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自走式空想会社:クルーシブル

二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。

M・S・R 第三話:ワイン&ローゼス——後編

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M・S・R 第三話:ワイン&ローゼス——後編




「待て!」
 大音声が降ってきた。同時に、なにかかなり質量のあるものが転げ落ちてくる音も。
 思わず振り返ったバルベラが見た物は、真っ白な雪をまき散らしながら劇場の階段を転げ落ちてくる半裸の男だった。

「ネロ!」
「?!」

 思わず叫んだメルロを一瞬、振り返り、バルベラはまたそのネロと呼ばれた雪だるまを注視した。まあ、たしかに虚を突く、という意味では手練れの月下騎士であるバルベラのそれを見事に突いてはいた。
 むしろ、突き破った登場といってさしつかえない。

「メル、ロ、に、手を、だ、出すなぁ! あ!」

 転がりながら叫ぶものだから音声が途切れ途切れになり、コミカルさに拍車をかける。
 あまりの珍奇な登場にさすがのバルベラも状況を忘れて吹き出しそうになった。
 刹那、ドンッ、とその雪塊がバウンドした。
 それが跳躍だと気がついたときには遅かった。

 ビュン、と視界に光刃が生じた。

 ネロが回転落下の勢いを生かして五メテルを飛び越え、抜き打ちに払ったショートソードを突きのカタチにし、異能を使ったのだ。

 戦技に属するもっとも初歩的な異能:《オーラ・ブロウ》。

 もちろん、ネロの持つショートソードは業物でもなければ、《スピンドル》能力者専用の武具である《フォーカス》でもない。きちんと打ち上げられた物ではあるが、そのあたりの武器商で手に入るありふれた普及品だ。

 だから、たった一度の《スピンドル》による異能の行使で砕け散る。
 けれども、その一撃で充分だった。
 あまりにとっさのことで、また虚を突きすぎていて、さすがのバルベラも剣で受けるのが精一杯だった。

 キィン、とあっけなくフランベルジュがへし折れた。呪いで強化され、ネロの貧弱なショートソードとは比べ物にならぬ質量を持つ長剣が、である。
 それこそが《スピンドル》というエネルギーの強大さだった。
 光刃がバルベラの防御を打ち砕き、その肉体に突き込まれる。
 その寸前で、バルベラは《影渡り》を使った。
 びゅん、と十メテルほど離れた石柱の上に実体化する。

「《オーラ・ブロウ》――《スピンドル》能力者……まさか、きさま、聖騎士かッ!」

 バルベラの顔に驚愕が浮かんでいた。
 冷酷無比で鳴らす月下騎士にとってエクストラムの聖騎士はその天敵・仇敵といえる存在だ。夜魔を含む暗がりの十一氏族とすでに千年以上の時を明にも暗にも戦い続けてきた唯一の軍団なのである。

「だとしたら……どうするよ!」
 身体にまといついた雪片をまき散らしながら、ネロが見栄を張った。
 その掌中でガラス細工のようにショートソードが粉々の細片となり砕け散った。
 正確には聖騎士どころではなく、騎士でさえない。見習いから這い上がれず、人生を転落した落後者だ、とは言えなかった。
 こういうときは嘘でもいいから大口を叩かねばならない。

「メルロ、動けるか?」
「バカ、バカモノ、なんで、なんで、どうしてこんなときだけ早く来てしまうのじゃ!」
「《影渡り》だっけ。なんでもいいから異能使って逃げろ!」
「無理じゃ、この短剣……聖別されていて、わしでは抜けぬ。動けぬ」
「聖別武器? 夜魔が、かよ? 野郎! オレのメルロにひどいことしやがって。待ってろ、いま、抜いてやる!」
「ネロ、バカッ!」

 目を、逸らすなッ! そう叫んだメルロがネロを突き飛ばさなかったら、ネロはそこで確実に死んでいただろう。
 一瞬前までネロがしゃがんでいた場所に、石片をまき散らしながら大槍が突き立った。
 バルベラが十メテルの先から投擲したものだ。
 そして、その槍に続いて、こんどはバルベラ本人が飛んできた。

「いや、見込み違いか。死地の最中で女に気を取られるような腑抜けが聖騎士であるはずがない。せいぜいが三下の落ちこぼれ――スパイラルベインだな?」
 メルロとの会話で見せた妹としての言葉づかいではなく、冷酷な月下騎士としての口調にもどり、バルベラが言った。
「あまりに虚を突かれたもので戸惑ったが、なんのことはない。圧倒的な力の差を思い知るがよい!」

 言いながら、バルベラは槍を構え、落下したネロに狙いを定めた。
 確実に四メテルはあるだろう階下にネロは背面から落ちた。かなり雪が積もっているとはいえ、そこは瓦礫の山だ。よくても全身打撲から骨折、打ちどころが悪ければ死んでいる可能性もある。

 だが、その姿がもぞり、と動くのをメルロもバルベラも見逃さなかった。

「死ね!」
「待て!」

 バルベラが落下攻撃を仕掛けるのと、メルロが制止の声をあげるのは同時だった。
 メルロの声もむなしく、バルベラは弓弦から放たれた矢のように、一直線にネロに向かい飛翔した。
 終わった、とメルロが絶望した瞬間だ。
 ゴウ、と大気が渦巻き、豊饒な薫りが大気に舞った。

