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自走式空想会社:クルーシブル

二匹の空想生命体・トビスケとまほそがファンタジーを創ったり、おいしいご飯を食べたりするブログ。

M・S・R 第二話:ボーン・トゥ・ビー・ワイルド——後編

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M・S・R 第二話:ボーン・トゥ・ビー・ワイルド——後編

 アレクタール家は迎えに馬車を寄越してくれた。

「ありがたい」とネロはその好意に素直に甘えた。
 屋敷は法都・エクストラムの郊外にある。郊外といってもすぐ近くで、徒歩でも行けなくはないが、ここ数日の雨でぬかるんだ道を歩いて行けば、溝に落ちたドブネズミみたいになるのは確実だ。


 ドブネズミが騎士・シュマイゼルの正体だと告白する。

 ルシルの心にそんな傷を残したくない。

 ネロは馬車のキャビンに乗り込んだ。板バネと皮のダンパーが完備された貴族仕様の馬車の乗り心地は、農家のロバが引くそれとは雲泥の差だ。

 ネロの手には醸したばかりの貴腐葡萄入りのワインがカゴ付きの瓶に入っている。

 まだ、すこし未成熟だが、素晴らしい仕上がりだった。

 死ぬかもしれない、という覚悟で出向くネロは、自作のワインとともにあることを選んだ。せめても、ルシルに自分のまごころを味わって欲しかった。それでダメなら、しかたがない、と思うほどネロはワインを愛していた。


 そこから伝達される「夢」の強さを信じていた、と言ってもよい。


 窓から小雨のぱらつく田園風景を眺めていたネロのかたわらに、するり、と影が潜り込んだ。メルロである。ネロの影に潜んでいたのだ。

「そういうところを見ると、夜魔なんだな、と思うよな」
 ネロはメルロの頭を撫でた。くん、とうれしそうに鼻を鳴らし、メルロはネロに甘えてくる。この先、数刻は甘えられないから、そのぶんを先に、ということだろう。

「おぬし——髭をそり、髪をなでつけ、そうやって礼服に包まれていると——なかなかの紳士ぶりじゃな」

「礼服を質に流さずに持っておいてよかったよ。従士隊で夜会のときに使ってたやつだ」
「こうしてみると、なんのかんのと筋肉質なのじゃな。胸板もけっこう厚い。だてに騎士を目指しておったわけではないな」
「騎士崩れ、だよ。ほんとに。今回はそれで痛い目に遭った、いや、いまから遭う」
「傷ついた乙女の心のために我が身を危険にさらしても戦う。立派な騎士だと思うがの」
「そんなこと言ってくれるのはメルロだけさ」

 んふ、と満足げにメルロが笑い、ネロは苦笑した。


「安心せい。いざとなれば、この可憐な乙女がおぬしを護ってやるからの!」

 言い置き、メルロはまたネロの影に潜った。

「旦那、もう着きますぜ」

 御者台の小窓が開き、こちらを覗き込んだ御者がそう言ったのは直後のことだ。
「あ、ああ」
 ネロの曖昧な返事に、御者は小窓を閉め、首を捻った。

「なんだか、ひとりごとの多い客だことだ」


 ネロを屋敷の前で降ろし、馬車は去って行った。
 門扉を開け、ネロは敷地へ入る。石で舗装された道が玄関へと通じている。庭園は華美ではないがよく手入れされ、持ち主の人格が現われていた。

「実直で、厳格。約束事をきちんと守る」


 庭の様子からアレクタール家の人々の気質をネロは読み取っていた。そういえば、ルシルは他の貴族子弟に比べても、おしとやかで礼節をわきまえた娘だった。

 霧雨の降るなかを、ネロは歩いて行った。この程度、短時間ならばコートと帽子で防げる。樫材の扉の前に立ち、ネロは帽子を脱いでから全身の雨水を払い、ノッカーに手をかけた。
 ごんごん、と重い金属製のそれを打ちつける。
 しばらくして応答があった。

