あなたのお父さんは、とイリスベルダは話しかける。
臨月間際の自らの胎内にむかって。
ふつうならもう生まれていなければならないはずの胎児が、まだ出てこない。このままでは夏が終わってしまう。ただし、母子ともに健康そのもの。このあいだ、一瞬だけ帰ってきたイズマのお墨付きだ。また《転移門》を使って、すぐにどこかに飛んでいってしまったが。相変わらず忙しいヒトだ。
カテル島は南の島だが、気候は快適だ。湿気は少なく、常に風が吹き、夏でも日陰なら摂氏二十五度を上回ることはほとんどない。冬の冷え込みもそれほど厳しくなく、島の中央を走る山嶺にうっすら雪が積もる程度。子育てには最高の土地だ。
なによりすばらしいのは、一年を通じて美しい花々が咲き乱れること。春はアーモンド、初夏はレモン、いまはブーゲンビリア。この島の風は甘い(ドルチェ)。花の香りを常にまとっているからだ。ただ風を嗅ぐだけで心が穏やかになる。
そのせいだろうか、はじめての出産だというのに不安はまるでない。
盟友と呼べるほど仲良くなったカテル島の大司教・ダシュカマリエは気取りがなく、おまけに医術・薬学に精通していて、イリスとお腹の子供をいつも気にかけてくれる。安心の理由のひとつだ。
それなのに、あのヒトはいない。
だから、イリスは張り出した腹部をさすって語りかけのだ。まだ見ぬ我が子に。父親の生き様を。その武勲(いさおし)の物語を。語り継ぐべき物語を――。
あのとき、起こったできごとを、ともに戦ったすべての人間が見ていた。
臨界点を迎え、崩壊直前だった邪神:フラーマの聖骸とその影響下にあった漂流寺院――《閉鎖回廊》の消失を防ぐため、アシュレは決断した。〈シヴニール〉と、そこから放たれるエネルギー流を起爆剤、同時に導線とし、自らが暴れ回る《スピンドル》エネルギーの開放弁となった。
もちろん、それはヒトひとりの身に余る所業だった。いかに《スピンドル》の加護を得ていたとしても、聖遺物に匹敵する武具:〈シヴニール〉を得ていたとしても。
代価は彼自身の命そのものだった。
神の視点――いわゆる歴史的、巨視的観点で語るのなら、その程度の犠牲で済んだことは奇蹟であり、僥倖と言うべきものだっただろう。けれども、戦友たちにとっては、英雄的決断と五文字で書き記す史書を破り捨てたくなるほどの、苦渋の決断だったはずだ。
アシュレダウは死んだ。
胸を内側からはぜさせ、火傷だらけになって、その破れた胸から光を爆流と吹き上げながら燃え尽きる流星のように、その身体は宙を舞った。
白熱した〈シヴニール〉が回転しながら漂流寺院の基底を成していた大型艦の甲板に突き立ち、炎を上げた。
火はあっという間に延焼した。それほどの熱量だったのだ。一月ほど後、同海域から〈シヴニール〉がサルベージできたことこそ、ほんとうの奇蹟だった。
傷だらけの仲間たちに、イズマとイリスが駆け寄り、避難経路を指示、指揮した。
ほんとうなら、イリスは一番にアシュレのもとへ駆けつけたかった。
けれどもしなかった。できなかったというのも無論ある。
状況がそれを許さなかった。〈シヴニール〉が帯びていた熱量は、海水を沸騰させるほどのものだったのだ。
なにより、ほんとうは脚長羊の手綱を取るイズマこそが、そうしたかっただろうからだ。それなのに、イズマはその他の生き残った仲間たちの救護を優先した。後になってもいい訳ひとつしなかった。立派だと思う。
ほかにどうしようもない決断だった。
だから、イリスたちは知らなかった。
その燃え尽きる星を追って、ともに墜ちた者がいたことを。
