いかにすれば人体がそのような姿になるものか、シオンは知らない。
そこは急峻な峰々を侍従とするイシュガル山の麓に建立された小さな祠だった。
そのつつましやかな祠の奥に聖人は鎮座していた。
生きながら食を断ち、身を清め、即神仏となった男の瞳がシオンを見下ろしていた。
死体であるのにシオンは嫌悪を感じなかった。
むしろ崇高な理想に殉じた僧侶に対する畏怖が背筋を正させた。
死者の視線には、慈愛さえ感じられた。
夜魔の王——真祖のひとりであるガイゼルロン大公——スカルベリ・ベリオーニ・ガイゼルロンの所領、その国境をなぞるように走るイシュガルの山麓は、同時に夜魔たちの狩猟場でもあった。夜ごと繰り返されるワイルドハントの獲物は、運の悪い旅人や貴重な野禽を追って迷い込んだ猟師と相場は決まっていた。
到底、ヒトの赴くべきところではなかった。
だが、教化のためか、あるいはこの地の平穏を祈るためにか、僧侶は単身、この異境の地に足を踏み入れたのだ。危険を知らなかった訳ではあるまいに。
そうして奉じる神こそ違えど、聖人に列挙されてしかるべき男がいまもうひとり、息も絶え絶えにしてシオンの膝上に頭を横たえていた。先人の遺体に見守られて。
ルグィン・ラディウス・パルディーニ。
それが男の名だった。
数年前までなら、イクス教の枢機卿候補にその名を見ることができただろう。敬虔で民衆から慕われた徳の高い本物の聖職者だった。
いまでは異端として破門され、審問官たちにつけ狙われている。
圧政者であったある夜魔の王のひとりを葬るため、シオンと共闘した咎で、だ。
「囲まれたようだな」
ルグィンが口を開いた。両目に巻かれた包帯に血が滲んでいたが、その声は飄々としてどこか楽しげだった。
「やつらにこの聖域へ足を踏み入れる度胸などないよ。……すこし眠るがよい」
わたしが見守っていようから。シオンは無意識にルグィンの髪をかいぐっていた。
「オレはもうダメだ」
まるで明日の天気を話すような口調で言うものだから、シオンはおもわず同意しそうになって口を噤んだ。
「重要な臓器がいくつもやられているし、毒ももらっている。傷封じの貴石は使い切ってしまったし、霊薬(エリキシル)もない。《スピンドル》も回せない。お手上げだ」
淡々と分析する内容が自身のことでさえなければ、冷静な男だとだれもが評しただろう。
シオンは言葉に窮した。胸が詰まって言葉が出ない。
こんなことは三百年の生で初めてだった。
「シオンザフィル、冷酷で鳴らした夜魔の王、その姫君がどうした? 同情でもしているのか?」
傷が痛むだろうに、ルグィンは笑って見せた。
気づかわれているのはわたしの方だとシオンは気づいた。
「そなたは口から生まれてきたに違いないよ」
「説教だけが取り柄でね。司教だけに……」
くすり、とシオンは笑った。それでいい。ルグィンはつぶやく。手を差し上げる。シオンは頬に触れるルグィンの指を避けようとはしなかった。大事なものを預かるように自ら導いた。
「いまは眠れ」
「オマエと話したい。眠ってしまったら、もう……目覚めない気がするんでね」
その分析は正しい、とシオンは思った。
個人の評価や現状の分析に感情を交えたりしないのが夜魔というものだ。そうして、ルグィンが言うようにシオンは夜魔の姫だった。スカルベリの第一王女。
王位を継ぐのに性差など関係ない夜魔においては紛うことなき嫡子だった。
その徹底した能力主義・現実主義の権化たる夜魔の王女が動揺していた。
この男を失いたくない。
胸を穿たれるような衝撃にシオンは震えた。
しらず、ルグィンの首筋に牙を埋めようとしている自分がいた。
「だめだ」
目など見えないであろうに、ルグィンは言った。
その声は優しく、シオンをいたわるようだった。それでシオンは我に返った。
「すまぬ。……赦せ」
「不死者たる永遠生、その苦しみから同胞を救いたい、と言ったな? シオン、だったら親父さんと同じ轍を踏んじゃあダメだ」
シオン、と初めて愛称で瀕死の男は彼女を呼んだ。ぼろり、と大粒の涙がこぼれて落ちた。それはとめどなくあふれてきて、シオンは声を殺すことしかできなくなってしまった。
「すまぬ」
もう一度、それだけ返すのが精一杯だった。
「オレこそ、最後までつきあえなくて悪かったな」
ごうごうと風の鳴く音がした。嵐の晩になるのだろう。祠に籠る蜜蝋の香りが、黄泉路へ旅立とうとする男を悼むかのようだ。
シオンは天を仰いだ。そうして涙を止めようとした。ルグィンの意を汲んだ。
笑っていろ、とこの男は言うのだ。辛気臭い末期はごめんだ、と。応えてやりたかった。
「心残りはないか」
だから努めて平静に訊いた。ルグィンらしい返答がきた。
「ありすぎる」
「そなた、坊主のクセに邪念が多いぞ」
シオンは笑った。それから言った。
「ひとつぐらいなら、叶えてやろうかと思ったのに」
なにか、ないのか。シオンは訊いた。ルグィンは神妙な顔をした。それから言った。
「シオン……オマエを抱いときゃよかった」
一瞬、シオンは呆然とした。それから火が出るほど赤面した。
重傷の男を殴るわけにも膝枕を外すわけにもいかず、オロオロと動転した手が空を切った。
「冗談だ」
