すっかり日の落ちてしまった秋の道を踏みしめてネロは行く。
すこし張り切りすぎてしまったな、とかじかんだ手に息を吹きかけて。
法都・エクストラムを見下ろすこの荒れ果てた丘、フォロ・エクストラーノを覆う野草の群れは踏みしだくと強く香る。
ネロの手に明かりはない。
陽が落ちきる前に摘みきるはずだった葡萄の収穫に、思いのほか手間取ったせいだ。
ワイン用の葡萄の収穫は、どんなに遅らせても九月のなかごろまでに終わらせなければならない。完熟した葡萄の実は、秋の冷たい雨に当たるとはぜる。皮が割れる。
そこから急速に腐敗する。
どうせ、ワインになるんだから同じじゃないのか——そう思うヒトたちにこそ、ネロは知ってもらいたいのだ。
そんな葡萄で造ったワインは——誤解を恐れずに言う——まったくダメだ。
性根の腐った味がする。不潔な匂いがどこまでもつきまとう。
だから、収穫までの数日を農民たちは祈るような気持ちで畑を日にいくども見回る。
だから、いま、十月の半ばまで収穫を遅らせていたネロの行いは、事情を知るワイン農家の人々からすれば一種の狂気だ。
しかし、勇気ある狂気だと、彼らは褒めてくれるだろう。
なにしろ、葡萄を樹につけたまま腐らせるのだから。
貴腐、という言葉を知っているだろうか?
貴く腐るという字の通り、それは退廃的な行いを示す言葉だ。
完熟し手に取れば落ちてしまいそうな最高の葡萄の実を、摘まずに、あえて樹に残す。
そうして、腐らせる。
ただの腐敗ではもちろんダメで、そして未熟な葡萄ではまったくだめで、熟しきった糖度の高い葡萄の実に繁殖する特別なカビだけが、その奇跡を起しうる。
カビは葡萄から水分を奪い取り、その内側で糖度を限りなく高めていく。
その過程で一度でも雨に打たれたなら、もうだめだ。
すべての努力と忍耐は水泡に帰す。
朝露はいい。霧も望ましい。そして陽光と、風。
そのほとんどカラカラになってしまった葡萄で醸されたワインだけが——黄金に輝く最高の甘口ワイン——貴腐ワインとなるのだ。
セレクション・グラン・ノーブル——選良された・偉大な・高貴の。
それが貴腐ワインにつけられる称号だ。それも当然だとネロは思う。
ネロもこのワインに挑戦できる日が来るとは思ってもみなかった。
実家の農園では恐ろしすぎて試せなかったのだ。いま収穫すれば最高のワインになるであろうことが確実な葡萄の実を、あえて摘まずに、気まぐれな天気に祈りながらじりじりと一月以上も待つ焦燥感を、おそらく都会の人間は想像できないだろう。
それは今年の収入をふいにしかねない賭けなのだ。
恐れもなく、それを試せたのはこの葡萄たちが自生で——もっとも、見出してからすでに七年近くネロは手を懸けてきたのだが——あったからに他ならない。
摘むべきか、摘ざるべきか——この一月、本当に葛藤した。
けれどもそのたびに、メルロの笑顔が脳裏をよぎり、じっと歯を食いしばって我慢したのだ。
それでようやく決心して、この夕方に摘みはじめた。
陽光や高温は葡萄を急速に傷めるからだ。
本当は明け方が最適なのだが、どうも天候があやしい。
今日しかない、と見切った。
葡萄は、手かご一杯に取れた。
だが、たぶん、これぜんぶを使っても一瓶を満たせないだろう。
よし、とネロは心を決めた。
混醸だ。いま、醸している今年のワインと合わせよう。
ワインに浸けてこのカラカラをもどして……そこからさらに醸す。
糖度を継ぎ足されるカタチになるから、醸し上がりでは、アルコール度数はあがるはずだ。ねっとりとした喉ごしを得られるはずだ。
そして、いつか、いつかは完全な貴腐ワインをメルロに——同じくワイン狂いの同志である愛しい夜魔の姫に——飲ませてやるのだ。
ワインの神が、それをネロに赦したもうたなら。
そのとき、決意したネロの足元を照らすように、満月がゆっくりと丘を登ってきた。
欠けたところのない満月の、あまりの大きさ、見事さに、ネロは足を止め、見入った。
だから、いつのまにそれが現われたものか、ネロには知覚できなかった。
気がつけば五メテルの至近にそれがいた。
巨大な——それこそ人間と同様の体躯を持つ——白銀の狼がそこには居座っていた。
「死んだ」とネロは思った。