夜魔の姫・シオンザフィルが、ズタズタになってしまったアシュレダウの亡骸を受け止めた。《アストラル・コンシールメント》を解き、失われゆく愛しい男を抱き止めた。
それはなかば本能的行動だった。まともに意識を保っていられない状態で、シオンの身体が動いた。
いや、それは、フラーマの見せた幻灯器のごとき影絵のさなかに呼び覚まされた夜魔の血が成せる永劫の愛――その化身としての怪物――シオンに刻まれた夜魔の本性、シオンの正体だった。
狂っていた、と言われたら、その通りだった。
どんな手段を用いても、助けたかったかと問われたらその通りだった。
フラーマがなぜ、邪神と成り果てたのか、わかった。
どうしても、どうしても、助けたかったのだ。
鬼女のような姿であっただろう? とシオンはアシュレに問う。いいや、とアシュレは答える。愛しい、としか思えなかったよ、と。
なんども繰り返した問いで、何度も聞いた答えなのに、シオンはそのたびに泣いてしまうのだ。ごまかすように逃げ出すのだが、そのたびに捕まってしまう。
逃げられないのだ。もう、絶対に。
ふたりは墜ちた。
そこは青い花を咲かせる荊に護られていた。
〈ローズ・アブソリュート〉の茂みは、なぜだかシオンを傷つけなかった。それどころか、炎からふたりを護り続けた。ただの火では聖遺物を傷つけることはできないのだ。
その底に、ふたりはいた。
正確には、死に瀕したヒトの騎士と、追いつめられた哀れな獣が一匹いた。
獣は女の姿をしていた。
一糸まとわぬ姿に、白銀の篭手。肩まで覆うそれと、頭頂に戴いた大ぶりな王冠だけが彼女の装身具のすべてだった。
かああああああるうううう、と女は遠吠えする狼のように、悲しげに、口を開いた。赤く濡れた唇の奥から、唾液が糸を引いて落ちかかり、鋭い犬歯が伸びた。
女は夜魔だった。夜魔の大公の息女だった。
すなわち真祖の血脈に連なる、純血の魔物だった。
シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・ガイゼルロン。
永劫を生きるがゆえ、その血の記憶に永遠に苛まされるがゆえ、やがて来る狂気から決して逃れられぬ同胞の呪われた生を断とうと決意した女だった。
それなのに、目の前で女の愛した男が、死に拘引されかけていた。
いや、もうほとんど死んでいた。助けようがなかった。
この時代の医学的には完全な死、と判断される状況だった。
夜魔であるシオンでなければ、感じ取ることもできなかっただろう男の肉体に残る微かな命の火は、もう燃え尽きる直前だった。
いや、方法はあった。助ける方策があった。男を夜魔にすればよい。そうすれば、そうすれば助かる。女の下僕と成り果てるが、同じ時間を生きていられる。
ぼろろ、と隠しようのない涙が女の頬を伝った。はああああああ、と声もなく、呼気だけで泣いた。どうすればいいのかは、わかっていた。
経験はなかったが、それは夜魔の本能に焼つけられた力だった。
真祖の直系である女が誤るはずなどなかった。それは呼吸と同じく、食餌と同じく、習う類いのものではなかったのだ。
それなのに、震えていた。
ガチガチガチガチ、と歯の根が鳴った。女は男を愛しすぎていた。男の生を辱めることが恐かった。死なせてやるべきなのではないか、とそう思った。
だが、諦めることなどできなかった。
男の――アシュレのいない世界に、ひとり取り残されたとき、自分がどうなってしまうのかわからず気が狂いそうになった。シオンは生まれた初めて心の底から恐怖した。落ち着いて考える時間が欲しかった。決断を誤ってしまう気がした。
もちろん、時間などなかった。
男はもうほとんど死んでいた。