 どきんっ、と心臓が口から飛び出るかと思った。

 
 ドアを開けたのは使用人ではなかった。

 可憐な娘だった。首筋まで深い青紫のドレスで覆っていた。ネロは彼女を知っていた。
 
 アレクタールの娘、ルシルベルカ。


 四年前に初めて会ったときよりも、もっとずっと美しくなっていた。

 まだ子供のようだった頬はすっきりとして女性らしく、手足はすらりと伸び、胸乳はそれに反比例して豊かな曲線を描いていた。
 この数年が、彼女の美を磨いたのだ。それなのに目尻にはあのころの純真で優しげな光がたたえられたまま。これは、ガーミッシュが恋に落ちるのは当然だと思われた。
 いや、どうしようもない馬鹿者だったが、女を見る目だけは確かだった。

 ……ほんとうに、ガーミッシュ、バカヤロウ。


 なぜか、ネロは泣きそうになってしまう。
 だが、今日泣くのはネロの仕事ではない。ネロはそれを受け止めにきたのだ。

「はじめまして……ではありませんね。レディ・ルシルベルカ」
「わたくしも、覚えております。ネロ・ダヴォーラ」

 どこか切なげに、それでも微笑んで言うルシルを抱きしめたい衝動に襲われて、ネロは戸惑った。ちがうぞ、と自分に言い聞かせる。オレはガーミッシュでも、騎士・シュマイゼルでもないんだ。

「お美しくなられた」

 コートを脱がせてもらいながらネロは言った。紳士のコートを脱がせるのは、その屋敷のご婦人方の仕事だ。つまり帽子は取るべきだが、コートは着たまま室内に入るのが礼儀作法ということになる。

「ネロさまも、なんだか、逞しくなられた感じがします」
 それに……とルシルは言った。
「なんでしょう? すごく、いい香り?」

 どきり、とした。丁寧に身体を洗ったはずだが、メルロの残り香があるのか?

 女性を訪うのに、別の女の匂いをさせて行くなど恥知らずにもほどがある。
 くんくん、とルシルがネロの背中に鼻を押し当て嗅いだ。

「!」ネロの背筋を熱いものが駆け抜けた。

「いけないっ、わたしったら」
 慌てて身を離し、口元を押さえて真っ赤になったルシルが恐縮した。

「…………」

 ふたりは言葉を失って、しばらく沈黙した。

「離れに、お茶を用意してありますから」
 すこし早口にルシルが言い、ネロを案内した。
 ネロは先導するルシルに従ってその後を追った。


 屋根付きの渡り廊下を経て、果たしてネロが案内されたのは庭園内に設けられた別室だった。
 テーブルには軽食とお茶が準備され、湯気を立てていた。
 先に来て、一緒に話をするはずのグレコはいない。アレクタール家のほうの同席者も。
 年頃の娘を家族の目の届かぬ密室で見ず知らずの男性とふたりきりにさせるなど、この時代、あってはならぬはずだ。


 ネロは緊張した。

「まいったな……グレコ、打ち合わせと、ぜんぜん段取りがちがうぞ」
「なにか、おっしゃいまして?」
 ネロのつぶやきにルシルが反応した。
「いや、あの、連れがまだかな、と」
「ああ、グレケットさまなら、もうお帰りになられましたよ?」
「ええっ?!」

 ネロは目を剥いて驚いた。それって、いったい……。

「わたくし、ネロさまからお話はおうかがいするように、と」
 あのやろう、とネロは思った。土壇場で臆病風に吹かれたのかよ、と。
 けれども、ネロは逃げるわけにはいかなかった。
「なるほど、わかりました。そうしましょう。あと、大変恐縮ですが、レディ・ルシルベルカ、わたしのことはネロ、と呼んでください」
「はい、ネロ。では、わたくしもルシル、と」

 ネロは緊張で、ルシルは親愛の情を示して、互いに微笑み、カップを傾けた。
 雨の音だけが響く室内で、ふたりは無言で一杯目のお茶を干した。
 そっ、とルシルが二杯目を注いでくれた。

 いざとなったら、どう切り出したものかわからなくなり、ネロは焦った。
 じりじりと焦燥感だけが募っていく。


「いや、美味しいお茶ですね。この焼き菓子も」
 緊張でうまく飲み込めず、咳き込みながらネロは言った。涙目だ。
「ネロ」と優しくルシルが言った。「勇気を出して」

 はっ、とネロは息を呑んだ。ルシルの言葉に。

 まさか、とつぶやいた。まさか、彼女はすべて知っているのではないか。いまから、ネロが明かそうといている男たちの、卑劣な過去の所業を。
 知っていて、オレが言い出すのを待ってくれているのではないか。
 いや、知っているもなにも、この状況で無関係の男が詫びにくるはずもない。