人間は犬には勝てない。狼ならなおさらで、こいつはサイズの面ではるかにその上を行く。その顎門に捕らえられたら、ネロの首の骨など一撃でへし折れる。
実家にいたころ、知り合いの酪農家が狼にひどい目に遭わされた。
大きな古狼が一頭、その群れを率いていた。
毒殺も、罠も効かない。番犬たちは巧みに誘い出されて、行方知れずになった。
結局、領主と騎士団のお出ましとなり大規模な巻き狩りが行われ、数ヶ月に渡る掃討作戦のすえ、メスを捕らえて罠をはり、完全武装の騎士数騎がかりで槍で仕留めた。
だが、その後も死んだはずの古狼の遠吠えが秋になれば聞こえるのだ。
森の魔物だ、と農民たちは囁きあったものだ。
その再来のような巨大な狼がいま、ネロの眼前にいた。
唸り声もあげず、内側に氷の結晶を住まわせたような瞳をじっとネロに据えたまま。
いっそ、素直に噛み殺されたほうが楽かも知れない。
そんな諦念が頭のどこかでささやいた。
「いや、だめだ」
と自分のどこからそんな感情が湧いて出たものかわからず戸惑いながら、ネロは身構えていた。
「こいつに殺されるのは簡単だが、そのあとこいつはどうする? オレを殺したら、次の獲物はメルロに決まっている」
そんなこと、させるか!
かっと腹の底が熱くなり、恐怖を激情が上回った。ふらふらと焦点の定まらない生き方を不本意ながら続けてきたネロだったが、ことメルロのことだけは別だった。
「オレのワインを飲みたいって——言った!」
胸のうちでメルロの声を反芻し、相打ちを覚悟なら、せめて人類を襲うのをあきらめるくらいの手傷を負わせられるのではないか、という気にネロはなった。
収穫に使ったナイフが腰に手挟んである。
それにネロは落第とはいえ、異能者だった。
異能の始動キーである《スピンドル》を通せば、その後一撃で砕け散るとはいえこんなちっぽけなナイフでも、岩を突き通すほどのエネルギーを集められる。
いや、とネロは思い返した。
葡萄は——貴腐葡萄ならどうだ?
一昨年の春、メルロと出会ったころ、ネロは初めてこの丘でゴブリンと遭遇した。
それはネロの属していた従士隊が、ジャグリルズ——残留思念に汚染された土地——の影響を受けて、変異したものだった。
彼らを救うため、ネロは自作のワインに《スピンドル》を通し、土地そのものまでも浄化した。
まさかワインが——《スピンドル》の導体となるなど——賭けもいいところだ。
「それはおぬしの酒に込められた夢の美しさのせいじゃ」
とメルロは断言した。
気恥ずかしいセリフだったが、正直、涙が出るほどうれしかった。
人生の坂道を転落しきった先で、救われたような気がしたのだ。
「問題は……この、加工前の葡萄で効果があるか——だけど」
決意に固めたまなじりを狼に向けた瞬間だった。
息のかかるほど近くにそいつがいた。
どん、と押し倒された。
回想しているような時間は実戦には存在しない。
わあ、と情けない悲鳴をあげてネロは組み伏せられた。
なぜか狼からはスミレの花の薫りがした。
やられるっ、とネロは目をつぶり、本能的に両手で顔をかばった。
くんっ、と嗅がれた。獣の吐息を首筋に感じた。
そして、最後の瞬間が——いつまでたってもこなかった。
がさり、と狼がネロの手かごに首を突っ込んでいた。
はくっ、と一房だけそいつがかごから貴腐葡萄を取り出した。
ネロはその光景を呆然と見守った。
まだ、まだ、オレはなにもしてねえ、と。
風切り音とかごが突き破られる破砕音は同時だった。
重金属で造られたロッドのごときものが飛来し、狼の鼻面を打ち据えようとしたのだ。
メルロか、と一瞬ネロは思った。
だが、続けて駆けつけた足音はメルロのものにしては重すぎた。
甲冑の擦れ合うような音。
狼は跳び退り、踵を返すとあっというまに闇に紛れた。
「逃したか」
駆けつけた人影が発した声は女の物だった。
「だいじょうぶかい、キミ?」
狼を追いかけ、無駄と見るや、女はすぐに駆け戻ってきた。
「あ、ああっ」
女の掲げたカンテラの明かりに、地面に転がった貴腐葡萄が映し出された。
ネロは地べたに這いつくばり、それを必死にかき集めていた。
「ケガ……は、ないようだね?」
女の安堵したような、あきれたような笑いも気にならなかった。
「送ろう」と言われ、ネロはすでに周囲が闇に没していたことに気がついた。