追いつめられたシオンは泣きながらアシュレの首筋に顔を埋めた。まだ、かろうじて、生の残滓が残る血管に牙が触れた。
そのとき、甲冑に包まれた左手が、抜き身で転がるナイフに触れた。
船乗りが使う頑丈さだけが取り柄のボーイ刀だ。ロープを切断したりするのに使う。
思えば、シオンは以前にも愛する男を殺していた。
その男の聖骸はいま彼女の腕を包む〈ハンズ・オブ・グローリー〉の内張となっていた。その霊験によって、シオンは夜魔でありながら聖剣・〈ローズ・アブソリュート〉を繰ることできたのだ。
もし、あのガイゼルロン山麓の祠で、その男・ルグィンが文字通り身を挺し賭して〈ハンズ・オブ・グローリー〉と〈ローズ・アブソリュート〉を託してくれなかったなら、シオンはすでに死んでいるか、イフ城の地下で終りのない拷問にさらされているかのいずれかだっただろう。
ああ、とシオンは理解した。そうか、と。自らの成すべきことを理解した。
ナイフを振り上げた。刃を下にして《スピンドル》を通す。それから、躊躇なく抉った。
自らの剥き出しの胸を。力任せに骨を断ち割り、裂いた。そして、アシュレの裂けてしまった胸郭に注いだ。そのどうしようもないがらんどうに。
血を、肉を、臓器を。倒れ伏すようにして傷口を合わせた。それから残された《意志》のすべてを使って、もう一度《スピンドル》を発動させた。
《アルジェント・フラッド》――それは、自らの命を他者に受け渡す最後の技だった。
※
目が覚めたのはベッドの上でだった。
真っ白い壁に天井。草木柄の布地に動物が隠されているテントが頭上に張り出している。
死んだのかな、とアシュレは思った。
空気がよい香りすぎた。ここが地上であるはずがなかった。起き上がろうとして失敗した。半身を起すこともできなかった。
両腕を見てぎょっとした。ミイラ男みたいな状態だ。だれかを呼ぼうとして声を出しかけたがうまくいかなかった。どうやら全身をこれでもかという具合に包帯でコートされているらしかった。ふがふが、という風刺画みたいな音しかでなかった。
がちゃり、と音がしてだれかが部屋に入ってきた。見知らぬ看護服の女性がもがもがと動こうとするアシュレを見て、持っていた木製のたらいを落とした。
くわああん、と音がした。
それから、悲鳴なのか、嬌声なのかよくわからない声をあげて女性は部屋を飛び出していった。
おおげさな、まるで死者が甦ったみたいじゃないか、とアシュレは思った。
「ふが(いや)、ふが(あの)」
アシュレは自力ではどうしようもない状態に困惑した。これは、いったい、どうなってるの? 記憶が混乱して考えがまとまらない。そんなことをしているうちに、外がやかましくなった。
「? ?? ???!」
どかんッ、とドアそのものが吹き飛びそうな勢いで開けられ、まずミイラ男が入ってきた。両手がない! それなのに胸板は厚く、身長は二メテル近かった。ドアは蹴り開けられたらしい。
「生き返ったか!」
「? ?? ???!」
ミイラ男から復活認定を受けるというのは生涯のうちであまりあることではない。もちろん当のアシュレには、そんなレア体験を認識している暇も余裕もなかった。
次に先ほどとは異なる看護服姿の女性が飛び込んできた。
見覚えがあった。だが、アシュレが名を呼ぶ暇を彼女は与えてくれなかった。飛び込むように抱きつかれ、その豊かな胸の谷間にアシュレはプレスされた。
「? ?? ???!」
彼女は力いっぱいアシュレを抱きかかえた。アシュレには抵抗する手段がなかった。
腕力はさほどではなかったが、必死であるうえに、アシュレ側は四肢をまともに動かせず、乳房の圧力は圧倒的だった。