「うぬ!」
 ネロを仕留める直前だったバルベラが《影渡り》で間合いを取った。
  空中で軌道を変える変則的な回避運動を《影渡り》で行った《スピンドル》が通っていないただの武具相手ならば、月下騎士は人類相手に躊躇したりしない。相 撃ち覚悟で激突しても、夜魔は死なないからだ。だから、一度繰り出した攻撃を途中で引き戻すことなどない。それが月下騎士が恐れられる理由のひとつでも あった。

 そう、よほどのことがないかぎり。

 それほど危険だ、とバルベラが判断したのだ。
 がくり、とふたたび離れた場所に実体化したバルベラが片膝をついていた。

「なんだ、これは。く、呼吸が、胸が」
 胸を押さえるバルベラの肉体から、武装が溶けるように解除された。
「きさま、なにをしたっ」
 もちろん、ネロの仕業だった。ネロは体勢を立て直すより早く、持ち出した革袋のワインに《スピンドル》を通したのだ。下級妖魔であるゴブリンには効果があった。だが、夜魔に効くかどうかは賭けだった。けれども、死を目の前に賭けるかどうか躊躇しているヒマなどなかった。

「おのれ、家畜の分際で、怪しげな術を」

 しかし、相手は夜魔のなかでも最高の戦闘能力を誇る月下騎士だった。たしかに効果はあったが、かかり方が不完全だった。もし、あとバルベラが二秒でも技の効果範囲にいたならば話は違っていただろう。
 苦しげに胸を抑えながら、甲冑が消え失せ鎧下の衣類と外套姿になったバルベラが、それでも影から石弓を呼び出した。半円を描く弾倉に太矢が六本つがえてあり、連続で打ち出せる機械式のものだ。

「むやみに近づくのは危険。返り血も面倒だ。死ね」
「待て、待ってくれッ!」

 こんどはバルベラが引鉄を引くより早く、メルロが叫んだ。

「たのむ、お、おねがいじゃ、その者だけは、その者の命だけは、許してくれ!」
 数秒、冷酷な眼差しで階下のネロを睨つけていたバルベラが、ふうん、とメルロに瞳を向けた。

「この貧相な男が、お姉さまを虜にした男ですの?」
「……そうじゃ」
「やっぱり殺しますですわ」
「やめい! やめよ、バルベラッ!」
「やめて、ください、ですわ。言葉づかいがなってませんの」
「やめて、やめてください。お願いです。お願いします」
 自らの傷の痛みさえ忘れてメルロは言った。ぶるぶると震えて。

 チッ、とバルベラは舌打ちした。

「まさかとは思いましたが、本気だったのですね、お姉さま」
 こくり、こくり、とメルロは泣きながら頷いた。
「……いいでしょう。他ならぬお姉さまの頼み。叶えてさしあげましてよ」
 バルベラの言葉に、メルロは顔を上げた。安堵して。

「ただしッ!」

 そうバルベラは、切りつけるように言った。
「お姉さまが、わたくしとともにおとなしくガイゼルロンにお帰りになられる、と約束されるならば、ですわ」
 がくがくがく、とメルロの震えが大きくなった。ぼろろっ、と涙がこぼれて落ちる。

「だめだ、めるろ」
 階下から苦しげなネロの声がした。もやはほとんど意識はなく、朦朧とした声だ。
「お黙りッ! 家畜がッ!」
 ガチン、と音がして太矢が放たれた。風鳴り音とドスッ、となにかに矢が突き立つ音はほとんど同時に聞こえた。
「や、やめっ」
「お返事は?」
 こくり、こくり、とメルロは無言で頷いた。太矢はネロの頭のすぐ脇に着弾していた。

「お姉さま、お誓いになって? 言葉でッ!」
「ち、誓います。わたくし、メルロテルマ・カーサ・ラポストールは、妹・バルベラヴェイルとともに、そ、祖国に、ガイゼルロンに戻ります」
「よくできましてよ、お姉さま」

 すっ、とバルベラが照準をネロから外した。

「お姉さまが約束を守られるのですから、バルベラが守るのは当然ですわ」
 では、この豚は助けます。
 もはやネロのことなどどうでもよい、という感じでバルベラは言った。
「手当てを、手当てをさせてくれ」
「ああ、もちろんですわお姉さま。ごめんなさい、こんな無粋で不浄なものを御身脚に突き立てたままにして」
「そうでは、ない。あれの、ネロの手当てを」

 ふー、とバルベラはあきれたようにため息をついた。
 手袋を呼び出し、一本目を強引に引き抜いた。

「まだ、ご未練がおありですの? あんなゴミに」
「ああああああああッッッ!」
 痛みに痙攣するメルロの耳朶を噛みながらバルベラは聖別武器を鞘に戻す。
「くうっ、おねがいじゃ、せめて、一晩、あれの手当てを」
「おねがいします、でしょう? お姉さま」

 もう一本を、ぐいぐいとかき回すように動かし、バルベラが引き抜く。苦痛が大きくなるようにワザとだった。
 メルロの悲鳴が払暁の空にこだました。

「お姉さまの悲鳴、すごく艶っぽい♡」
「お、おねが、おねがいします、あのひとを、あのひとを手当てさせてください」
 それなのにメルロの口からは、ネロを案ずる言葉しか出ないのだ。

