずに放置はできなかった。

「話を聞いたからには、きょ、協力してもらう。足抜けは許さん」
 そっぽをむいて、ぶっきらぼうにシオンが言った。

「もとよりそのつもりだよ。シオンには、二度も命を救ってもらっている。どんな要求にも応えるよ」
 ちょっとだけ、うれしそうにシオンの唇が笑みのカタチをとったのを、アシュレは見逃さなかった。けれどもそれもすぐに鉄面皮のうしろに隠れてしまう。

「さて、ボクはどんなことで協力できるんだろう。ボクにしかできないことって、なんだろう」
 アシュレは卓上に腕を組み、シオンを見た。
 シオンはしばらく逡巡していた。波の動きに合わせて揺れるワインの水面を見ていた。それから踏切りをつけるように長い息を吐き、ぽつり、と言った。

「話を聞いて欲しいのだ」
「お安い御用だ」
「そして、心の整理をつけさせて欲しい」
「わかった。ボクはキミの悩みを聞く。心の整理を手伝う。未来永劫、たとえ自分の妻や子供にさえこのことを口外しない。誓う」

 騎士として。アシュレの宣誓に、シオンの表情がぱあ、と明るくなった。
 それはこの夜魔の姫が味方のいない場所で相当に追いつめられていた証拠だった。


「話を聞いてもらう前に、前提を話しておかねばならぬ。ヒトと夜魔との差異のことだ」
「寿命の、時間の流れの他に、だね」

「うん。我らの種族的特徴、というやつだ。以前にも話したかもしれぬが、我ら夜魔の一族の糧はヒトの夢である、と言ったことを憶えておるかな?」
「血である必要はない、とキミは言ったね。素晴らしいワインや丹精込められた地ビール、愛情を注がれた母親の食事、そういうものからも貴重な夢が得られると」
「血を飲むのはそれがもっとも手っ取り早く、効率が良く——あとは単に夜魔がヒトに優れる種族だと誇示したいがためのデモンストレーションだ。狩る側がどちらか教えてやる、というな。くだらん話だ」
「ボクの血がいるときは言ってくれ」
「バカ。だが、糧、という以外にも我らが夢を欲するのには理由がある」
 わかるか、とシオンはアシュレに水をむけた。アシュレはワインを一口、含んだ。

「キミたち夜魔は記憶を忘れられない。良いことだけならいいけれど、生きるということはどうしようもない苦痛との直面の連続でもある。そのつらさを、永久に忘れることができない。そして、キミたちの命は永劫だ」
 グラスのむこうでシオンの瞳が激しく揺れた。
 アシュレは続けた。推論に確信を得て。

「だから、キミたちは他者の夢で心の痛みをやわらげる。そうでないと、心が壊れてしまうんだ。人間にだって、その人生に、酔うに足る酒が必要な日があるように」
「わたしは、そのことをそなたに話したか? いや、そうではないな。そなた……ひとりで、そこまで考えたのか」
「イゴの村で、グランの過去を語るキミはとてもつらそうだった。まるで、あの日のできごとを同じ鮮やかさで追体験しているような。それでわかったんだ」

 無言でシオンが泣いた。そなたで、よかった、とささやかれた。

「聡い子だ」
「間抜けでは聖騎士は務まらない。聖遺物管理課配属ならなおのこと。貴重な過去の遺産を、人類の叡知を、それと気づかぬうちに壊してしまうからね」
「加えて、そなたには優しさがある」
「女のコみたい、って笑われることも多いけど?」
「あの日、そなたを子供扱いしたのは謝る。そなたは立派な大人の男だ」
「なんだろ、シオンやイズマに認めてもらうのって、すごく嬉しいよ」
 持ち上げたものだな、とシオンは笑った。すこし、リラックスしてくれたようだった。

「ならば、もうすこし詳しく夜魔のことを教えよう。たしかに我らは記憶の虜囚だ。夢に頼らねば、心の平静を保ち続けることも難しい。だが、我らとてただ翻弄されるばかりではない。常に過去にばかり捕われておったのでは身が持たんしな」
 つまり、過去を追体験するかどうかはある程度コントロールできる、と。アシュレは目で問いかけた。

「然り。その制御を持って成人と見なす。それが夜魔だ」
 四六時中、悲しみや過去の栄光に耽溺しているわけではないのだよ、とシオンが杯をあおった。アシュレはワインを注ぐ。こんどはうまくいった。

「ただ、個人の経験には大きなムラがあってな。怒りや、悲しみ、恨みや、喜び。どの分野の記憶の制御に優れるかは、個人差がある。人間と同じだな」
 もちろん、真祖の直系であるわたしはその力も強いのだが……。