だが、フォロ・エクストラーノの丘の上——満月の晩はことさら明るい。
歩いて帰るだけならネロはその申し出を丁寧に辞退しただろう。
けれども、先ほどのようなバケモノがこのあたりを跳梁跋扈しているのなら、話はまったく別だ。
それに、満月に照らし出された女の美貌も、その申し出を受けるのに一役買った。
ぞくり、と背筋が寒くなった。
メルロがまだ固いバラの蕾なら、その女は開ききり糜爛する直前の大輪の百合を思わせた。
南国の果実のように酔っぱらうほど香りが強く、めしべに花粉を一杯に着けた。
それをわざとキツイ衣装で縛り上げ、束縛して、保っている。
そんな——倒錯。
実際、ネロは立ち上がった瞬間によろけ、女に抱き止められた。
マントの奥、レースとシルクに包まれた柔らかな物体に顔を突っ込んだ。
魅惑のトロピカル・フルーツにネロは溺れそうになった。
「キミっ、大丈夫か? 頭を打ったのではないか?」
「これっ、これっ、これはっ!」
「いけない。安静にしなくては」
女はネロのハラスメント行為や我が身の貞操などまったく眼中にない様子で、ひたすらネロの身を案じた。おかげでネロは脱しかけた南国果実の大海にまた呑まれそうになる。
「いや、あのっ、いけませんっ!」
とまるで生娘のように女を突き放したのはネロのほうだ。
その瞬間、がさりっ、と草原が鳴った。
むっ、と女が右手に鉄仗を掴み、左手にカンテラを突き出してかざし、ネロは跳び退り女からも距離を取った。
少女がその明かりに照らし出された。
その手には鞭が握られている。
「ネロ」
と震えながら少女は言った。怒っているのか、それとも恐怖のためか、その身体は硬く強ばり、うつむいていた。かさり、と鞭の尖端が枯れ草に鳴った。
ネロの身体は、だが、反射的に動いていた。
メルロが無事だった。
そのことだけでネロの頭は一杯になってしまったのだ。
「失礼した。わたしは西ガレリア地区(ダウンタウン)で医師を努めております、フレアミューゼルと申します」
「こちらこそ……とんでもないところを、お見せして——レディ・フレアミューゼル」
「どうか、フレアと」
「では、フレア。なにもないところですが——ワインなどいかがですか」
ネロはラベルに手書きで年数と本数しか書き込まれていない自作のそれを、フレア持参のゴブレットに注いで寄越した。
「願ってもない——いただきます」
言いながら焚き火の対岸でフレアは微笑んで見せた。
たぶん二十代後半から……三十の中ぐらいのはずだ、とネロはあたりをつけた。
だが、とんでもない美人のせいで年齢がよくわからない。一本一本が太い質の黒髪を引っ詰めにし、探索用のきっちりとした衣装、さらに眼鏡をかけているせいで年齢が上がって見えるが、髪を下ろしてフェミニンな衣装を着たら、たぶん十代の娘で通ってしまう。そんな不思議な印象の女性だった。
「ロクなものはないが——そのワインだけは保証する」
と、どこかぶっきらぼうにメルロが言った。
あぐらをかいたネロのヒザを離れようとはせず、眼前の貴腐葡萄の枝や茎を丁寧に外しながらフレアを見ようともせず言った。
「や、これは——うまい。ほう……変わった品種だ。地場のものですか?」
フレアの質問に思わずネロは反応してしまう。
「あ、はい。葡萄品種を特定するのは限りなく難しくて——たぶんサンジョベーゼ種、モンテ・プルチャーノ、それからすこしだけ……カンノナウ……、あとちょっとだけ、赤ワインなんですけど……じつは白ワインの品種も……混ぜて……いや、混ざってます!」
「白葡萄——この香り——グレコ・ビアンコ?」
「すごいっ、ああっ、そうか、これはグレコ・ビアンコか!」
ネロの素直すぎる反応に、フレアは目を丸くした。
「醸造家が教えられて目を剥いておっては、もてなされる側が恐縮してしまうわ」
ぽつり、と不機嫌にメルロが言い、ひきっ、とネロの笑顔がひきつった。
だが、そのセリフがフレアにもたらした化学変化は劇的だった。
「醸造家! まさか、このワインは——それじゃ、キミが——《スピンドル》をワインに伝導して使ったという!」
ああ、一度お会いしてお話したかったのです、とフレアは笑みを広げた。
なんだか、自分は予期せぬ方向で有名になりつつあるのだな、とネロは思った。