 すとん、と瞬間、ネロの性根が据わった。すっと、背筋が伸びた。
 怯えからくる緊張はもうどこにもなかった。


「自己弁護はありません。まず、これを読んで頂きたく」
 手紙をさし出した。ネロが我が身を削って書き上げたものだ。
 ルシルはそれを静かに読んだ。
 まばらな雨音だけがふたりの間にはあった。

 どれくらいそうしていただろう。手紙から視線をあげ、ルシルが静かに言った。
「では……騎士・シュマイゼルは、この世の方ではない、とおっしゃられるのですね?」
「いかにも」
「それどころか、ガーミッシュさま、グレケットさま、そして、ネロ、あなた方、三人の男性による創作だと?」
「はい。間違いありません」
「いいえ、間違っていますわ、ネロ」
 まっすぐにネロの瞳を捕らえてルシルは言った。
「わたくしの恋慕もまた、それに加担したのです」

 間違いない、とネロは確信した。ルシルは知っていた。
 この手紙がネロの手なる物であることを。


「グレコ、いや、グレケットが話したのですか?」
「いいえ。グレケットさまはネロさまのことなど、一言もおっしゃりませんでしたよ? ただ、悪いのは自分とガーミッシュさまだから、その手紙の主には類を及ぼさないでくれと懇願されました」
「では……なぜ?」
「女の勘って、恐いものですわね。じつは初めてお会いしてお話したときから、すこしそんな予感がありましたの。ネロ、この方なんじゃないかって」

 このお手紙、あなたじゃないか、って。

 ルシルが頬を染めて言うものだから、ネロは動揺せざるをえない。
「確信したのは、あの遺言状を見たときですの。戦死なされたガーミッシュさまにはお気の毒ですけれど……はっきりと別人だとわかりました」
 ルシルの光をたたえた瞳は、ネロからかたときも外されない。
「文字の姿形は偽れても、心までは偽れない——ずっとそう信じてきました」
 はらはらとその瞳から涙がこぼれた。

 よかった、とルシルが言った。あなたでよかった、と。

「わたくし、間違っていなかった」
「ルシル」ネロは名を呼ぶのが精一杯だ。

「わたくしが、恋をしたのは、ネロ、あなたの作り出した幻想の騎士・シュマイゼル——いいえ、あなたの心に、だったのですわ」
 きゅう、と胸の奥の狭い場所が締め上げられた。
 思わず駆け寄り、抱きしめたくなる衝動を、ネロは必死にこらえて言った。

「けれども、オレは……騎士ではない。シュマイゼルではないんです」
 知っています、とルシルはつぶやいた。でも、と続けた。
「でも、だったら……なればいいんです。わたしだけの騎士さまに、なってくだされば」
 小さくルシルが笑った。
 え、と虚を突かれたネロに微笑み、ルシルは席を立った。
 厨房へ、ポットの湯を足しに行ったのだ。

         ※

「……なにか、変だったな」

 どっと背中に吹き出た冷や汗に、席にもたれて気づきネロは言った。

 会談自体はネロの考えていたよりもずっと穏やかに進んだはずだ。
 いきなり剣を突き立てられる予想までしてネロはこの場に臨んだのだ。
 グレコの不在はあまりにもイレギュラーだったが。


 ただ、どうもいままでの話の流れだと、恋慕の対象がシュマイゼルではなく、自分に移ってしまっているように感じられるのは、ネロの自意識過剰か?

「いや、それはない。あってはならない……」
「乙女心は四月の天気——そんな詩をしらんか? どうなるかわからんという意味じゃ」
 するり、と影から抜け出しメルロが言った。

「うわっ、いきなり出てくるな!」
「鼻の下が伸びておるぞ、おまえさま。変な顔」
 ネロは鼻の下をごしごしと擦った。

「変と言えば、この屋敷、使用人はおらんのか? 当主の娘がお茶汲みなどと……健気であればよいというものでもあるまいよ」
 メルロはそんなネロを無視して言った。
「ヒマを出している、とか?」
「冬支度をせねばならんこの時期にか? バカも休み休み言うがよい」
 そういえば、とネロも思った。小雨が降ろうとも、働くのが使用人だ。給仕どころか園丁のひとりも見かけないとはどういうことだ?
「それにあれか、この屋敷はこの程度の雨でも、一日中ずっと雨戸を降ろしておくのが決まりか? 暗くてかなわんな。蝋燭代もかさむだろうに」
 まるで我が伯爵家のようではないか、とメルロは指摘した。