 感慨に水を差されたように、バルベラの愉悦に蕩けた顔が冷めた。
「仕方ありませんわね。ご随になさいませ。ただし、バルベラとの約束を破ったときは、容赦しませんことよ? 生き延びたことを後悔するようなやりかたで、ひどい目に遭わせますから♡」


 では、いまよりきっかり一両日後、明日の払暁に、ここでお待ちしております。

 そう言い残し、バルベラは溶け消えるように去っていった。

         ※


 目覚めるまで、どれくらいの時間が流れたのか。

 仕切りの間から漏れ差す光で、外が昼間なのだとネロは気がついた。
 寒気は相変わらずで背中が痛む。頭もあちこちコブになっている。
 痛みがあるなら、天国ではないらしい。
 けれども楽園には近いかもしれない。
 柔らかな乳房にネロは顔を半ばまで埋めている。
 薫りでわかる。これはメルロのものだ。

「よかった――メルロ。無事だったんだな」

 感慨に胸が痛くなり、ネロはメルロを抱きしめた。
 助けに入ったつもりだった。姫君を救う騎士のように。
 けれども、実際はぶざまに転げ落ちて、このざまだ。

 それでもメルロがここに、こうしていてくれるというのなら、ネロの行動がなんらかの突破口を開き、メルロがあの月下騎士を退けてくれたのだ、とネロは考えたのだ。
 劇場跡の階下に転げ落ちたあとのネロには、ほとんど記憶がない。
 背中を強打し、反射的に《スピンドル》を起動させたことはかろうじて憶えている。

 だが、そこまでだった。
 ぽたぽたぽたっ、と額に涙がかかった。

「なんで、泣いてんだよ。オレなら、大丈夫。いっつ痛っ、いや、農夫の体ってのは頑丈さが取り柄みたいなもんだから」
「黙れ、バカ」
 優しい声で言われた。ぎゅう、とその細い腕に力がかかった。
「転げ落ちちゃったけど、ちょっとは役に立てたみたいだな」
「心臓が、止まるかと思った」
 愛されている。その実感にネロは胸が熱くなった。
「二度とするな」
 釘を刺された。

「いや、メルロが危なかったら……約束できない。メルロこそ、オレに内緒であんなバケモノのところへ行くな」
「なれば、安心じゃ。……もう、もう、二度と会うことはあるまいから」
「さすがだな、メルロ。倒しちまったのか」
「逆じゃ、バカ」

 メルロの言葉の意味がしあわせに寝ぼけた頭に浸透するまで、きっかり十秒かかった。

「ちょ、それっ、どういう」
 意味だよ。跳ね起きたネロは泣き腫した目のメルロの顔にひどいショックを受けた。

 美しかった。
 けれども、それは触れれば壊れてしまう氷で出来た細工物の美しさだった。
「わしは今夜、ガイゼルロンに帰る。もう、二度と会わん――おぬしとは」
 会えない、ではなく会わない、とあえて言ったのは未練を自らの意志で断ち切ろうというメルロの決意の現われだったのだろう。

「なんで? なんだよ、それ、どういう……ことだよ」
 バカみたいにネロは同じ質問をくり返した。心が現実を認められずに引きちぎられるように痛んだ。

「我らは、負けた、ということじゃ」
「負けた? じゃ、なんでオレが生きてんの?」
「おぬしの命と引き換えに、わしはガイゼルロンに帰る約束をした。おぬしが生きておるのは、その約束を取り付けたおかげで、すんでのところで加えられるはずだったトドメの一撃をバルベラが止めたからじゃ」
「そんで、バルベラ――あの月下騎士は?」
「今夜――いや、正確には明け方か。また来る」

 ネロにはメルロが泣く理由がわからなかった。

「夜魔ってのはさ、ちょっと頭のネジが緩いの? これじゃ再戦を許したようなもんじゃないか。ハハ」
 ネロは笑った。
「どういう意味じゃ?」
「こんどは、最初からふたりがかりで行けばいいんじゃん、ってことさ」
「ダメじゃ!」
 決然とメルロは言った。
「なんでだよ」
 ネロが珍しく食ってかかったのは、これからメルロが語る現実を受け入れてはいけないと頭のどこかで理解していたからだろう。
 淡々としていることを自分に強いる様子でメルロは言った。
「アレは手加減しておった。最初はわしを説得する気でおった。剣戟を仕掛けたのはわしのほうからだったのに、アレはそれを受け切り、かつ、動きを止めることに終始した」
 おぬしが五体満足なのも、そのおかげじゃ。
 ぶるりっ、とメルロが肉体を震わせた。
「どういうことだよ」
「おぬしは夜魔の本当の闘争を知らん」
「本当の闘争?」
「ただの鋼でいくら切りつけようと瞬く間に再生する夜魔が、その切り札に聖別武器を使うようになったのは最近じゃ。せいぜいここ二〇〇年あまりのトレンド、と言ってよい。
 では、それ以前はどうだったと思う? 何百回も相手の疲弊するまで切りつけ、突き込み、を繰り返していたと? そんな悠長なわけがあるまい。
 方法は簡単よ。噛み殺し、咀嚼し、飲み下すのよ。
 ありていに言えば相手を喰うのじゃ。
 その血肉を我がものにしてしまえば再生など出来ぬ、という理屈でな」