「そうとも、こやつが未来の天才醸造家にして、世にも珍しい“葡萄酒使い(タストヴァン)”のネロよ」
ツンッ、とした雰囲気で目の前の貴腐葡萄を素早く選りながらメルロが言った。
わし自慢の夫を知らなんだのかっ、と言わんばかりに。
「失礼しました。例のジャグリルズ浄化法のくだりから、立て続けに事件解決をこなしてきた歴戦の兵とは知らず、よけいな真似をしました。なんだ……そう知っておれば、もうすこし……」
「盛装し、籠絡の手だてを調えてきたのに?」
「はい。じつは」
メルロの棘のある合いの手をものともせず、フレアは笑った。
横座りになったスカートの端から、太股までを覆う革製のロングブーツとスカートの間が見えた。
「無駄じゃぞ。こやつは重度のロリコンでな。おぬしのように、熟れきった女では欲情せん」
だから、毎晩、犯罪すれすれのこやつの毒牙をわしひとりで受け止めておる。
「才能ある人間が、すこしくらい奇矯な行動を取るのはしかたないこと。天才にとって凡才の規定する常識的な世界は狭すぎるでしょうから」
「とんでもない場所で愛されても?」
「それは——じつに興味深い体験です。けれどもわたしは許容しますよ。夫になら」
「鞭はどうじゃ」
「するのですか? されるのですか? でも、愛したヒトになら従います」
「嗅がれるのは? それはもう、しつっこく、くんくんと」
「かわいい。すごく母性をそそられますね」
にこにこと受け流すフレアの笑顔と、獰猛な笑いを広げたメルロの間でネロは乾いた笑いを発した。
天才は持ち上げすぎで、変態あつかいは底なしにひどくなっている——たぶん、それがいまのネロの裏社会的評価だ。
「それで、あの狼ですが」
なんとか話題を変えたくて、ネロは言った。ぐびり、と去年仕込こんだワインを飲む。
味が——しない。緊張で。
だが、その単語には絶大な効果があった。
すっと、フレアが居住まいを正し、ことの次第を説明しはじめた。
※
「白衣医師団・人狼病撲滅推進委員——な」
ふうん、とうろんげにメルロは鼻を鳴らした。
ネロはその手に焚き火の燃えさしを握り、さっきまでしきりに振っていた。
帰路につくフレアを見送るためだ。
「送りましょう」
というネロの言葉は、最後まで発せられることはなかった。
背後で巨人ゴリアテのごとき立ち姿になったメルロが、「ふんっ」と大きく鼻息をついたからだ。
「まさか、わしを留守番に残して、その女の家まで送ってやろうとか、いうのではあるまいな、うちのご主人様は」
そんな副音声がはっきりと聞こえた。
完全に思惑を見抜かれ、ぎこちない動きでネロは振り向き「まさか」とひきつった笑いを見せるのが、精一杯だった。
メルロの指摘がまったくの正論だったというのもある。
当然メルロひとりになどするつもりはなく、ふたりで送って——とは考えていた。
だが、たしかに留守の間に狼に蔵に入り込まれたら、と考えると震えがきた。
通路の暗がりから不意打ちを受け、自宅で殺されるなど考えたくもない。
おちおち眠ることもできなくなる。
「送っていきたいところなのですが……」
そういうわけで、男としては相当にふがいなくも、我が身と家内と我が家の安全を第一とする旨をネロはフレアに伝えた。
「とんでもない」
としきりに頭を下げるネロにフレアはかぶりを振った。
ネロが彼女をエスコートしようと考えてくれていたのを知り、逆に恐縮された。
「夜分に来訪も予告せず、お邪魔しただけでも失礼なのにお食事とワインまでご馳走になり、恐縮するのはこちらのほうです」
育ちのよさをうかがわせる口ぶりで、フレアは言った。
それから、連絡先を記した木札をネロに渡した。
掌サイズの焼板に、焼きごてで判づきされたそれは小さな穴が開けてあり、ご丁寧に木綿の撚りヒモが通してあった。
「白衣医師団?」
なんだっけ、これ、とつぶやいたネロの手元からその札がひょいと抜かれた。
「どっかの宗教騎士団が経営母体を為しとる施療師のネットワークじゃったな」
よくご存知で、とフレアはメルロに微笑みかけた。
「医療体制の整わぬ寒村や辺境に出向いて、異能に依存しない動植物、鉱物などの自然物から造った薬で人々を病から救おう、という主旨の団体じゃったな」
近年、急速にその勢力を拡大してきたが、たしか、宗教改革に乗り出した現法王とは意見対立が起きていたのではないか?
