※
「ほう、甲冑を新調したのか」
儀式開始から丸三日後の晩、警備のローテーションが一致したノーマンが声をかけてきた。イズマがふたりの土蜘蛛の刺客と対峙していたころだ。
策略と真に遊撃的な戦いを得意とするイズマはあえて手の内をさらすことはしない、と言った。そんな行動が許されるのは、イズマをはじめとするアシュレたちがカテル病院騎士団にとって不正規戦力に他ならないからだ。
儀式の初段階が一段落し、シオンからもたらされた夜魔襲撃の情報に備え、防衛の任にあたる騎士たちがそれぞれの持ち場に散り行くなかで、賓客であるアシュレには遊撃的役割が与えられた。もちろんシオンもそうだ。
その自由な采配のなかで、どのように立ち回るか、アシュレが思案している時だった。
ノーマンが声をかけてきた。
「ええ、右腕はイズマの息子さんの使ってた竜鱗の籠手――〈ガラング・ダーラ〉――を正式に譲ってもらったし、本来の騎乗スタイルだと左腕を装甲化したほうがよいので」
かちゃり、とアシュレは鋼鉄の装甲に包まれた左手を上げて見せた。
これまで、アシュレは右腕側に金属製のヴァンブレイズ(腕鎧一式)を装備していたのだが、これはアシュレの扱う竜槍:〈シヴニール〉から発される超高熱の粒子飛沫から右腕側を守るための配慮であった。
左手側は実際の騎兵戦闘を想定したとき手綱を握っていることが多いため、ターゲットになりやすく、盾で止まらず滑ってきた穂先や刃を受けるという意味でも、本来ならこちら側をまず装甲化するのが常道なのだが、アシュレの場合互いが槍を突き込むまえに攻撃可能なため、特別な仕様となっていたのだ。
聖なる盾:〈ブランヴェル〉の圧倒的防御能力に信を置いていた、と言ってもよい。
それを、これを期にアシュレは改めた。
竜鱗の籠手:〈ガラング・ダーラ〉は素晴らしい柔軟性と耐火耐熱に加えて対雷撃防御能力、さらに板金鎧を上回る防御能力まで備えた防具であったから、これは実際には重装化へと舵を切ったのだと解釈すればいいだろう。
場合によっては馬を降り、歩兵として戦う――〈シヴニール〉による長射程攻撃が不可能な、市街地での戦闘を考慮に入れてのことだ。
かつての重甲冑のように足先まで板金鎧で覆われていないが、そのかわりに大幅な軽量化と持続力の向上を得たこのスタイルは、柔軟な対応を迫られることの多い《スピンドル》能力者の騎士が選択することの多かった様式でもあった。
「まさに遊撃兵、という感じになったな。カテル病院騎士団のサーコートもよく似合っている」
「ありがとうございます。まさか、お尋ね者の身でエクストラム法王庁のものを使うわけにもいきませんし」
「あの漂流寺院での一件以来、なにやら顔つきも精悍になった気がするぞ。それに……すこし背も伸びたのではないか」
「はい、じつは」
「そうか、アシュレはまだ十八だったな。もうすこし、背は伸びるな?」
「いや、どうでしょうか……むかしから、女のコみたいだと笑われてたくらいですから。……あれ? いま、何月何日でしたっけ?」
首を捻るアシュレに、ノーマンは少し笑って答えた。
「日付が変わって、もう十二月十三日だぞ、アシュレ?」
「えっ、あれっ、ボク、昨日が誕生日だった!! 十九歳だ!」
ノーマンが目を丸くし、その後、破顔した。周囲にいた僧職や騎士たちがなにごとかとこちらを振り向き、笑顔になる。
ノーマンが声をあげて笑うところは珍しいのかもしれなかった。
「この件が片づいたら、祝わねばならんな」
あの宴会王がまた盛り上げてくれることだろう、と言いきるノーマンは件の宴会王=イズマによって前回いかなる目に遭わされたのか、記憶がないのだ。
アシュレはあの日のノーマンの姿を思い出して、噴き出してしまった。
それの笑顔を同意と受け止めたのだろう、ノーマンがアシュレの肩を叩いた。
「盛大にな。だが、まずはイリス殿を救ってからだ」
そう言い、ノーマンは自らの持ち場に向かって行った。
ことの経緯はどうであれ、笑顔で後輩を励まし、戦場に向かって行ける騎士の姿は周囲にいる味方の志気を高揚させる。
ノーマンの朴訥さは、誰しもが緊迫し入りがちな肩の力を抜いてくれる効果があった。