「いかんせん、今回ばかりは、お手上げだ」
「つまり、記憶がコントロールできないってこと?」
 うん、とシオンが頷いた。
「そのせいで《スピンドル》が暴走し、危険な技を暴発させてしまうらしいのだ」
 なるほど、とアシュレは相づちし、先を促した。

「どういう方向なんだい? その、キミを困らせる記憶って」
「得意な方面に偏りがある、というのはヒトも夜魔も変わらんのだな」
「え?」

 シオンが頬を染めてアシュレを見た。
 それで、やっとわかった。アシュレにしかしてはならない相談事の内容が。

 え、えええ〜、とアシュレはうめいた。

 バカみたいに頭を抱えて左右に身を捩った。
 考えて見れば簡単なことだ。
 これまで数百年の時を生き抜いてきた夜魔の姫が、どうしていまさら記憶をうまく処理できずに困窮するのか。
 それほどのこととはなにか。だれが、その原因か。


「ボク——か」
 同じようなうめきを今朝も上げたはずだ。本当にボクは頭が悪いのかもしれない。アシュレはひどいショックを受けた。

「ボクのせいなんだね」

 あの日のアシュレが人々の無責任な《ねがい》に中毒したとき、アシュレをを助けるためにシオンはすべてを引き受けてくれた。《ねがい》に翻弄され、手負いの獣みたいになったアシュレに、その身を、純潔を与えてくれた。

「アシュレのせいではない」

 そっ、とシオンの指がアシュレのそれを捕らえた。
 アシュレは震えた。電流が走るようにシオンの指先を感じた。

「グランのことは、わたしの責任だ。あれのしでかしたことは、わたしの責任なのだ。だから、そのことを気に病むのはお門違いだ」
 だけど、と震える声が痛かった。

「あの日のことが忘れられない」

 なんとか、踏切りをつけようとした。でも、だめなんだ。シオンが泣いた。唇が震えていた。アシュレはシオンの心の傷を思った。

「当然だ。ボクは、キミにあんな、ひどいことを」
 アシュレは唇を血が出るほど噛みしめた。
 ちがう、とシオンが首を振った。
「つらいとか、痛いとか、苦しいのなら、わたしは得意だ。なんどもなんども経験してきた。そういう記憶なら耐えられる。御してみせる」

 たぶん、自分はいま、阿呆のような顔をしているだろうとアシュレは思った。

「そうではない。そうではないから……困っているのだ」
 もちろん、痛くて、苦しいのだが……ちっとも、ちっともいやじゃないの、だ。
 アシュレにされたこと、全部が。自らの体を抱きしめてシオンが言った。


「それどころか、もっと、アシュレに、してほしい、と願ってしまう自分がいる」
 だから、夢に見て、うなされ、どうしようもなくなって、そなたのところへ行ってしまうのだ。
 細い鳥のような身体だった。漆黒のガウンから白く長い首だけが覗いていた。すべてを告白する恥じらいに震えていた。

「火が出るほど恥ずかしい。でも、だれにも相談できない。できなかった——アシュレにしか」
 たすけて、と哀願されてるのだと、アシュレには、はっきりとわかった。

「話して、相談して、整理するしかない。分類して、きちんと思い出の箱に封する他ない。アシュレに頼れば傷つけてしまうことは、わかっていた。そなたが、本意であんなことをしたのだと思ってなどいない。また、思い出したくもない記憶であろうから。それなのに、それなのに、わたしは……弱くて」
 この気持ちを、どう分類して、整理して、コントロールすれば良いのか、わからないのだ。いっしょに考えて、ほしい。

「おねがいだ」

 夜魔の姫が泣いていた。迷子の子供のように。
 アシュレはシオンの苦しみの名を知っていた。ヒトならば当然通る道だった。
 ありふれた、どこにでもある、普通の感情だった。


 だが、だからこそ、アシュレの口からその名を告げることは、憚られた。

 シオンの感情を己の利する側に誘導することは容易かった。
 だが、その不実をアシュレは許せなかった。シオンの窮状につけ入るようなやり方は、あってはならなかった。
 今朝、己の不実さを直視したからこそ、それだけはできなかった。
 突然、アシュレはあの日、シオンに自分が行った仕打ちのすべてを鮮やかに思い出した。あるひとつのことが、ずしり、とのしかかった。