 そして、殲滅を目的で暴れはじめた高位夜魔を相手に、ただの人間では――《フォーカス》で武装した聖騎士でもないかぎり――数合も持つまい。

「やってみなけりゃ……」
「月下騎士は例外なく《フォーカス》を持っておる。バルベラは、わしやおぬしにそれを使ったかや?」

 冷徹な指摘にネロは言葉を失った。

「情けをかけられたのじゃ。口ではどのようなことを言っておっても、アレはアレで心優しい。発露の仕方がおかしいだけでな」
「だけど、メルロ!」
「それに、おまえさまは、わしを嘘つきにさせるつもりかえ? 妹と交わした約定じゃ。すくなくともバルベラはそれを守った。おぬしを見逃し、手当てを許し、一両日の時間を与えた。本来ならばありえぬ慈悲じゃ」
「そんな無理強いの約束に効力などない!」

 ネロ、とメルロは穏やかに言った。

「戦場での約束に無理強いもへったくれもない。相手は刃の一振りですべてを決着できる立場だった。交渉の余地などないはずだった。それを曲げて頼んだのはこちらじゃ。理屈が逆転しておるぞ」
「そんな、そんな、さあ、だって」
「約束を履行することは、誇りを守ることと同じ」

 目をつぶり淡々と言うメルロに、ネロは駄々っ子のように喰ってかかった。

「誇り? そんな誇りなんて、捨てちまえッ! オレは嫌だ、認めない、メルロを月下騎士なんかに渡せるもんか! 戦うぞ。第一、オマエはオレのもんなんだからな!」

 必死の形相で言うネロに、メルロは泣き笑いで答えるのだ。
「誇りのないわしを、おまえさまは好きになどならんじゃろ? 誇りとはその人間、存在を規定するルール、それも自らが自らに定めたものなのだから。
 だから、それを自らが破ろうと、誰も罰するものはいない。
 なぜなら、そのルールを裁定するのは自分自身じゃから、じゃ。
 だがな、ネロ、もしこの世界がひとつのゲームだとして、自らに不利だからという理由で、そのルールの裁定を毎回ころころと変えるヤツを、おぬしどう思う? 
 相手と取り決めた約束は破ってもよく、しかし、自らと結ばれた約束は固くこれを守らせる。そんな理不尽を平然とやってのけ、おまけに悪びれることもない。そんな人間をおぬしはどう思う?
 政治家ならそれもよかろう。ときには必要じゃろう。
 だがヒトとヒト同士が交わし合った約束はどうじゃ? 破ってよいのかね?
 わしなら、そんなネロを好きにはなれん。おぬしもそうじゃろ?
 それなのに、その理不尽を繰り返してしまう輩のなんと多いことか。
 そして、そやつらはある日、気がつくのだ。誇りを売り払った代償に。
 鏡のなかにいる、孤独で醜い怪物が自分だと気づいてな」

 ――約束を守る。それはな、ネロ、我ら夜魔がかろうじて化物と成り果てぬための最後の砦なのじゃ、とメルロは言った。

「だから、不履行にはどんな処罰も許されておる」
「だけど、だけど、メルロはオレの」
「おぬし、負けたろ?」
 優しく、優しくメルロが言うものだから、ネロは自分の目の前が涙で見えなくなってしまうのだ。
 力づくなんておかしい、という弱者の言いわけが喉もとまで出かかって、ネロはそれを飲み込んだ。ここはそういう世界なんだ。だから剣があり、槍があり、騎士団があって、そして《スピンドル》能力者がいる。

 弱いものは踏みにじられる。
 貴いものを、愛するものを守りたいならば、強くなるしかない。
 剣に、刃に一度でも訴えかけた人間のそれが逃れられぬ宿命なのだ。
 剣を握る、武力で解決する、とはそういうことなのだ。

 たぶん、自分と聖騎士をわけているものはそれなのだ、とネロは理解してしまった。
 この言いわけ――踏みにじるときには意識されず、踏みにじられたときにだけ――都合のよいときだけ発生する、自分の権利に関してだけ発露する甘え切った視座のありようこそが、決定的な違いなのだと。

「ならば、戦うッ、取り戻すッ!」

 瞬間、ネロはメルロに押し倒された。背中が痛んだ。だが、それを気にすることなどできなかった。
 メルロが泣きじゃくって訴えたからだ。
「おねがい、お願いします。やめて、戦っちゃダメ。おねがいです、なんでもします、どんなことでも、だから、ネロ、おねがい、戦わないで!」
 死んでしまう、死んでしまう、死んでしまう。メルロは必死にネロに懇願した。

 あの従順な口調で。外聞をかなぐり捨てた、むきだしの心をぶつけられた。

 恐かった、と訴えられた。

 あとちょっとでも遅れていたら槍がネロを貫いていたとき、ネロが階下に落ちたとき、バルベラが飛びかかったとき、太矢が頭部を掠めたとき、心が壊れると思った。そう泣かれた。わたしが壊れてしまう、とわかった、と。

 どこかで慢心していた、と告白された。

 不死者である高位夜魔は生死に関する危機感が一般的に薄い。だから、どこか他種族の死に対しても諦観めいた楽観視がある。
 それが、あの瞬間、そうではないのだと思い知らされたのだと。

 ささいなことで、ヒトは死ぬのだと。
 知識ではなく、体験で。

 そうやって、死に別れたとき、メルロにとってガイゼルロンではなく、この世界全体があの牢獄になってしまうのだと気がついて。

「あなたが生きていてくださる、それだけで、それだけで、メルロは生きて行ける。どんなにつらくても、どんな孤独にでも耐えて行ける。あなたのくださった思い出を灯火に、支えにして」