その意味で、ノーマンは優れた前線司令官なのかもしれないとアシュレは思った。
戦上手という言葉は武勇や戦術の優劣だけを表しているのではない。人心をどう掴むかこそがもっとも難しい。学ばなければ、とアシュレは改めて思った。
「ほう。なかなか、いい顔つきをしているではないか」
それまでノーマンとのやりとりを黙って見ていたシオンが回り込みながら言った。
「責務や責任だけではない、なにか、未来を見据えるような――希望について考えている顔だな」
「いや、ヒトの心を掴むって難しいな、と思ってさ。学ばなければならないな、と思ってさ。厳しい戦局、難しい局面で、ヒトを笑わせてともに戦えると思わせることのできる人物にならなければ、と考えていたんだよ」
「人心を掴んで――そのあと、どうするつもりだ? 王にでもなるか?」
壮大すぎることを、なぜだか楽しげにシオンが言うものだから、アシュレは泡をくってしまった。
「いやっ、それはちょっと一足飛びすぎるっていうか、大言壮語がすぎるっていうか」
ふうん、とシオンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「どうしたいのか、何者になりたいのかもわからずに、自らを高めたいなどと、まあ、殊勝なことだな」
そのまま、くるり、とシオンは背を向け、地下に穿たれた回廊から出て行こうとする。
アシュレは慌ててその後ろを追った。
機嫌を損ねるようなことを言ったのだろうか。それがわからずアシュレは混乱した。
「シオンっ、そのっ、ボクは、なにか怒らせるようなことを言った?」
そのアシュレを振り返ろうともせず、シオンは硬い口調で答えた。
「アシュレ、よいか、ヒトの子の命はあまりに儚く短い。己がどう生きて、何者になりたいのか、常にあきらかにしながら生きることだ。さもなくば、辿り着くことなどできぬまま仕舞いだろうよ」
主体を持て、と言われているのだとアシュレにはわかった。
アシュレは受け継ぐ者として生きてきた。バラージェ家の長子として、聖騎士であった父:グレスナウからその血統と《スピンドル》能力を受け継いだ者として、そして伝統と権威、神の地上代理人たる法王に仕えるものとして。
その枠組みのなかで生きるとき、どう生きればよいかはそれまでにアシュレに繋がるすべてものが規定してくれていた。
伝統、血脈、家柄、しきたり、遺産――受け継いだものとそこに続くすべてが、アシュレがいかにあるべきか迷うまでもなく教えてくれていた。すべては自明だった。
いままでは。
だが、己の《意志》で人類の敵対者たる夜魔の姫、土蜘蛛の王と共闘し、聖務を投げ出して逃亡したアシュレは、かつて自分を縛りながらも同時に形作ってくれていた一切から決別したのだ。
それは、いままで自らを育み与えてくれてきたすべてのものを、敵に回しかねない決断だったはずだ。たまたま、そのあとも続いた苛烈な出来事のせいで、アシュレはまるでそれが自らの《意志》であるかのように錯覚してしまっているが、実際には巻き起こる事件に対応しているだけではないのか。
流されているだけではないのか。
シオンはその性根を一撃したのだとアシュレは理解した。
オマエの《意志》はどこにあるのだ、と。
並の男なら激高していたかもしれない。それは自身の根底、ルーツを蹴り飛ばされるようなことだったからだ。
だが、アシュレの胸中に湧き上がった感情はまったくの逆だった。
シオンへの賛嘆。感謝の念が自然に溢れてきた。やっぱり、キミはすごい、とアシュレは思う。その感謝を素直に言葉にした。
「ありがとう」
いま、そしてこれから、ボクがどんな男に成って行かなければならないのか、よくわかったよ。そういう意味を込めて言った。
ずんずんと歩を進めていたシオンが、ぴたり、と足を止め振り返った。怒ったような困ったような顔だった。
「そなた……ここは怒るところぞ、男子としては!」
どうして? その思いが表情で丸わかりだったのだろう。シオンは困り果てたという表情でため息をつき、それから突っかかってきた。
「それからな、わたしが怒っているのはそのことだけではない」
ずし、と指で胸を突かれた。
まだなにかあったの?