死ぬ、とアシュレは思った。復活→圧死→復活の無限ループにハメられてしまうのではないかという恐怖に戦慄いた。
「そんくらいにしとかないと、死ぬよ、イリス。マジで。キミのハグはマジ・リーサルウェポンなんだから。しかも、男に対しては即死耐性のパラメータ無効という恐ろしい仕様であり……ほら、痙攣してるし」
能天気な声がアシュレの救世主だった。
イズマに間違いなかった。涙が出た。生きててヨカッタ! また死ぬところだった! 即死耐性パラメータ無効だった! わけがわからなくなって、アシュレはむせび泣いた。とにかく自分の手で彼らを抱きしめたかった。
こんな包帯越しではなく、ちゃんと自分の肌で彼らの奮闘を讚え、自分を助け出してくれたことを感謝したかった。
ぶんぶん、とアシュレは腕を回して見せた。
涙でぐしゃぐしゃになったイリスがしがみついている。じつは涙もろいのだろうかノーマンが天を仰いで涙を噛み殺している。いや殺せていない。包帯がみるみる濡れていく。
イズマだけが笑っていた。アシュレは手を回した。
解いてくれ、と。イズマはくるくる、と指を回した。笑顔のまま。伝わった、とアシュレは思った。
イズマはその指を頭に当てた。アーユークレイジーのポー ズ。
いや、伝わっていない。もがもが、とアシュレは訴えた。
ふー、とイズマは溜息をついた。イリスとノーマンがイズマを見た。
どうする、という逡巡の空気。
「あー、ほんとはダシュカマリエ大司教の判断を待つべきなんだけど――ま、いっか。とりあえず、手だけはずしてあげなよ。右手だけ。すぐに巻き直すけど」
どういう意味かわからず、アシュレはイズマに抗議をあげた。
「まー、あれを見てから言えるかな?」
そこでアシュレは気がついた。イズマの笑みに強ばりがあることを。
なんだ、と思い、また同時に全身が熱く、猛烈にかゆくなってきていた。なにが起こっているのかわからないが、早く外して欲しかった。
イリスが必要以上に丁寧に外すものだからじれったかった。べそべそとなぜ泣くのかわからなかった。ボクはここにいるよ、と撫でてやりたかった。
果たしてそこにアシュレの手は――あった。
「!」
アシュレを除く全員が刮目した。
そんな、驚くこと? とアシュレは全員を見渡した。
確かに火傷の跡がくっきりと残っていた。
しかし、治療と看病を適切かつ手厚く受けたせいだろう、新しい 組織が傷の下から再生しているのだ。全身が熱くて痒いのはそのせいだ。
アシュレはゆっくりと右手で握り拳を作った。実感が湧かず頼りなかったが、それから 傷がひきつれて軽く痛んだが動いた。骨にも異常がない。すぐに動けるようになるだろう。
んなバカな、とイズマが駆け寄り、ノーマンが自分の包帯 の顔の部分を剥ぎ取った。
軟膏を塗りたくられた顔面はまだひどい火傷の跡に歪んでいた。激痛が走るのだろう顔を歪めたノーマンと自分の傷の具合を比べて、 さすがのアシュレもすこし不安になった。イリスがアシュレの掌を頬に導き、奇蹟だ、とつぶやいた。
それからアシュレは猛烈なスピードで剥かれた。
イリスにだけではない。イズマが血走った目で包帯を巻き取るさまは、笑いを通り越しホラーだった。両腕のないノーマンまでその口で迫ってきた時は、さすがに不味すぎる絵面に悲鳴が上がりかけた。
なんだなんだこれはなんだ、アシュレはひん剥かれながら叫んだ。
そして、生まれたままの姿となったアシュレの全裸に、全員が瞠目した。
「エ、エッチ」
なぜか乙女のような声が出てしまった。
幼少時に刷り込まれた癖というものは、直して直るようなものではない。
股間はともかく、胸元を隠してしまうのは、もはや性(さが)だった。恥ずかしくて死にそうだ。いや、全裸をさらしていることにではなく、乙女すぎるリアクションを見られたことにだ。
