古代アガンティリス期から保養地であったカテル島はその伝統を受け継ぎ、領主がカテル病院騎士団となったいまは、さらに積極的な治療目的での入浴施設として、温泉をいくつも持っている。
三人はそのうちひとつに汗と砂で汚れた身体を沈めた。
といっても本格的な汚れをこうむっていたのは、アシュレひとりなのだが。
浴室に入ってきたとき、アシュレは簡素な腰布だけだったが、イズマは例のベージュと空色の横縞――奇抜な意匠の――シオンはといえば、いまでもアシュレは直視すると心拍数がおかしくなる、あの純白の装いだった。
「いま思うと、イズマのその横縞って、土蜘蛛の意匠なんだね」
「んんー、そだよ。空色は高貴な色でね。まあ、地の底からずっと青空を見上げてきた種族だから、ボクらは。まあ、戦闘時用は縦縞を混ぜたり、もっとずっとケバイ色使いなんだけどさ」
「さっき格闘戦の時も、それで調子を狂わされたんだ。間合いがおかしくなる」
「まさしくその目的と、あとはこれは警告でもあるんだよ。対応を誤れば首を掻き切る覚悟でこっちはいるぞ、っていうね。各部族特有のウォーペイントや刺青もあるから、完全武装の土蜘蛛を人類が『悪鬼』と見なすのは、まあわからなくもない」
「ごめん、そういう意味じゃなかった」
「いいのいいの。こっちから見たら、人類の重甲冑や武器をして『文明度の低い野蛮人ども』っ反応になるんだからさ。お互い様だよ。それよか、ボクちんはこういう話ができる友人ができて嬉しいのよ?」
「ボクだってそうさ」
男同士はなぜかしきりに早口で会話を交わす。無理もなかった。
いつのまにか成り行きで素肌を洗おうということになり、着衣を外し、薬湯を擦り込んだ海綿で互いの背中を洗い合っているのだが、その中央にシオンが入っているのだ。男女男という具合である。それは、けっしてひと括りにまとめてはイカン字面でもあった。
「なぜか、わたしだけ会話から村八分にされていないか?」
「やっ、いやっ、そんなことはっ」
「アリマセンアリマセン、アリエマセン」
アシュレなど、もう幾度となくシオンの裸身を見ているのだが、寝室ではなくこんな場所でそれを前にすると喉がカラカラになるほど緊張するのだ。
イズマにいたっては、日ごろからシオンへの思慕恋慕を声高に叫んできたくせに、いざシオンの側からアプローチを受けるとがくがくと震えながら固まってしまうヘタレ具合だ。
まあ、気持ちはわからなくもない。
いま現在、この浴場にいるのは三人だけで、その全員が一糸まとわぬ姿だ。
背の小さいシオンが長身であるイズマの背中を律義に洗おうとするものだから、そのたびに背中の陰からカタチのよい膨らみが目に入ってしまっておかしくなりそうだ。男性的には言いわけできない、危機的状況だった。
たぶん、長身のイズマの側からは、後ろからその状況を覗き込むポジション取りになっているはずで、その窮状がアシュレにはまざまざと想像できた。
「アシュレ、こんどはわたしが夜魔の戦技をみっちりと教えてやる」
「わ、わー、よかったなー、あしゅれー」
「そ、それは、うれしいなー、ですよねー、いずまー」
「そなたら、なにか悪いものでも喰ったのか? さっきの練習で頭でも打ったのではないか?」
「いやっ、だいじょぶだとおもうよ」
「ひめっ、それよか、夜魔の戦技のレクチャの続きを~」
「ないす、いずま、それ、ないすです~」
「??? まあ、いいだろう。夜魔との近接戦闘でもっとも気を払わねばならんのは、これだ、牙だ」
言いながらシオンは頭だけアシュレを振り向き、口を開けて見せた。
音もなく普段は仕舞い込まれている長い犬歯が姿を現した。
話題につられてイズマが振り返り、血を噴いた。鼻から。慌てて前を向き天を仰ぐ。
アシュレにいたっては、あうっ、と情けない声が出た。女のコみたいな声だ。
「なんだ?」
「そ、そうだねっ、気をつけないとねっ」
「アシュレ、真面目に聞いているのか? 吸血にともなう吸精は急激に相手を衰弱させるし、それによって夜魔は体力を回復させる。下級種であってもこのナイフのような犬歯で相手の耳を食いちぎり、頚動脈を裂くくらい簡単だ。上位夜魔は節度を叩き込まれておるから、むやみに牙を剥くことを好まない――得体の知れない食物を口にするのは、拾い食いをするようなものだからな――が、切羽詰まった状況でなにをしでかすかわからないのは人類と同じだ……、どうした、血が出ておるではないか、鼻から」