 だから、生きて、生きてください。
 狂気さえ感じさせる虚ろな瞳で微笑み、ネロに訴えるメルロを、ネロは呆然と見ることしかできない。


 キミには己の愛するものの、そのすべてと引き換えに、生を望まれた経験があるだろうか? こんな土壇場の瀬戸際で。血を吐くような言葉で。
 すくなくともネロにとって、それは初めてのことだった。
 こんなことに憧れるのはかまわないが、体験することはお勧めしかねる。
 そうネロは思う。
 キミの心の平穏のために。
 きっと、二度とまっすぐな道を歩けなくなるから。
 どうすればいいのか、ほんとうにわからなくなって、ネロは虚ろに泣いた。
 ああ、と二度目の理解をした。
 これが、絶望なんだ、と。


 忘れられないようにして欲しい、とメルロが言い出したのは、たぶんしばらくしてだ。
 メルロの全部を使って欲しい、と懇願された。

 だれかがメルロに触れたとき、もうどこにも初めての場所など残っていないとわかるように――ネロに蹂躙され尽したことがわかるように焼印して欲しい、と真剣に言われた。

 こんなこと、懇願してもらえる男が世のなかにどれくらい居るというのだろう。

 今日、このとき、という条件さえなければ、ありえないくらいの幸福だったはずだ。

 まるで夢みたいに。

 絶望に打ちひしがれたネロは、自分のそれは役に立つまいと思ったが、あきれ果てたことに、また恥知らずにも、泣き顔で懇願するメルロにかつてないくらい、反応してしまった。

 それを悦ばれてしまった。
 応じた。

 ときにはひどく乱暴に、力ずくで。あるいは言葉で、命じて。
 メルロは耳朶まで羞恥に染めて、しかし、そのすべてを受け入れた。
 合間に、最中に、別なくワインを飲んだ。
 口移しで、飲みかわした。

 ひどいことに、素晴らしく旨かった。
 絶対にメルロを忘れられない、とネロは思った。
 いったい幾度目の挫折だろう。
 醸造家にも、騎士にもなれず、好きな女ひとり守れない。

 ネロは飲んだ。しこたまに。

 気がつくとワインが無くなっていて、ネロはとっておきを探しに蔵に下りた。メルロもついてきた。片時も離れたくない、という意思表示なのだろう。裸身にシーツをまとい、肘に齧り吐くようにして。

 蔵に寝かされた樽のうちのひとつに、ベルカが跨がり眠っているのを見つけた。

「おまえ、そうか、うえでオレたちが……あー、たしかに、ちょっと気が回らなかった」
「すまぬの、ベルカ。じゃが、今夜限りのことゆえ」

 謝るふたりにベルカは応じようとしない。すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
 ちょっと舌がはみ出していて、その様子にふたりは笑ってしまった。

「完全に寝ておる」
「ワイン蔵の守神さまだな」

 ゆすっても持ち上げてもベルカは堂々と寝ている。ふたりはまた笑った。泣き笑いだ。
 だから、気づいていない。
 ベルカの行動の意味を。

         ※

「では、行って参る」
 指定の時刻、そのすこし前、正装に着替え終えたメルロは、二年暮したふたりの家を後にした。
 ネロは前後不覚で眠っている。

 あれから、あの樽を空にする勢いで飲んだ。

 旨かった。無理もない。あれはネロがメルロのために醸してくれた貴腐葡萄を加えたものだったのだ。その上で眠っているとは、ベルカもなかなかわかっておる、とメルロは思う。はよう大きくなってネロをたぶらかしにいけ、と思う。

 そうでないと、残されたネロが心配だ。
 飲み過ぎ、また、メルロを愛しすぎて眠りこける男の寝顔をいま一度のぞいて、心底そう思う。

「あなたとの思い出を、わたしは一生忘れません」

 微笑んで言うことができた。愁嘆場など、ご免こうむる。ネロとのしあわせな思い出に傷がついてしまう。だから、メルロはその瞳の端に浮かびかけた涙を手の甲で拭った。
 それから立ち去る。音もなく。足跡さえ残さずに。

 ただ、火が消えたようにぬくもりだけが、消え去って。



「約束の時刻通り、きっかり。さすがですわ、お姉さま」
 昨日と同じ場所、同じ格好でバルベラが待ち受けていた。

「約束じゃからな」
 はい、とバルベラは微笑む。姉の美質を讚えるように。
「では、失礼します」

 どこから取り出したのだろう、大仰な手枷・首枷をバルベラはメルロに強いた。
 硬いイシュガル杉の芯材に強い呪いで括られ固体となった水銀で、それはできている。

「夜魔の力を封ずる《フォーカス》。虜囚の枷か……大仰な」
「お姉さまの気が変わられても大丈夫なように。また、これはお姉さまをお守りする意味でもありますのよ?」

 この特別な枷は高位夜魔にしか用いられない。刑罰を加えることが出来るのは月下騎士をのぞけば、同位かそれ以上の夜魔にだけ許される。同胞の迫害から囚人を法的にも物理的にも保護する意味合いがあったのだ。内外からの干渉を遮断する強力な防護の能力を発動できる。