だが、衆目のだれひとりとして、そんなことを気にもとめていなかった。
「し、信じられん」
「塞がってる。治ってる」
「右手は、表面炭化してたはず……」
ゔあー、とアシュレは声を出した。声帯のテスト。まさか、生還第一声があのような破廉恥なセリフとは思わなかったが。それから、いろいろ思案したが、当たり障りのない、ポピュラーな挨拶を返してみた。
「ぐ、ぐっど・もーにんぐ・え、えゔりわん」
異次元生物でも見るような全員の視線は変わらなかった。
※
「死んだ、と思いました」
「死んだ、と思ったよ」
便意と尿意と空腹が同時に襲ってきてアシュレは順に欲求を果たすべく行動を起した。
腰布一枚の男が施療院内をうろついているという通報に、衛兵が出張って くる混乱も起きた。止まれといわれてもアシュレは止まる訳にはいかなかった。緊急事態だ。適切な場所を見つけると用を足した。どうにかなってしまったので はないかというほど出た。あらゆるものがどす黒く、それが死んだ血液であることを理解して驚いた。
あらゆるものを出し尽くすと餓えと渇きが襲ってきた。
食堂に乗り込んだ。もちろん着衣を済ませ、仲間たちとともに。こちらも緊急事態には違いなかったが、優先度が異なる。
一心不乱に食べた。あらゆるものがうまく感じた。実際うまかった。
イリス特製のエンドウ豆の粥にはじまり、パン、濃い赤ワイン、チーズ、卵料理、ハムや チーズ、山盛りのサラダ、メインの肉は贅沢にもイノシシの肋肉の赤ワイン煮込みを二切れ。健啖としか言い表しようのない食欲をアシュレは示し、イズマを呆れさせた。
「寝起きで、まー、ぱくぱくと、よく喰うね」
感心半分、呆れ半分でイズマが言った。
「なんだか、食べてる端からお腹が空いてくるんですよ。どんどん身体が回復するための建材を求めているみたいで」
「そりゃ、その通りだろうさ」
ありがとうございました、とアシュレは唐突に頭を下げた。あ? とイズマがリアクションした。意味がわからないという意味だ。
「また、助けてもらった」
「じょー だんキツイよ、アシュレ。今回は、全員がキミに助けられたんだぜ? ボクらだけじゃない、律義にボクらの生還を信じてあの海域に止まってくれてたカテル病 院騎士団のメンバー、エポラールの艦長をはじめ船員の命、それから同じくアスカ姫を救出に来てたアラムの船団ぜんぶを、だ」
「そのへん……ぜんぜん記憶がなくて」
はー、とイズマは溜息をついた。
「キミさ、言っとくけど、史書に残る行動をしたんだよ! アラムもカテルも敵同士なのに、あの海域で敵対行動をとる船は一隻もなかった。ボクらを助けるた め に、教義の違いから戦争を続けてきたふたつの勢力が団結して救助活動を行ったんだ。歴史的出来事なんだよ! なぜだかわかるかい? 自分たちを助けるため に、英雄たちが命を賭けるのを皆見ていたんだ。海水を伝わって《スピンドル》が広範囲にそれを伝えていたんだよ!」
あのとき、《閉鎖回廊》のなかにいた人々はすべて、感じたんだ。
「キミが因果を引き受けてくれたことを、ね」
あの哀しいフラーマとアイギスと騎士:ゼ・ノの物語の結末を受け止めてくれたのを。
「キミは世界に大きな貸しを作ったんだ。胸張って、そのぶん取り立てにいってもだれも文句言いやしないくらいの貸しさ!」
「……ぜんぜん、思い出せない」
ああー、とイズマは嘆いて見せた。
「出るとこ出りゃあ、伯爵位でも公爵位でも望みのままさ。下手すりゃ国が興せるよ? そういうレベルの働きだったんだ!」
なんかないの? そういうリビドーは!