メルロの見解に、フレアは感嘆の溜息をついた。
「そうなの……か?」
「ネロ、おぬし、もう少し社会情勢に耳を立てておけ」
「メルロ、オマエいつの間に」
「いっつも、おぬしの抱き枕を務めておると思うたら、大きな間違いぞ」
ふたりのやりとりにフレアが吹き出し、なにかありましたら、と挨拶して立ち去ったのは、その直後だった。
「しかし、あの女の言うことが本当なら、これはちと厄介じゃな」
焚き火の炎に焼板をながめすがめしながらメルロは言った。
「人狼病か。たしかに、まずい」
白衣医師団のフレアが告げていった内容を要約すれば以下のようになる。
人狼病——主にイヌ科の動物を媒介にして人類にも伝染するこの病は、実際にはすべてのホ乳類への感染が確認されている。風邪とよく似た症状から、水を嚥下するときに強い痛みを感じるようになり——恐水病とはこのためについた別名だ——やがて、風や陽の光を恐れるようになって、極度に興奮、精神錯乱の果てに、犠牲者は全身マヒから昏睡に陥り、呼吸困難で長くとも一週間以内で絶命する。
その致死率は、ほぼ100%。決定的な治療法は、ない。
唯一、《スピンドル》能力者の行使する異能により病魔を実体化して撃退できればそのかぎりではない——という可能性は残されるが病状の進行が速く、また人狼の病魔は大変強力なため試みた《スピンドル》能力者が破れる場合も、ままある。
野生の狼は、この時代その感染源と見なされており、狩られる運命にあったのだ。
「あの大狼は——そのキャリアーである可能性が非常に高い。近ごろ、この周辺で目撃例がありまして——密かに追っていたのです」
フレアはネロの肉体を丁寧に診察し、ケガのないことを確認して安堵の溜息をついた。
「よかった。もし、噛まれていたら、その部位を切り落とさねばならぬところでした」
人狼病は唾液や粘膜接触で媒介されるが、その進行は遅く、それより早く患部を切断すれば助かる例もあるのだという。
「や、ちょっとまって、じゃあ、この貴腐葡萄——」
「ネロ。おぬし《スピンドル》能力者じゃろう。鑑識してみい」
メルロが言いながら無造作にその粒をひとつ、口に放り込んだ。
それから声を漏らした。
「ああ、狂いそうじゃ——旨くて」
この葡萄、わしのために見守ってくれておったのだろう? 冷ややかな表情なのに、その頬が月明かりの下で桜色に染まっているのをネロは見てしまった。
「安心せい。たちの悪い病魔など憑いておらぬよ。この葡萄にも、おぬしにもな」
そうか、と安心し、ネロはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「なさけないことよ」
「安心したら——腰が抜けた」
こつん、とその頭に軽く拳骨が落ちてきた。
「いつまでへたり込んでおる。今晩中に貴腐葡萄を酒に浸すのだろうがよ。はようせんと、明日は雨じゃぞ! 葡萄も、刻一刻と痛みおる!」
もはやどちらが親方かわからぬ気合いの入りようでメルロがネロを急かした。
「あ、あい、マム」
「そうじゃ、そうじゃ、働けい! わしの旨酒のためじゃ!」
四つん這いで、それでもやるべきことを思い出し蔵に向かうネロを、メルロはたまらなく愛おしそうに見るのだ。
傘をかぶった満月だけが、その様を見ていた。
※
翌日はネロの読みどおり、そして、メルロの言ったとおりの雨だった。
法都・エクストラムの座す、このイダレイア半島では降雨は秋から冬に集中する。
「あぶなかった。あと一日遅らせてたら、完全にアウトだった」
「おぬしへの葡萄への愛、ひいてはわしへの愛の賜物じゃな」