「約束は違えぬよ」
「それは大変けっこうなお心構えです、お姉さま。……でも、なんですの……この、薫りは――すごく、胸がドキドキする。ワイルドで、ケダモノっぽいのに、その奥に心を持っていかれてしまうような果実や、花の、濃密な薫り。お姉さまは、むかしからすごくいい薫りでしたけれど、今日は、今日のお姉さまは、格別ですわ」

 頭髪を挟まぬよう、メルロの頭髪をかき上げてやっていたバルベラが陶然となって言った。

「おぬしの言うところの、家畜の愛とワインが醸した薫りさ」

 どこか、挑発的にメルロは言い、バルベラは弾かれたように手を離した。

「か、家畜っ――けっ、汚らわしいッ!」
「己の感性に素直になれ、バルベラ。陶然としておったではないか」
 諭すように言うメルロに、バルベラはキツイ視線を送り、枷につながった鎖を引いた。

「やはり、こうしておいて正解でしたわ。ガイゼルロンについたら、丸洗いしてさしあげますからね!」
「記憶は永遠。おぬしの言葉じゃったな。洗ったくらいでは消せんよ、アレがわしの肉体と心に押してくれた焼印は」
「ケダモノに、や、焼印?! そ、そんなことのためにわたしは一両日の時間をさしあげたのではありませんことよ」
「もうおそい。愛を交わしてはならぬ、と約束はしてなかったであろ? さあ、妹君よ、行こうか。夜が明けてしまうぞ」

 狼狽するバルベラをむしろ促してメルロは立ち去ろうとした。
 そのときだった。
 ごそり、と雪の砕ける音がした。
 ふたりの夜魔の姫がその方向、観客席の上端を見上げた。

 ネロがいた。
 ふらついて。あきらかに酔って。打撲のうえに飲んだせいで顔がむくんでいる。

「性懲りもなく」
「いや、見送りじゃろう」
 舌打ちし吐き捨てたバルベラを、冷淡にメルロがとりなした。
 わざと視線を合わせない。

「行こう、バルベラ」
 そう言って立ち去りかけたメルロの背にネロの声が響いた。

「待てよっ、月下騎士ッ!」

 あきらかに呂律の回っていないネロの言葉に、蔑みの表情を隠そうともせずバルベラが視線を向けた。

「吠えるな、負け犬がッ。お姉さまのお心の平穏のため、静観し見送るならば、見逃してやる! 黙っていろ!」
 だが、バルベラの忠告を無視して驚くべきことをネロは言い放った。
「挑戦だ、オマエに騎士として、挑戦する! これは決闘だ! メルロを賭けた!」
「なん……だと?」

「ガイゼルロンに帰るという約束を取り付けたのは、メルロとだけだろうが。だが、メルロは――その夜魔の姫の肉体も心も、オレのものだ。メルロ自身が誓ったんだ。だから、だからオレは、その所有者として、オマエにと挑戦する!」
 オレが勝てば、勝者としてメルロを、オレの自由にすることができる!
 それがネロの理屈だった。

「一度はついた勝負を……見苦しいぞ! お姉さまの嘆願ゆえ、見逃してやったのに!」
「オレが頼んだ憶えはない! また、オレはオマエとなんの約束も交わしていない!」
「屁理屈を!」
「どうした、月下騎士、人間が恐いのか?」
「ネロ、やめよ。どうしたのじゃ、おねがいじゃ、やめよ!」

 メルロの悲痛な叫びに、ネロは酔っぱらっているとしか思えない仕草で人さし指を、ビシィ、と向けてきた。
 手に入れるぜ、ベイビィ! みたいな感じで。
 思わず駆け寄ろうとして、メルロは雪の上に頽れた。能力を封じる枷が、雪に埋もれることのないはずの高位夜魔の能力にまでおよんでいた。生まれて初めての経験に、メルロは立ち上がれない。

「バカモノ!」

 はっ、とバルベラの嘲笑が聞こえた。

「騎士としての挑戦と言われれば、これを看過することはできんな。お姉さま、バルベラはお姉さまもご覧になった通り、数度に渡り止めましたのよ? それをあの愚か者はことごとく踏みにじった。もはや同情の余地などない!」
 獰猛な笑みを浮かべてバルベラがネロに応じた。
「お姉さまが我が身を挺して拾った命を、無駄にするとは! 下等種の上に愚か者とは、その頭にはつける薬がないな。いいだろう、相手をしてやる。ただし、楽に死ねるとは思うな! 圧倒的絶望と苦痛のなかで後悔しながら死ぬがいい!」

 メルロの悲鳴にも似た叫びは、無視された。

 観客席の上端で、ずらり、とネロが長剣を抜いた。鞘は投げ捨てる。騎士の礼の構えを取る。ふらふらだ。
 対してバルベラは無手だった。圧倒的実力差を思い知らせ、絶望を深めるために素手で仕留めるつもりなのか?