「英雄的欲求は! 報酬的欲望は!」
んっはあッ! と声を荒げるイズマの手は直視不可能なくらい卑猥な動きだ。
ぐううう、とアシュレの胃のなかの蛙が、イズマのアジテーションに水を差した。
「とりあえず、おかわり、かな?」
「イリスちゃーん、なんか、ご主人おかわりですってー! 食べさせてやって、食べさせてやって、愛妻の手料理を食べさせてやって! アシュレもそんくらい遠慮なく食べるといいよ! そんでもってブタみたいに太るがイイッ!」
変な呪いのポーズでイズマが言い、くすくすと笑いながらイリスが皿を持ってきた。深皿にてんこ盛りのスペアリブだ。風刺漫画みたいな盛りつけだ。
だが、ア シュレにはソレがよかった。
俄然食欲が湧き、挑むようにとりかかった。手づかみだ。イリスはそんなアシュレの様子をまぶしそうに見つめている。イズマはそ こから一本だけ手元にとり、むしゃむしゃと齧りながら言った。よく煮込まれたイノシシの肉は身離れがよかった。
「まあ、お礼を言うならイリスにじゃねえかな? 自分だってへとへとの癖に、キミの看護で不眠不休だったんだから。それにアシュレの下の世話も、全部彼女だよ? 大司教さまが感心してたもん、わたしでもあれほど献身的にはなれないだろうな、って」
アシュレは肉に齧りついたまま目礼した。アシュレとしてはありえないほど無礼なリアクションだったが、腹が空きすぎており、肉がうますぎた。
「いいんです。それに、あの、わたしとしても必要だったというか……」
「そこでなんで赤面すんの?」
イズマのツッコミに、アシュレも同意した。
肉をくわえたまま。ご馳走にありついた子犬みたいな顔で。
ぽかり、ぽかり、と笑顔のままイリスが男ふたりの頭部を殴った。
けっこうな威力だった。そのまま逃げるように厨房に去って行った。
「おんなって、わかんねー!」
イズマの叫びに、アシュレも同意した。無言で喰いながら。
「あー、そういや、これ、アスカ姫から」
イズマは胸の隠しから布にくるまれた指輪をアシュレに渡した。
あの皿の内容をすべて胃袋におさめ、残りのソースをパンですくいキレイに干してしまってからアシュレはようやく満足した。いまはこの島特産だという濃い葡萄酒を飲みかわしていた。
アシュレが差し出した掌に、ずしり、とそれは重かった。
「台座は純金。はまってる石は大粒のエメラルド。底に施されてる彫金はアラム・ラーの紋章だ。製作年数と記名から、オズマドラ帝国の王家の品だね。王か嫡子にしか継承を許されない」
「それって?」
ワインを飲む手が一瞬で固まった。
「アラムの国家では女性には王位継承権がないのは知っているよね? それなのに王家の証を姫は持ってた。……変じゃない?」
オズマドラ帝国、現大帝・オズマヒムの嫡子はひとりだけ。
「第一皇子・アスカリヤ・イムラベートル」
「あ、アスカ……リヤ?」
アシュレは後ろ向きにひっくり返りそうになった。
「あ、やっぱ気づいてなかった?」
「あ、え、え、ええええええ~! イズマはッ、イズマは気づいてたのッ?」
「あ、いや、それは……未知情報っつーか」
赤面してそっぽを向くイズマを前にしても、アシュレの動転は収まらなかった。ずしりと重い王家の指輪がこれは現実だと告げていた。
「これって……」
「いつかアラム領で再会するための身の証の品だ、と言われましたが?」
どう考えたって、求婚の申し込みだよね。捨て身の。イズマが死んだ魚のような目でアシュレを見た。
「どどどどどどどど、どうしよう」
「さー。あと、その包み、ハンカチーフ、彼女のだから」
イズマは、やばそうな顔になってアシュレに耳打ちした。
これは男にしかわからない気づかいだった。
ぶうー、アシュレはそのイズマの顔面に葡萄酒を吹きかけた。