やはり、訓練時にどこか打ったのではないか。言いながらシオンが、今度は身体ごと振り返り、アシュレはますます窮地に追い込まれた。シオンの身体越しに、前のめりになって駆け出すイズマが見えた。
「おいっ、イズマっ、どこへ行くっ、アシュレの容体を見てやらんか!」
「ちょっと、おくすり、とってきましゅ」
ふがふがと不鮮明な叫びを残してイズマは浴室を出て行ってしまった。
「アシュレ、よく見せよ。ずいぶん打撃をもらっていたが、頭部へのクリーンヒットはなかったものな。では、わたしの投げがいけなかったか。ああ、どうしよう」
「ひやっ、だいじょぶ、だいじょうぶれす」
「なにが大丈夫なものか。外傷でないのがより悪い。あああっ、両方から垂れてきたじゃないか! すまなかった」
カオス過ぎる状況を収拾するため、けっきょくアシュレは本当のことを言わざるをえなかった。
シオンが、その裸身が魅力的すぎるせいだと。
ふたりは真っ赤になって固まった。シオンが逃げるように浴槽に入り、アシュレは苦労してそれに続いた。昂ぶりがなかなか収まらず四苦八苦しているアシュレの背中に、シオンの背中が触れる感触がした。
「すまん」
「シオンのせいじゃないよ」
アシュレは止まりかけた鼻血がふたたび噴いて湯を汚さぬよう、天を向いた。
山の中腹に切り開かれたこの浴場は、カテル病院騎士団が訓練に使うもので冬季は封鎖される施設に付属している。採光用の窓からまた雪片が舞い降りてきた。
「今年は、異常気象だそうだ。どんなに寒い年でも冠雪するのは山の頂きが白くなる程度というこのカテル島で、中腹あたりでも雪が降るのはないことだという」
「そういえば、カテル島って古典に謳われるほどの保養地だったものね。風甘きカテルっていうくらいだもんなぁ。エクストラムでも積もるのは珍しいけど、降ることは降るからね」
「まあ、たまさかの雪くらい、夜魔の姫がヒトの子の聖騎士に求愛するくらいだから、もうなにが起こっても驚かんがな」
またひとひら、雪片が落ちる。シオンはそれを受け止めるように手を伸ばした。
ただ、と言い添えた。
「どうしたの?」
「雪を見ると、故郷のガイゼルロンを思い出す」
「冬を引き連れて到来する夜魔のくだりが、古典や昔話にはたくさん出てくるものなあ。あれは『冬を締め出すように、心の鍵を固く閉じよ』って暗喩なんだと思っていたよ」
「無論それもある。むやみに受け入れ、迎え入れると不幸を招く事柄がこの世にはあまりに多いのだから。多くの村々で客人(まれびと)を歓迎するなどという話はな、うわべだけのこと――彼らが過ぎゆくものであると知ればこそなのだよ。」
「……迷惑だったかい?」
シオンのそのどこか諦念すら感じさせる言葉に、アシュレは訊いた。シオンの求愛を受け入れたことについて。
「恐い、とすら感じた。温かく迎え入れられ、わたしは――わたしの心は完全に捕らえられてしまった。そなたのいない明日を想像できないほどに。――恐いのだ」
アシュレはいますぐ振り返りシオンを抱きしめたい衝動に駆られた。ただ、そうなったとき、抱擁だけで済ませることはできないだろうという確信があって、意志の力を振り絞って自制した。
そんな状況にイズマが帰ってきたら言い訳ができない。
そんなアシュレの心の動きが肌越しに伝わったのだろう。
湯船の下で、シオンが手を重ねてきた。
だが、続いたシオンの言葉に甘さはなかった。
「けれどもな、アシュレ。その昔話のくだり、いささか暗喩だけとは限らぬ。上位夜魔のなかには『己の赴くところに祖国の気候すら連れてくる』ほどの愛国主義者、原理的血統主義者も存在するのだ。夜魔はその長い生と鮮明すぎる記憶のせいで、心のどこかに破綻をきたしたものが多いのだ。長命な上位種ほど、その傾向が強い」
「それって」アシュレはシオンを首だけで振り返り訊いた。
そこにはシオンの深い紫色の瞳があった。
「さきほど、微弱だが、気配を感じた。わたしでなければ見逃していたかもしれぬほどの微弱なものだが。我ら夜魔は互いの血統・血脈に共振を感じるのだ。
本来それは互いの狩猟場を侵さぬための本能だが、いまのわたしには追手を感じ取る感覚として作用する。
そして、それは敵も同様だ。むやみやたらと気配を振りまかぬのは、逆に上位夜魔に違いない。近いうちに襲撃があると考えたほうがよい」
「でも、それじゃ、天候を連れてくるってのは?」
「それが貴族どもの趣味、血の狂気というやつさ。ほらな? わけが判らんだろう?」