 駆け出したのは果たしてどちらだったか。
 ネロは駆け降り、バルベラは駆け上がる。
 ふたりの距離が一気に詰まった。
 突きのカタチにネロの切っ先が繰り出された。左手片手突き。きちんと鍛練していなくては剣の重さに振り回され体勢が崩れてしまう技だ。ネロのそれは酔ってはいても、しっかりと軌道を保っていた。

 だが、遠い。
 焦りがその剣にはあった。
 突き技は、その剣の長さと腕のリーチ、そして最大貫通能力を生み出すことのできる優れた攻撃方法だが、このように間合いを見誤るととたんに窮地に陥る。軽い細剣やサーベルならばともかく、重い直剣は引き戻す隙を狙われやすい。

 だから本来、相手の攻撃をいなし、体勢を崩してから狙うべき技なのだ。

「甘い!」
 バルベラはそのミスを逃さなかった。
 ぎりぎりまで切っ先を見切り、かいくぐってトドメを刺す――そのつもりだった。

 ビィン、とその剣が光を帯び、瞬間、間合いが伸びた。

 それは《オーラ・バースト》と呼ばれる基礎技:《オーラ・ブロウ》の発展系、かなりの上級技だった。実際にスパイラルベイン登録者でも使い手は皆無、聖騎士ならいざ知らず騎士ですらなかったネロが扱えるような技ではなかったはずだ。

「ほう」とバルベラが感嘆の声をあげた。
 まさか、これほど遣うとは。それは純粋な賛嘆だった。
「だが、工夫がない。いや、ないとは言わんが、素直すぎる。豚ではなくイノシシだな、貴様は」

 そう評価を改める。畜生だが誇り高い——野生種(ジビエ)、というわけだ。

「ふふ、その血、すこしは楽しめるか?」
 迫る光刃に、しかし、すこしも慌てた様子ではなく、むしろ楽しげにそれを擦り抜けながらバルベラは笑った。

「まだだッ!」
 だが、ネロは諦めなかった。
 突撃技である《オーラ・バースト》の最中に、腰のサブアーム・ショートソードを抜き放った。それすらも光を――帯びる。
「ばかな、同時に、ふたつの技を、だと! 《スピンドル》の同時励起!」
 そんなことが、できるのは、聖騎士だ! 驚愕するバルベラの眼前で、しかし、ネロの突き込んだ切っ先は確かに《スピンドル》の輝きを帯びていた。

「喰らえッ! 《オーラ・ブロウ》!」

 さすがに《オーラ・バースト》を同時に扱うことはできなかったのだろう。しかし、《スピンドル》エネルギーを帯びた切っ先ならば、夜魔に致命傷とはいかずとも充分な深手を負わせ得る。そこを畳みかければ、勝機はあるはずだった。

 だが、バルベラとネロには圧倒的な経験値の差があった。

 バルベラは、驚愕しながらも続く感情である恐怖を意志の力で押さえ込み、切っ先を冷静に躱して見せた。ネロの剣は、紙一重でバルベラの髪留めを弾いたに過ぎなかった。

 ぞぶり、という鈍い音を、ネロはどこか遠くに聞いた。
 熱い、と腹部に感じた。
 ごぶ、ど生臭く塩辛い熱湯が口からしぶいた。
 自分の血液だ、とネロがそれを認識するまで時間がかかった。

「貴様を侮ったことを詫びておこう。その剣技の冴え、聖騎士に匹敵する。ただ、惜しむらくはなぜに初見のときにそれを出せなんだか、ということか。およそ、覚悟が生んだ覚醒だったのだろうが、遅かったな。そして、焦りすぎた。貴様お得意のワインを使う奇術も、こう決着を急いでは使いようもなかったな?」

 ネロの腹部にバルベラの右腕が食い入っていた。
 その腕は変形している。まるで――オオカミの顎門のように。

「最大の敬意を表し、貴様を我が血肉とする名誉に浴してやろう。我が血に溶け、生きるがよい。これまでどれほど忠節を貫いた者でさえ、その血を捧げるのがせいぜいだったのだ。ふふ、この腕はな、その忠実なる下僕にして騎士、人狼のカダシュの力よ」

「あがっ、ぐぎっ、げえ」
 果たしてネロの耳にその声は届いていただろうか。

 生きながら臓腑を喰われる苦痛に、ネロは襲われていた。胃を、腸を、バルベラの腕に生えた牙が咀嚼している。
 どこかでメルロが狂ったように泣いている。
 ああ、泣くな、泣かないでくれ、とネロは思う。

「ん、これは、なんと甘美な。ああ、ネロよ、すまぬ、わたしは貴様を過小評価しすぎていた。訂正する。これは、なんと素晴らしいのか。臓腑に溜められた……ワイン、だな? それが貴様の肉と溶け合い――美しい。美しいとしか言えぬ味だ」
 つう、とバルベラが歓喜の涙を流した。
「甘く、長く続く歓喜に――そこに添えられた挫折と苦痛の苦味が、素晴らしい」

 そうか、事前にワインで臓腑を満たせば、このような味わいを得ることが可能であるのか。新たな調理法を思いついたかのように、バルベラはご満悦だ。
 ほとんど飛びかけた意識のなかで、ネロが確認できたのはバルベラが、それをしっかりと味わいながら飲み下すのことだけだった。

 次の瞬間、それが起った。

 轟、と瞬間、バルベラはどこかで風の唸りを聞いた。

 そして、胸を押さえてネロにすがりついた。力を失ったネロがもたれかかってくる。抱き合うようなカタチになり――その風の轟きが、どこで鳴っているのかを認識して驚愕した。