わっぷわっぷわっぷ、とイズマが目を押さえてのたうったが、アシュレはそれどころではなかった。あわてて例のハンカチで口もとを拭おうとしてしまい、さらに激しく動転した。
「そそそそそ、それは、いやこれは」
「あ、アシュレ、へ、平常心×2。いや、マジで落ち着けっ。気持ちはわかるけど、預かってたボクちんの身にもなれって」
当時の常識では、ハンカチーフは肌着――つまり下着と同じ分類に扱われるべきもので、それを異性から送られたということは肌を許されたも同義だと理解する のが常だった。貴族、王族階級になればなるほどそうだった。
ありていに言えば指輪を下着に包んで送られたわけで、アシュレの動転も合点がいく話だった。そ れを証明するように、ハンカチーフからはアスカの残り香――スミレの香りがした。とたんに、あの日見たアスカの裸身が脳裏一杯に広がってしまった。
「こ、こ、こ、これは」
「ニワトリみたいな動きになってるよアシュレ。リラックス、リラッークス、よーしよしよし」
落ち着こうと葡萄酒のゴブレットに手をしたが、手が震えてうまくいかなかった。
「とりあえず、女性陣には内緒にしてあるんで!」
アシュレはイズマの計らいに感謝し、そそくさとそれを胸元にしまった。これでは浮気の証拠を隠ぺいしようとする夫と悪友みたいな構図ではないかと動揺しながら。
「アシュレー、ドルチェはいかが?」
計ったようなタイミングで厨房からイリスが顔を出した。セーフセーフ、とイズマがおかしなジェスチャーをしたが、それはいつものことでかえって自然と認識されたようだ。なるほど、日ごろの行いは重要だとアシュレは思った。
「か、カフアも、もらえるかな」
「もちろん。奮発しちゃうね」
厨房に引っ込んだイリスを見送り、アシュレは安堵の溜息をついた。
「それはそうと、もうちょっと、フラーマの漂流寺院でのこと、聞いてもいいかな。みんなが助かったのはわかったけど、それから、どうやらボクがあの物語の因果を引き受けたのはわかったけど、あのときなにが起きて、なにが起ころうとしていたのか」
動揺を振り払うようにアシュレはイズマに正対した。うん、とイズマも気持ちを切り替えたようだった。真剣な顔になって言った。左右を見渡し、声を潜めた。
「結論から言うと、フラーマの漂流寺院――つまりフラーマに対して神話のカタチをとって練りつけられた呪いを回路として蓄えられたエネルギーを炸薬に、キミら英雄たちの発する《スピンドル》エネルギーを起爆剤にして、現実そのものを断裂させる陰謀が進行していたんだ」
「現実そのものを断裂させる?」
「絵空事――《虚構》そのものがこちらにまるで《現実》のふりをして現れる、ってことさ。そのための《通路》とその余波である《ブルームタイド》を、あとちょっとのところでこちら側に引き込んでしまうところだったんだ」
「《通路》? 《ブルームタイド》?」
イズマ自身はできるかぎりわかりやすく話してくれているつもりなのだろうが、矢継ぎ早に出てくる単語にさすがのアシュレも戸惑った。ふと、カフアのいい香りがした。いつの間にか、となりにイリスがいた。
「わたしも、もう一度、うかがいたいです」
いいですか、と菓子を載せたアラム式の器を置きながらイリスが言った。
いいとも、とイズマは頷いた。
菓子はこれもイリスの得意技で、アシュレにとっては ユーニスを思い起こさせるほろ苦い味だった。小麦粉にアーモンドの粉を混ぜ合わせ作った皮の内側にカスタードクリームを射込んだものだ。
白胡椒を混ぜられ た粉砂糖が仕上げにふられている。他家のリチェッタの半分程度の大きさに作るのがユーニスの工夫で、イリスのそれも当然のようにそれをなぞられていた。手間が倍になるかわりに皮と餡の比率が最高になり、いくらでも食べられてしまう。
おいしい、とアシュレは感想した。イリスが頬を赤らめ、イズマがごちそうさまを言った。