 どきり、とネロの心臓がまた早鐘のように打ちはじめたのは、その時だった。
 メルロの指摘は正鵠を射ていた。

 なにかが、ではない。おかしいのだ。すべてが。

 そう確信したネロの視線の先で、一ヶ所だけ雨戸が開いた。そこから手がのぞき——その手は血にまみれていた。そして引きずり込まれるように、内側に消えた。雨戸が閉められる。
 立ち上がったネロの鼻先で、また菫の香りがした。

         ※

 血臭がこもっていた。
 どうして、この屋敷に足を踏み入れた瞬間に気づかなかったのか。
 ネロは己のうかつさを呪った。

「構造のせいじゃろうな」
 メルロが言った。
 アレクタール家の屋敷前部には客間をはじめとする接客用の施設が集中し、比較的オープンな構造であるのに対し、家族のプライベートな居室は、そこから一本の通路だけでつながる奥まったエリアに存在する。

 繋がっているようで実は隔離された構造なのだ。

 ネロは客間に隣接する厨房に人影はないことを確認した。だが調理用の暖炉に火があった。人がいた証拠だ。それを確認してから、屋敷の奥へと向かった。
 そこで血臭が鼻先を掠めた。

「かんべんしてくれ」
 護身用のナイフを確かめ、ネロは血臭の源、ダイニングルームに足を踏み入れた。
 そこは文字通り、血の海だった。
 全部で十数名、人間が倒れていた。臓物がぶちまけられていた。
 メイド、園丁、下男——使用人に混じって、グレコがいた。
 卓上にはポットが置かれ湯気を立てている。
 卓上に燭台があり、蝋燭の炎が頼りなげに燃えていた。


「だから言ったのに、お父様ったら、わたしたちはこの家を離れては生きていけませんののよ? それこそ——獣にでもならないかぎり」
「ルシル——」

 名を呼んだネロをルシルは振り返り、微笑んだ。さきほどと、すこしも変わらずに。
 あら、と恥じ入るようにつぶやいた。返り血が頬に散っていた。

「ごめんなさい。とんだ身内の恥をさらしてしまって」
「これは……これは君がやったのか?」
「わたくしが? いいえ、とんでもない。わたくしでは無理ですわ。こんなふうに噛みちぎったりできませんもの。これは——狼、狼の仕業ですわ」

 かちかちかちかち、とどこかでだれかの奥歯が鳴っている。
 それが自分のものだと気がつくのに、ネロにはすこし時間が必要だった。

「じゃあ、そいつは、その狼はどこにいるんだ」
「そんなもの——いるわけありませんわ。これだけの大人の男たちを組み伏せ、食い殺すことのできる狼なんているわけありませんわ」

 見れば床には刀剣の類いも転がっていた。男たちは無抵抗でやられたのではないのだ。
 ただ、力の差が圧倒的だった、というだけのことだ。

「いや、いる。いるさ——すぐそばに」
「まあ、こわい。でも……もし、いるのだとしたら、それは物語のなかにだけ——悪い夢のなかにだけ——だと思いませんこと?」

 理想の恋と同じで。
 雨戸を閉め切っているために臓物と汚物と血液のむっとするような臭気が立ちこめるリビングの血溜まりのなかに立って、ルシルは笑っていた。

「安心なさって、ネロ。これは夢、夢ですの。そう——悪い夢」
「ちがう、ルシル、これは」

 食い下がるネロを気にもとめず、ルシルは言葉を続けた。

「わたくしね、すこし前、ひどい病気をしましたの。人狼病という病気で」
「人狼病?」

 ぶるりっ、と悪寒が背筋を走った。

「水を飲み込もうとすると引き攣れるように痛いんですの。風が吹いても、強い光を浴びても痛いんですの。大好きな方にも会えず、嘘を吐かれ、好いてもいない老人と結婚しなくてはならず……いっぱい、いっぱい我慢してきたのに、わたくし、気が狂いそうな痛みで、病で死ななければなりませんでしたの」