「これは――なんだ、なぜ、わたしの胸が、高鳴っている。この音は、わたしの内側で渦を巻いている」
 なん、で、なんで、わたしは、泣いているんだ。

 ぞぶ、と圧倒的な勝利を収めたはずのバルベラが震えながらネロの肉体から腕を引き抜いた。倒れ込むネロを抱擁し、その穴からこぼれ落ちる臓腑を慌てたように受け止める。

「なんだ、これは、なんだ、これは、貴様、なにを、なにをわたしに、した」
 ネロは答えない。もはや答えられない。
 だが、ふたりを見守るメルロにだけはすべてがわかった。

「《スピンドル》――ネロ、ネロのワインと《スピンドル》だ」

 そう、ネロはその導体であるワインをバルベラに直接、飲ませるために、我が胃の腑に溜め込み、それを的にして戦いに挑んだのだ。
 己の剣技になどいささかも期待していなかった。まさしく捨て身の一撃。

 それは文字通り、劇的な変化をバルベラに与えていた。
 肉体にではなく、心に重大な影響を及ぼした。
 バルベラのバラ色の唇が蒼白になっていた。わなわなと震え、あきらかに恐慌をきたしていた。

 先ほどまで光刃が頭部を掠めても瞬きひとつしなかった月下騎士が、である。
 まるで、己の行いを悔いようにネロを雪の劇場に横たえる。

「あぐっ、ぐううっ」
 左手で口元を押さえ、怯え切った瞳でメルロを見た。
 メルロは妹のその目に、はっきりと後悔と深い絶望を見てとった。それはまるで、いまメルロが浮かべているであろう表情の鏡映し、そのままだった。

 そして、バルベラは逃走した。オオカミの唸り声のような嗚咽を残して。
 夜魔の《影渡り》を使って。
 それきり、戻らなかった。



「ネロッ、ネロッ!」
 メルロは枷をされたまま、雪の中を転げながらもネロの元へ走った。
 かろうじて生きていた。
 だが、あきらかな重傷であった。出血量と穴の大きさ、失われた臓器の量から、おそらくあと数十秒で死にいたることは確実だった。
 傷封じの貴石であっても間に合わぬほどの深い傷だった。

「ああっ、ああああっっ」

 狂ったようにメルロは叫び、客席に枷を叩きつけた。びくともしない。痛んだのはメルロの肉体だけだった。
 メルロの脳裏に、かつてアラムの地で出会った大公の姫・シオンの言葉が甦っていた。シオンはその伴侶であるアシュレダウが同じく心肺を失う重傷を負ったとき、その死の淵から彼を救うために、自らの心の臓を与えたのだと言った。

 それ以来、ふたりはひとつの心臓を共有しているのだと。

 その言葉には誇張も嘘偽りもなく、メルロはあまりのふたりの愛の深さに涙が止まらなくなってしまった。

 同じことをするつもりだった。

 だが、手枷がそれを阻んだ。呪いの品なら、メルロは解呪してしまったかも知れない。だが、これは《フォーカス》だ。そう簡単には壊せない。
 そうしている間にも、ネロの肉体から刻一刻と命が失われているというのに。

「だれか、だれかっ、ネロを、ネロを、助けて!」
 半狂乱になり、メルロは叫んだ。考えても、考えても、ネロを助ける方法が思い浮かばず、ついに他者にすがった。

 だが、ここには彼らしかいない。

 致命的な時間が、あっという間に過ぎた。
 どしゃり、とメルロが雪の中に腰を下ろした。
 糸の切れた人形のように。

 目の前が真っ暗だった。どんな闇さえ見通す夜魔の瞳でさえ、それは見通せない。

 くしゃり、と心が壊れる音がした。

 死のう、とはっきり思った。ここで、ネロと死のう。
 ネロのいない世界で、自由に生きることにどんな意味があるのか、メルロにはわからなくなっていた。考えたくなかった。

 そうだ、と思いついた。

 ネロにキスをしよう。死ぬ前に、わたしの全部をネロの匂いで一杯にしよう。

 そう思いつき、メルロはネロの遺体を覗き込んだ。

 ひどい形相だった。無理もない。心臓マヒでもそうだが、内臓に傷を受け苦しんで死んだ生き物の顔は、正視に耐えられぬほどむごい。

 ぼろぼろぼろ、と堰が壊れてしまった堤のように、メルロの瞳から際限なく涙がこぼれた。
 
「つらかったろうに、苦しかったろうに……ネロ、ネロ」
 もう、ネロの名前しか出てこない。
 滲んだ視界の先で、ネロが苦しげに呻いたように見えたのはきっと、涙のせいだ。

 独りで死んだ《魂》は迷ってしまうという。
 一刻も早く、ネロの《魂》を安心させてやりたかった。

「いま、そばにゆくからな」
 その途端、だった。

「ぐ、うっ、がへっ!」

 がばっ、とネロが血を吐いた。
「うげえ、がぼっ、ぐっぐるじっ、溺れるっ」
 喀血を浴び、メルロはなにが起こったのかわからず、瞳をしばたかせた。

 よく見れば、傷口の肉片がうごめき、失われた器官を再生し始めていたのだ。


さて、連投で更新しております、「ムーンシャイン・ロマンシング」第三話:後編。

文章の続き方を見ていただければお分かりのように、完結していま……せん。
前回、あれだけ「終わります!」って煽ったのに!!

すみません、文字数の配分を間違えたようで、ブログに収まらないんですうううう。

と、いうわけで、このお話、もちょっとだけ続きます。(あわわ)

後編2をご覧くださいませー。



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