にやり、とルグィンは笑い、その直後に吐血した。血に溺れ、苦痛にのたうつ。そうしながらもシオンに呼びかけた。
「オレが死んだら、オレの剣を、オマエに預けたい」
言いながらルグィンは壁に預けてあった剣を指さした。
ぞ、と全身が総毛立つのをシオンは感じた。
それはこの祠の主、即神仏となった僧侶から感じた畏怖とは別種の恐れだった。
純粋な恐怖。
夜魔の眷族は触れただけで皮膚がただれ落ちる武具がそこにはあった。
聖剣・〈ローズ・アブソリュート〉。
気高き薔薇よりもなお完全な、真実の薔薇。
甘美なその名からは想像だにできぬ凶悪なシルエットがそこにはあった。
尖端に向かって広がる大剣は、その名の通りバラの花弁を吹き寄せて作ったような形をしていた。いくつもの刃を繋ぎ合わせてやっとひとつの剣の形にこしらえた、そういうフォルムを有していた。ひび割れ、壊れかけたようにも思えるそのブレードは、しかし、その実、一枚一枚が冷酷に計算された対不死者専用の兵器だった。
不死者との戦いでは定命の者同士の間で起こる闘争の常識を捨て去らなければならない。
どれほど鋭い刃で急所を貫こうとも、不死者は止められない。
心の臓を突こうとも、脳まで達するほど剣を突き込もうとも、ましてや大動脈を裂いた程度では傷のうちにさえ入らない。
不死者を葬るにはその肉体を最低でも切断・両断してこそ意味がある。
いや、それでさえも上級の夜魔となれば生ぬるい。
信じ難い速度で復元される肉体をなんらかの方法で阻害せぬかぎり、夜魔を滅することはできない。
シオン自身がそうであるからわかるのだ。
夜魔の王族を屠るには、ただごとならぬ準備が必要だった。
しかし、〈ローズ・アブソリュート〉はその難事をいともたやすく可能にする。
その一枚一枚が手斧の尖端ほどもある刃を備える大剣は、触れるや否いなや、熱せられたナイフがバターを切るように易々と夜魔の肉体を切断した。
そこまでならば業物の剣と秀でた使い手であれば可能であったかもしれない。
だが、〈ローズ・アブソリュート〉の真の恐ろしさはここからだった。
切断の容易さとまったく同じように聖剣の刃は折れる。いや、正確には折れたのではない。能動的に刃を相手の肉体に残すのだ。
残された刃は組織を破壊し続ける。
抜くことは夜魔にはできない。触れるだけで溶け崩れる聖剣の断片を除去するには聖別された品に害されない誰かの助力が必要だ。
たとえば人間の。
そうやって聖剣は不死者を葬る。
折れた刃は、瞬く間に生え揃う。
だからシオンの先ほどのセリフは嘘だった。
やつらにこの聖域に足を踏み入れる度胸などないよ、という。
やつらが真に恐れたのは〈ローズ・アブソリュート〉と、その使い手だった。
そしてまた、その恐怖はシオンにもあった。
「わたしには……無理だ」
「オレが死んだことがわかれば、やつらは一気に押し込んでくる。時間がないッ!」
ルグィンは吠えた。シオンはかぶりを振った。
「触れることなどできない!」
本能的な怯えにシオンは身を震わせた。
いや、たとえ眼前に敵として〈ローズ・アブソリュート〉と対峙することとなっても、これほどの動転をシオンは見せなかっただろう。
まさか、自身がその剣を握る日さえこなかったら。
そうして、ルグィンの提案が意味するところの事実に、先回りしてたどり着いてしまうほど聡明でさえなかったら。
はたして、ルグィンはシオンの思った通りのことをした。シオンの白魚のような右手を自身の胸元に。その左手には研ぎ澄まされた短剣を握らせて。
それから言った。
「作るんだ。オレの肉体(からだ)で。皮で。グローブを。聖剣を握るための武具を!」
生皮を剥げ。オレが生きているうちに。悲鳴はオレの生存をやつらに誇示するだろう。
「急げッ! シオン!」
わかりたくない、とシオンは首を振った。
「そなたの苦しむ姿を、そなたに辱めを——拷問を加えろと、そなたは命じるのか」
「生きろ! シオン! 同胞を救え!」
いやだ。子供のようにシオンは首を振った。
「そんなことをするくらいなら、そなたと、ともに死ぬッ!」
どこにそれほどの力が残っていたのだろう。シオンの告白に、ルグィンは掴みかかり、包帯を外して応えた。眼窩に眼球はなく、血溜まりから赤黒く凝固しかけた血液が流れ落ちた。
懇願するように言った。
「オレの言う通りするんだ、シオン。……オレに、オマエを護らせてくれ。最後まで」
約束しただろう?
シオンは慟哭する。生涯ではじめて。たぶん、これが最後の。
心が砕けても構わない。わたしは、約束を果たす。誓う。故人に。
わたしは同胞を救う。
さて、ついに始まりました「燦然のソウルスピナ」第一夜。
夜魔の姫シオンとかつての英雄・ルグィンとの別離、そして、夜魔であるシオンが、
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を扱うことができた秘密が明らかになりました。
愛していたかもしれない男を失ったシオンが、いったいどのような人物となっていくのか。
この続きでは一気に百年ほども時間が過ぎたエクストラム法王庁にて
シオンとアシュレが邂逅し、アルマも登場、物語が大きく動き始めます。
では、第二夜でお会いしましょう!