 ぼろろ、とその瞳から大粒の涙がこぼれて血の海に混じった。

「苦しかった。でも、生きていたいと思った。あなたからの手紙が欲しかった」
 どうして、どうしてもっとはやくに名乗ってくださらなかったの?
 どうして、さらいに来てくださらなかったの?
 食いしばったルシルの唇から嗚咽が漏れた。狼のように狂おしい。

 ごつり、とその足がグレコを蹴った。

「こいつはね、わたしの心を金ヅルにしようとしたんです。最初は真摯なふうを装っていたけど、父に取り入り、わたしが騎士さまへの恋をあきらめるように仕組んだ。
 ネロ、あなたは知らないはずです。知ってたら、あんな手紙、書けないもの。
 こんな茶番ね、初めてではないんです。なんども、わたしを騙そうとした。
 でも、ぜんぶ、ぜんぶ、見抜いてやったわ。
 わたしね、嘘が匂いでわかるの。手紙も、人間も、すうって嗅いだらすぐにわかる」

 ルシルの瞳が焦点を失い、こんどは父親を踏んだ。
「父はね、この死に損ないはね、わたしのためだ、って言って五十も年上の男を許嫁にしたんです。冗談じゃない。しわしわのお爺ちゃんだわ。お金だけはある。でも、そんなのわたしのためじゃないわ、家のためよ。じゃあ、どうして最初からそう言わないの? 家のために犠牲になってくれって。そうすれば、子供のわたしにでもすこしは覚悟できたのに。でも、それでも、それでも我慢できた。できていたんです」

 あなたから、手紙をもらうまで。

「——知らなかった。だれかから強く想われること、愛されることがこんなにもしあわせな気持ちに人間をするんだって。
 そして、それが叶わないことが、どんなに人間にとって残酷かって。
 そのヒトのしあわせはね、だれか別の人間では計れないし、決められないの」

 こいつらには、最期まで、それがわからなかった。さげすむように死体を見下ろしルシルは言った。

「でも、わたしがもう助からない病気だってわかったとき、父は掌を返した。せめて娘の今際の際の願いくらい叶えてやろうという気になった。わたしは、それでやっとあなたに会えた」

 だからね、わたし、病気になってよかったな。

「人狼病ってね——助からない病気なんだってしってますか? 一度、みんななってみるといいんだ。自分が無理矢理引き裂かれるみたいな痛みが、ずっとずっと続いて、憎しみや怒りが抑えられなくなるの。いままで自分を抑圧していたものすべてへの」

 だんだんと狂熱の色を帯びてゆくルシルの言葉を、ネロは止められない。

「医者にも匙を投げられたわたしを助けてくれたのはフレアさんだった。フレアさんは言ったんです、わたしに。『病に呑まれるな。病を我がものとせよ』って。『汝、人狼を装うべからず。汝、人狼となるべし』って。『奴隷としての無為な死か、それとも超越者としての主となるか、選べ』って」
 もちろん、わたしは選びました。超越者となる道を。

「ある日、目覚めると痛みも熱も去っていた。わたし、主になったんです。病の」
「人……狼……」

「はい。それからは毎晩、わたしは狼になる夢を見ました。なんの制約もなく世界を駆け回るのは楽しかった。夢の内容は……よく覚えていないんですけれどね?」

 まってくれ、とネロはうめくように言った。

「じゃあ、それと、この目の前の死体の山がどうつながるっていうんだ」
「父は全快したわたしのために、性懲りもなく縁談を探していたし、このグレコは悪びれもせず——あなたには重要なことを伝えもせず——またしても破廉恥にもこんな席を設けた。
 でも——それはいい。それはいいんです。だって、あなたに会えた。やっぱり、あのお手紙はネロだったって、わかったから」


「じゃあ、じゃあ、なんだって」
「こいつらが囁きあっているのを聞いちゃったんです。

『恋などはしかのようなものだ。時期を過ぎればやがて忘れる』
『夢に幻滅することで子供は現実を知るものです』
『この件が決着したら、縁談の演出を君に頼みたい。娘の夢に——似た、な』