アシュレはたぶん、こういうとき自分が無垢な子犬のような顔をしているのを知らないのだろう。だから女のコみたいなどと言われるのだ、とシオンは思う。思わず抱きしめてやりたくなるような愛らしさだ。
「わからんのか?」
「う、わ、わかりません」
「そなた、誕生日を忘れておっただろうが!」
なぜっ、なぜ、わたしに教えておかなかったのかっ、シオンは噛みついた。
「わ、わすれてました」
「忘れたで済むかっ、そうと知っておれば、あれこれと手を尽したものを。こらっ、プレゼントはなにがよいのか? ケーキを焼いて欲しいか?」
「で、できるの?」
言い終わる前に鉄拳が落ちてきた。
「しっ、失敬なっ!! できるわい、やってやるわいっ、あんなもの型に入れて焼くだけであろうが!!」
シオンの発言を聞くにつれ、アシュレは自分の恐ろしい予想は的中するに違いないと確信した。そういえば、ユーニスが作ってくれたクリーム入りの焼き菓子は最高だったと思い出した。
「プレゼントはなにがよいか」
ほとんど尋問口調で迫るシオンにアシュレはなんとか答えた。
「も、もう充分すぎるほどもらったよ」
「主体性を持て、と言ったであろうがッ!!」
いったいなにがお気に召さないのか。
アシュレは目の前で力説するシオンの可愛らしい仕草を眺めているだけで、充分すぎるほどしあわせだというのに。
「なにかないのかっ、なにかっ」
「考えときます」
自らの生き方も、問い直さねば、とアシュレは思うのだ。
※
ひゅうひゅうと風が啼いている。
隙間だらけの小屋を風が抜けて行く音だ。
イズマは海辺の、あの小屋に連れ込まれ転がされている。だが、寒くはない。
小屋の内側に、真っ白な天幕が張られていたからだ。
何重にも張り巡らされた純白の帳が風を防ぎ、クッションの役割も果たしている。ふわふわとそれは温かく柔らかい。
土蜘蛛の、とくに女衆が得意とする野営用のテントだった。
ネスト、つまり巣、と呼ばれるそれは薬品調合から得られる繊維を利用したものだ。軽くしなやかで破れ難いが、特殊な薬液を振りかけるとたちまち揮発するように溶け消える。野外、あるいは地下世界での任務、追跡行に赴く野伏たちが心身を維持するために使う仮の宿だった。
そこにイズマは連れ込まれた。
エレと、その外套の奥に厚みを消して潜んでいたエルマの姉妹によって。
武装のすべてを剥ぎ取られ、イズマは転がる。背中には熱がある。火照った肉の感触。
小さな胸の谷間にイズマは頭を抱えられている。吸い付くような肌触りの長い両腕と脚が背後からイズマを拘束している。
いや、その尖端は千々に乱れた糸になり、文字通りイズマを縛りつけていた
どくりどくり、とイズマはそのあまやかな拘束者の鼓動を聞く。
「やっと、やっと捕まえた。イズマ、イズマの匂い」
感極まったその声はエルマのものだ。マヒした身体でも、頭髪を嗅がれたのがわかった。
「もう、絶対離さないのだから」とエルマは言った。
「エルマ、あまり甘やかすな。そいつは甘やかされるとされただけツケあがる、そういう男なんだ」
「いいえ、姉様の命令でも、これだけはきけません。甘やかします、甘やかし過ぎます、お砂糖とはちみつと、チョコレートのお鍋で、とろっとろになるまで煮込んでさしあげますの。もとの自分のカタチがわからなくなるまでー」
はあっ、と自らの妄想に酔ったようにエルマが甘い吐息をついた。
「でも、その前にエレ姉様がなさりたいことをするのだと仰るのなら、エルマは待ちますがまんしますしんぼうです――たまりません」
エルマの熱い舌が耳朶を舐め、しゃぶったが、イズマに感じられたのは心の痛みだけだった。清楚で内気な少女だった。いつまでたっても赤面する癖が抜けなかった娘だった。
心を壊されてしまったのだ、というエレの言葉に偽りはなかった。
ただ、献身的で一途な愛の発露だけが病的にねじ曲げられて表出していた。
転がされ、毒に侵され、拘束されたイズマの肉体をエレが跨いだ。
明かりなどなくても土蜘蛛は夜目が利く。エレの美貌が紅潮しているさままではっきりと見えた。相手からもイズマの表情は手に取るようだろう。
「殺さないのかい?」
イズマは静かに訊いた。
「それは、いつでもできる」