「う……言い返せない」
蔵の内には、たまらない芳香が満ちている。
ネロお手製のまだ未成熟なワインに昨夜の貴腐葡萄を一夜つけ込み、十分に水分を吸い込み戻ったのを確認してから、いま、再圧搾の最中なのだ。
もちろん機材も近隣の農家から下取りした物にネロが手を加えた特別製だ。
なにより、その圧搾機の目玉は葡萄の粒を優しく潰す部分にある。
たぶん、こんな贅沢な道具でワインを造ることは他の男にはできまい、とネロは思う。
丈の短い貫頭衣一枚で、月の女神のように微笑み、はにかみながらその素足で葡萄を搾るのは他の誰あろう——メルロテルマ——夜魔の姫だ。
「どうした——ネロ、おぬし、ぼうっとして? 寝不足かや?」
「いや……すまん。その……ごめん。——見蕩れていた」
メルロが、あんまり、きれいで。
いけないとわかっていても、輝くように白いその素足にネロの目は釘付けになる。それに、ことワインに関する事柄について、ネロは嘘も世辞も言えない気質なのだ。こんなことを言えばつけ上がるとわかっていても、メルロを称賛する言葉が自然に出てしまう。
「えっち」と裾を押さえ照れて見せながらも、メルロにも嫌がっている様子はない。
はにかんだ笑顔が返ってくるばかりだ。
葡萄を搾り終え、ワインと混合された果汁を樽へ戻し、ネロはその搾りかすをまた別の小樽に移した。
「? そんなもの、どうするのじゃ?」
「これはこれで醸す。あとで蒸留して、グラッパ——粕取りブランデーにするんだ」
ぱあああああっ、とメルロの顔が輝いた。
「おぬし、天才じゃのう!」
「農民はどんなものでも無駄にしないものさ」
「では、これもそうしたほうがよかろうな」
ネロに抱きかかえられ背の高い椅子に腰かけ、メルロが脚をあげた。
ワインと貴腐葡萄の細片に染められ濡れてその両脚が光っていた。
「あ、ああ、そう……だろうな」
「ご苦労じゃが……無駄にしないでくれるかの? ……エコじゃ?」
「わかった。だよな……無駄はよくないよ、な。エコ、エコ、エコ……」
ネロは騎士のように跪いた。メルロが足先をその口元へ近づける。
そっ、とその爪先にネロは口づける。
ぞくぞくぞくっ、という感覚にメルロは指を噛んで、背を反らせた。
「ん」と甘い声が漏れる。
ゆっくりと唇と舌だけでネロは「無駄」を取り去ってゆく。
「どう、かの。お味のほうは」
「あ、あたまが、痺れるくらい、おいしい」
ふたりは、そんな倒錯的な「倹約」にけっこうな時間、躍起になっていたせいで蔵に下りてきた来訪者に気づかなかった。
どさり、となにかが落ちる音がして、それでようやくふたりはその来訪者に気がついたのだ。
若い男がいた。
ふたりのあまりに濃密な「倹約」に目が釘付けにされてしまって。
んー、これは掲載OK?
みたいな感じのM・S・R第二話:ボーン・トゥ・ビー・ワイルド——前編
ですが、いかがでしたか?
すっごい甘味で始まりましたが、じつはこの話、かなりビターな味わいなのです。
手紙の代筆、という「シラノ・ド・ベルジュラック」から頂いたネタをモチーフに
ファンタジーの薫りを効かせた「悲恋もの」です。
また、今回は特にワインの醸造についての描写が多くなっています。
さらに詳しい方からの
「この温度と日数じゃあ、第一次発酵しか終わらんじゃん!」
「セレクション・グラン・ノーブルってフランス語だろ!」
という極めて厳しいご指摘に関しましては、その通りでございます。
ま、だからといって改めるわけではないのですが。(ヲイ!)
では、次回ボーン・トゥ・ビー・ワイルド中編でお会いしましょう!