 ……わたし、あの病以来、鼻も耳もすごくよくなって。それで——ふざけるなっ、て思って。その『夢』さえまともに装うことさえできなかった奴らがっ! わたしの、わたしたちの『夢』をバカにするのか、って!」
 そう思ったら、
「こいつらこそ『夢』にしてやったんです」

 ネロは絶句した。

「だから、だからって使用人たちまで……巻き込むなんて……」
「彼らは『夢』を理解できない人たちでしたから。父の道具。母のいいなり。どれだけこいつらがわたしのこと、陰口し、密告してきたか——わたし、ぜんぶ、ぜんぶ知ってるんだから。それでもまだ……父や母の味方をするから……」

 この牢獄のような屋敷のなかで、ルシルがどんな孤独を強いられてきたのか、そのことをネロは思った。病によって噴出した人狼は、この屋敷がルシルのなかに流し込み、撓めてきた無味無臭・不可視のバケモノなのかもしれなかった。

 ふらり、とルシルが不安定に傾いだ。

「どうしましょう」
 心細げに笑って、ネロを見た。
「わたくし、ひとりになってしまいました」

 ネロはそのとき、どうすればよかったのだろう?
 壊れてしまったルシルのために手を差し出し、ともに墜ちてしまえればよかったか?
 それとも彼女をかどわかし、逃避行に出ればよかったか?
 あるいは彼女の騎士として、バケモノに成り果てた彼女を仕留めてやるべきだったか?

 しかし、ネロの取った選択は、そのどれとも違った。
 気がつけば、眼前のルシルは、いつか見たあの強大な銀狼に変化している。
 彼女の言う『夢』が現実のルシルに勝ったのだ。
 そして、ネロの手にはルシルに味見してもらおうと持ち込んだ貴腐の酒があった。
 背中にメルロの体温を感じた。その背中を護るように、いつのまにか現われていた。
 酒を手渡してくれたのは彼女で、いつでも飛び出せるように準備してくれていた。
 それでも、最後の決断をネロにまかせてくれていることが、うれしかった。

 ごう、とネロの掌で《スピンドル》が渦を巻いた。

          ※

「こんなに美味しいのに、どうしてせつなくて、涙がでるのか——」
 ネロの造った貴腐ワインを飲みながら、メルロは、はらはらと涙を流す。
「うん」としかネロには言葉がない。

 長雨続きの秋だ。ふたりは昼間から飲んでいる。

 つまみはよく焼いたパンの細片とオリーブオイルだけ。
 貧しいのではなく、最高に贅沢な飲み方だ。
 極まったワインは、ほとんどの料理を拒絶するから。


 つまり、醸し上がったネロのワインは最高の出来だった。
 ネロのヒザにはメルロがいる。
 最初は差し向いで飲んでいたのだが、いつのまにかこうなった。
 その気持ちがネロにはわかる。

 事件は一応の解決を見た。
 
 ネロからの通報を受けたスパイラルベインの動きは素早かった。

 聖堂騎士団が動いた。

 血塗れのアレクタール邸は一時封鎖され、徹底的な検証を受けた。
 その血塗れのリビングにルシルの変わり果てた死体があった。
 やせこけ、憔悴しきった、細すぎる身体だった。

 ネロの《スピンドル》と、その導体となったワインが引き起こした結果だった。

 ネロは重要参考人として拘束された。
 三日三晩、昼夜を問わず取り調べを受けた。
 それから四日目の朝、いきなり釈放された。
 ネロは三日の間、唯々諾々と取り調べに従っていたのではなかった。
 いや、むしろ、自分のどこにこんな熱い血がまだ眠っていたのだとネロ自身が戸惑うほど激しく、取調官に食ってかかった。
 
 いわく、

「オレのスパイラルベイン資格を剥奪したいならそうしろ! どんな刑罰だって受けてやるッ! 死罪? できるもんならやってみろッ! だがな、アイツだけ——あの女だけは取り押さえろ! フレアミューゼル! 白衣医師団のフレアを、だッ!」

 それこそ必死の形相で訴えるネロに取調官は気のない様子だったが、実情は違った。

 すぐさまスパイラルベインの精鋭五名がネロの供述にあるフレアの診療所を強襲した。
 そして、三名が死亡。二名が重傷。スパイラルベインは返り討ちに遭い、フレアの逃走を許した。その消息はいまだに不明だ。