エレの言葉は硬質だったが、どこかに震えがあった。好いた娘との一夜に高揚を押さえきれない少年のように。
「じゃあ、どうするのかな?」
「考えることは同じさ、イズマ……これを……使わせてもらおう」
エレがあの〈傀儡針〉を取り出した。劣化コピーである消耗品とは違う。イズマの持ち物――オリジナルのそれだった。
「オマエには手駒になってもらう。
たしか夜魔の姫が一緒にいるのだったな。その娘を縊る手伝いをしてもらう。
いや、むしろオマエに縊ってもらう。ずいぶん入れ込んでいるそうじゃないか。
オマエのその女と見ればどこからでも湧いてくる愛の代償だ。心が壊れるとはどういうことか、たっぷり味あわせてやる」
夜魔の姫が携えるという聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉で、斬られるようならそれまで。皮膚がただれ落ち、骨を焼き抜かれるような苦しみだというぞ。
「存分に味わえ」
ふくくっ、とエレは笑った。
「やめろ、エレ」
「しばらく見ぬうちにとんだ腑抜けになったものだ。それともあれか、わたしたちがオマエをはるかに凌駕してしまったというわけか?」
極めて細い〈傀儡針〉だが、その長さは四分の一メテルもある。それをエレは自らの舌で濡らした。パーソナライズの一手順だ。イズマが言った、あまり使い込んでいないというのは本当らしい。強力な《フォーカス》には珍しく素直な反応だった。
そしておもむろにイズマの心臓の真上にそれを突き立てる。
ぐっ、とイズマは唸った。だが、身体は動かせない。《スピンドル》も回せない。
「ほらほら、入るぞ、入ってしまうぞ」
ふくくっ、とまたエレが笑う。エルマは気が違ったようにイズマの耳朶をしゃぶり続けている。
「やめ、るんだ、エレ。そんなことをしても、キミたちは救われない、よ」
イズマの必死の呼びかけにエレの眉が跳ね上がった。
「夜魔の娘を始末し終えたら、こんどは我が神:イビサスを貴様がどこへ隠したか吐いてもらうさ。そうしたら、わたしたちは凱旋将軍だ、神を取り戻した姉妹だ。すべては望むがままさ」
まずは手始めに、わたしを、エルマを仕込みと称して嬲り尽した連中の陽物と乳房を片っ端から切り落としてやる。エレは吠えた。
ずぶり、と針が押し込まれた。あっという間に半分。ぐううううっ、イズマの唇の端から唸り声とともに唾液が滴った。
「いっしょに、いこう、エレ、こんどはっ、手放さないっ」
イズマが喘ぐように言った。
「そのような甘言に躍らされるようなわたしだと思うのかっ。昔の、男を見る目のなかったあのころのエレヒメラと同じと思うなッ!!」
「強引にでも、連れて逃げる、べきだったんだ。ボクが悪い、だ、だから、ボクへの復讐は、しかたのないことだ、正当な権利だ、でもっ、でもっ、お願いだっ、エレ!」
「うるさあああい!!」
イズマの説得を降り切るように、エレは一気に針を押し込んだ。
號、と《スピンドル》が渦を巻き、オリジナルの〈傀儡針〉:〈カランドゥ〉がその効果を現しながら、イズマの肉体に沈み込んで行った。
あく、と呻くイズマの上にエレが跨がった。
その胸ぐらを掴み、首筋に顔を埋めた。狂おしく噛んだ。血が流れるほどに。
「どうだっ、どうだっ、イズマッ! これでッ、これで貴様は、わたしたちのものだ。永久に、永劫にッ!!!」
エレの昂ぶりに呼応するようにエルマの愛撫も度を増してゆく。
輪唱のように、壊れてしまったふたつの心が耳元で囁くのをイズマは聞く。
「わたさない。だれにもわたさない。貴様、オマエ――あなたは、もうずっとずっとわたしたちふたりだけのものだ。離さない、逃がさない、どこへも行かさない」
「ずっとずっといっしょです。昼も夜も愛しますし愛させます。繋がって絡まり合って、ほどけなくなるまで、むしゃぶりますし、むしゃぶってもらいたいのです」
エルマの瞳から流れる涙と唾液にイズマは溺れる。
そのイズマの首筋に噛みつきながら宣告するエレは、その双眸から熱い液体が止めどなく流れ落ちていることを、たぶん知らないのだろう。
姉妹は繰り返し繰り返し占有を宣告するのだ。
もう二度と、離れない、離さないと。