 一手遅かった、とアシュレはのちにこのことを後悔する。

 すくなくともシオンの告白の前に告げるべきだったのだと。
 だが、このときのアシュレにはそれはわからない。神の視座を持たぬ定命のものには。


 それは、シオンに与えた文化的誤解の件だった。

 あの日の逢瀬は、ヒトの男女がつがう営みからは逸脱していたのだ、と。あれは女性の尊厳を軽視し、隷属、ないし秘密を暴き立てるための破廉恥な尋問に類するものだと。

 アシュレは、それをシオンに伝えた。愚直に。
 それがどんな結果をもたらすのか、考えずに。

 すくなくとも、そこには保身はなかった。自らのしでかした事件を包み隠すわけにはいかなかった。アシュレが背負っていたのは人類全体の尊厳でもあった。
 己が卑劣漢と罵られることは許せても、ヒトとその社会全体をしてそう思われること、その誤解だけは解いておかねばならなかった。


 劇的な化学反応が、告げられたシオンに起きた。

 なにを言われたのか、理解できない、という顔をシオンはした。蒼白になり、自らの腕を抱いて震えた。それから、質問された。

「つまり、あの日のことは、理想とされる男女の愛のカタチとはほど遠い、ということか?」
 そうだ、とアシュレは答えた。
「むしろ、異常だと?」
 頷くのが精一杯だった。

「つまり、その異常な行為をして、わたしは忘れられない、と言ったわけか」
 きゅ、とアシュレの喉から変な音が出た。
「あまつさえ、ぜんぜんいやじゃないと。それどころか、もっとアシュレにしてほしい、とほざいたわけか」

 もし映像を記録しておける機材などと言うものが世界にあったなら、たぶん、アシュレの顔に浮かんだ汗の変化で、なんらかの賞がとれたであろうことは間違いなかった。

「夜魔の種族的特徴はレクチャしたな」
 言ってみよ。シオンが命じた。地獄の底から響いてくるような声だった。

「ゆ、夢を糧にしています」
 次ッ、と促された。

「き、記憶を忘れることが、できません」
 補足せよッ、と命じられた。

「き、記憶の種類は個人・個体によって、コントロールに誤差があります」
 そうだッ、と小さくシオンが吠えた。

「わたしは、この記憶を忘れられないし、コントロールできない」
 ぞっ、とするような目でシオンがアシュレを見た。
 死んだ。もしくは殺されてもしかたない、とアシュレは思った。

「永劫だ」

 きりっ、とシオンの犬歯が鳴った。アシュレはバラバラになり、海の藻屑となる自分を想像した。辞世の句を自動的に読み上げはじめる自分の頭に絶望した。

「こうなれば、コントロールできる記憶にするほかあるまいな」
 ど、どうなるのでせう、と現代文への変換能力の落ちた頭で思った。
 決まっておる、とシオンが言った。

「復讐だッ!」

 ぐさり、と言葉が心臓に刺さった。自分はこのまま死ぬのではないのか、とアシュレは思った。ウサギみたいに。ショック死だ。
 アシュレがかろうじて現世に留まれたのは、あるひとつことが心残りにあったからだ。

「い、イリスは、イリスにだけは累を及ぼさないでください!」
 アシュレの懇願に、夜魔の姫はきりきりと目尻をつり上げた。

「これ以上、わたしを愚弄するなッ! だれかれかまわず復讐の的にとるなど下衆の所業、我がするとでも思うたかッ!」
 カッ! とシオンが口腔を開いて威嚇した。
 発達した犬歯の奥に、奈落へと続くように喉が赤暗い虚空を広げていた。


「標的は、そなたひとりよ!」

 ああ、とアシュレは思った。それならば、と観念した。シオンにはその権利があった。どんな苦痛をも甘んじて受けよう、と思った。背筋を伸ばして応じた。

 びょう、とシオンが音を立てて卓上に上った。

 ガウンが脱ぎ捨てられ、美しい脚線の奥までも明らかになった。

 だが、怒りに燃えるシオンはそんなことなど気にも留めていなかった。

「決めたぞ。復讐の方法をな」

 アシュレはまっすぐにシオンを見つめた。
 逃げも隠れもしない。すべてを受け入れると決めた。

 シオンが膝をついた。

 両手がアシュレの頬を挟んだ。


 紫の瞳と目があった。
 素晴らしいバラの芳香は、シオンの体臭だった。
 それから、言った。



「愛する」

 そなたを。シオンは告げた。
 心から、すべてを賭して。

「夜魔の姫が、どうやってヒトの子を愛するのか、思い知るがいい」

 こんどこそ、自分は生きながらにして天国に迎えられてしまったのではないか、とアシュレは思った。









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