「拝病騎士団?」

 その禍々しい名をスパイラルベイン・ギルドマスター・ナッシュヴルフの口から聞いたのは釈放の朝だ。

 拝病騎士団——病魔を崇拝し、病こそ恩寵——次なる次元へのきざはし——だと信奉する一派。“進化”という名の狂気に取り憑かれた邪教徒たち。
 病に対する広範で深遠な知識を有し、それゆえに、施療師の身分を騙って地方、都市を問わず流入しては持ち歩く病原体を活性させ、凄惨な事件を起すのだという。

 おかしい、とはネロも血塗れのリビングに、スパイラルベインが到着する間で考えていた。
 人狼病は社会性の高い——狼のように群れを作る——ホ乳類に限定された病だ。
 だとすれば、アレクタール邸の周囲に病原菌に冒された群れがいるはずだが、そんな痕跡はなく、スパイラルベイン・聖堂騎士団の両組織からの報告もない。

 つまり、猟犬ではなく、愛玩犬だったルシルの飼い犬が、そのような集団に接触する機会はまずないということだ。夜間は室内で寝るのだから。もちろん、噛まれた様子も、粘膜接触を受けた様子もない。このエクストラム周辺で、この五年間に感染事例はない。
 そも野生の狼自体が、古代・アガンティリス期から都だった、このエクストラム周辺には残っていない。

 では、あの人狼病はどこから来た?
 ふつうならありえないことだ。
 ただひとつ——だれかが、人為的に、植え付けたのでないかぎり。
 それはただの勘かもしれなかった。だが、だからこそ、ネロは素早い確認を望んだ。
 結果は悪いほうに出た。ネロの予想通り……最悪のシナリオだった。
 ルシルは拝病騎士・フレアミューゼルの格好の検体にされたのだ。

 拝病騎士・フレアミューゼルの逃亡を知り、驚愕したネロに、さらなる追い討ちが待っていた。耐えきれぬほどの精神的な衝撃が。
 
 いや、それは朗報——と言うべきなのか。
 ルシルベルカの引き起こしたアレクタール家の惨劇の死者の数だ。
 一名、と知らされた。息女・ルシルベルカ・アレクタール、一名。

 なんだ……これは、と報告書に目を通しネロは絶句した。

 ナッシュヴルフが禿頭を掻いた。
 主犯であるルシルは、誰も殺してなどいなかった。
 全員が気絶しており、リビングにぶちまけられていた血や臓物は、使用人たちの食事に使われる予定だった豚の血液、未処理の臓器であった。
 すべては演出——夢だったのだ。

 失われたのはルシルベルカの命だけ。負傷者はアレクトール当主だけで、これも後頭部を陶器かなにかで殴られたものだ。
 あの一瞬——雨戸を開けた瞬間に。
「人狼などの魔物の咆哮には至近で聞いただけで心神喪失を引き起こす力があるのじゃ」
 バインド・ボイスというのだとメルロが説明するのを、ネロは、うわの空で聞いた。

 ふらふらと、街に彷徨い出て、どこをどう歩いたものか、気がつくと冷たい雨にずぶ濡れになりながら自宅に帰り着いていた。それから、ふさぎ込んだ。
 まともに泣けたのは、数日後、見かねたのだろうメルロが、あのワインを差し出してくれたときだった。
 飲む気になどとてもなれない。無言で退けようとした、途端だった。
 ふうわり、ととても言葉にできない優しい香りがネロの鼻腔に届いたのだ。
 ぼろろ、とまったく予期せぬ涙が、ネロの左目からこぼれ落ちた。
 それから、堰を切ったように、ネロは泣いた。
 這いつくばり、胸を掻きむしって。

 ルシルは——あの優しい菫の香りの娘は、それでもなお、家族を愛していたのだ。

 心の奥底では憎みきれず、だから、殺せず、あんな方法で復讐を成し遂げた。

 たぶん、とネロは思うのだ。
 たぶん、ルシルはネロに幕を引いて欲しかったのだ。
 だれかの描いた勝手な夢に翻弄され、呪縛された人生と、そこから逃れるために人狼に成り果てた自分を救ってくれる——現実の騎士として、ネロを頼った。