「この世界にはボクらのいる《現実》と別にもうひとつ、この世界を極端に理想化し戯画化した《夢》みたいな世界が重なっている、と想定してみてくれ。仮にこれを〈ガーデン〉と呼ぼう」
「理想郷、みたいなイメージでいいですか?」
「理想郷は空想だけど、〈ガーデン〉はそうじゃない。架空だけど、はっきりと存在し、視ることも触ることも嗅ぐこともできる。だいじょうぶかな? 頭ごちゃごちゃにならない? 理解できる?」
「夜魔たちの永遠に鮮やかに繰り返される記憶みたいな感じなのかな? それが現実に、種を選ばずに起こる、と仮定すればいいのか」
アシュレの理解に、イズマも先に一度聞いたというイリスも賛嘆の声をあげた。
当のアシュレの耳にはそんな声も届いていない。
考古学者の顔になって、思索を巡らせている。
「〈ガーデン〉……なるほど、庭園か。たしかに理想郷を縮小再現することが造園の基礎理念だとするなら、理解しやすい。宗教的な問題点をクリアしている点でも、公共性という意味でもいいネーミングですね」
「キミってヤツは、ホントに凄いね」
「じゃあ、《通路》は、そこと現実を繋ぐ穴ってことですか?」
うん、とイズマは頷いた。
「じゃあ、もしかして《ブルームタイド》という現象は、現実が〈ガーデン〉に繋がって流入した《虚構》に《現実》が押しのけられて起こる津波みたいなもの?」
アシュレ、キミは天才だ! イズマは手放しに褒めた。
「そう、認知情報災害(コグニティブ・インフォメーション・ハザード)だよ!」
無制限に《そうする》力がぶちまけられる、と考えてくれ。だれもかれもが制御されていない《そうする》力の被害者になって、情報を上書きされちゃうんだ。
「一帯が《閉鎖回廊》化し、全員がオーバーロード化する、ってこと?」
「オーバーロードほど力ある存在になることはまずない。あれには《意志》の介在が絶対に必要だから……でも、ありていに言って、アシュレの認識は間違いない」
「そんな、いったいだれが、そんなことを。世界をそんな風に書き換えて、どんな得があるって言うんです?」
アシュレの予想されたリアクションに、イズマの顔が苦渋に歪んだ。胃の腑を搾るようにしてイズマは答えた。
「だれも……そうしようと思った者は、だれもいないだろう。得をするとか、得をした、と思う者も。だれも。地獄の魔王でさえ、考えつきもしないだろうし、考えついたとしても行おうとも思わないだろう。仮にそんな者がいたとしてだが、得るものなどなにもないのだから……」
「自然災害じゃないんですよね?」
「そう。そうだ」
その名、〈ガーデン〉が指し示すように、それは人造の理想郷が引き起こすことだ。
「ただ、たしかにそれはあって、その境界線のむこうで、こちらへの通路が開くのをじっと待っているやつらがいるってことさ」
そこまで話すと、イズマは左右を見渡した。食堂の込み具合が気になるようだ。
「ごめん、これ以上はここでは話せない。どこか、密室でなければならない。それに、機会を改めよう。アシュレ、この話はハードすぎる。心の強さがなければ、聞いちゃだめだ。そして心は身体と密接な関係がある。いまは身体を治すことだよ」
言いながら立ち上がるイズマの手をアシュレは取った。
ひとつだけ、と聞かせてください、と。なんだい、とイズマは答えた。
「それは以前、話してくれた『忘れぬ姿見』と関連がありますか? ボクたちがその前から立ち去ったあとでも、その姿を留め、演じ続けるそれ、と」
そのとき、イズマの顔に浮かんだ表情をアシュレは一生忘れない。
そうだ、とイズマは言った。ボクのほんとうの敵だ、と言った。
「《御方》、とそいつらは呼ばれている」
「《御方》」
オウム返しに呟くとき、アシュレの身体が悪寒に震えた。