 その役割を自分は全うできただろうか、とネロは思う。

 ネロの《スピンドル》とその力を伝導された貴腐ワインは、ルシルの肉体と精神を包み込むと蒸留するように分離した。
 結果として、人狼病の走狗となった肉体は床に転がり、その心と精神の抽出物は霧散した。渦を巻く貴腐ワインの奔流のただなかで、一声、心にいつまでも忘れられない遠吠えを残して。
 芳香を放つ酒をまとったまま、ネロの開けてやった鎧戸から、飛び去っていった。

「ワイルドになるために、生まれてきた——か」

 ゆっくりとグラスのなかの液体を回しながら見つめ、ネロは言った。
 卓上にはルシルの絶筆がある。
 アレクタール邸のルシルの部屋から見つかった。
 ご丁寧に、その隣りには貴腐葡萄の房が、ひとつ添えてあったのだという。
 驚いたことに、ネロ宛だ。
 日付を信じるなら、グレコがネロを訪う以前、あの会談の約束が取り付けられるより前、彼女が人狼病に冒されていたときに書かれたものだ。

「わたくし、わかっておりました。
 あなたなのでしょう? ネロ・ダヴォーラ。あのお手紙は——
 でも、この手紙をあなたが読まれるとき、
 きっとわたくしは、もう、この世にいないから……」

 震える文字で書き綴られた、そんな一文で始まる手紙を、ネロはまだ直視できない。
 必死に塞いだはずの涙の堰が、また崩れてしまうからだ。

 ルシルはネロの心根の優しさが、あの二年間に交わされた書簡にはあったと指摘し、また、その優しさを備えるネロが、今回のことで自分を責めすぎないで欲しい、とも書かれていた。

 遺書だったのだ。

 騎士・シュマイゼルから——自分が生きている間に——返信が届かなかったときのための。ネロを——自分を責めるだろうネロ自身から——解き放つための。
 偽りであっても——楽しかった、と。あなたで、よかった、と。
 それから、ある詩からの引用があった。

 ワイルドになるために生まれてきた——。
『自由になりましょう……わたしたち』
 たぶん、きっと、そんな、意味だ。

「かなわねえよ——」
 ネロの唇は震えて、また涙がぶり返してきた。

「……この酒自体が、さびしい味がするのではない——この酒はな、ネロ、だれかが心の奥にかけてしまった頑なな錠前を、外してしまう魔法の鍵なのじゃ。

 そう——マスターキー。

 だから、ルシルの縛鎖も解いてしもうたのだ。
 アレは——荒野を駆ける狼の心を得て——自由になったのだよ」
 メルロがネロの心に開いたその傷を、手を当てて塞ぐように、優しくつぶやいた。

「ああ、ああ」
 ネロは頷くことしかできない。
 冷たい秋の雨は止む様子もない。



 追補:命を拾ったグレコは、あの事件のあとも性懲りもなくネロを訪ねてくる。
    ロクな男ではないが、それを言うならネロも同類で、あきれながらも迎え入れる
    と、またあの人懐っこい笑顔を見せた。
    もちろん、あの事件をネロは反古にする気はない。
    しばらく、酒の肴に困ることはないだろう。

    そんなグレコが、この間、酔って帰ったと思ったら、すっ飛んで戻ってきた。
    なんでも、近くで狼の遠吠えを聞いたのだそうだ。

   「そりゃあ、いるだろうな」
   「ああ、人狼じゃろ? もう鎖には繋がれていないぞ?」
    冗談だと笑うネロとメルロのリアクションに、蒼白になり震えあがった。
   
    秋風にたしかに、その声が聞こえた気がした。


さて、M・S・R 第二話:ボーン・トゥー・ビー・ワイルド——後編
ついに完結しました。

ま、実は後一話分はもう原稿があるのですが。

いかがでしたか。なにか、すこしでもみなさんの心を動かすモノがあったならしあわせです。
コメント欄にお気軽に感想をお願いします。
「へたくそ」でも結構です。もし、「ここが、こういけない」とご指摘頂ければなお結構です。

個人的にはこの第二話は秋の夜長に読んでもらいたい、と考えて書いたものです。

UP中のBGMには「ASIDMAN」の「equal」をかけさせてもらいました。
ロックに分類されるとは思うのですがガチャガチャしてなくて、鋭く、オススメの一枚です。

では、こんどは、おそらく「燦然のソウルスピナ」でお会いしましょう!

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