「アシュレッ、アシュレッ!」
危ない、と思った時には遅かった。一瞬の睡魔がアシュレの意識を刈り取った。
落馬寸前までいった。従者に救われた。連日連夜、不眠不休の強行軍についに肉体が屈した。
「やっぱり、すこしは休まないとダメッ。全隊行軍停止!」
ユーニスの命令を追認するカタチでアシュレは手を挙げた。
指揮系統の混乱を防ぐためだ。
ユニスフラウ・パダナウはふたりいるアシュレの幼なじみのうち「おてんば」の方だった。
もうひとりはレダマリア。枢機卿だ。女のなかに男がひとり、と昔はやっかまれたものだ。
ふたりとも昔からかなりの美人であることだけは共通していたが、タイプが違った。
親分肌で口より先に手が出る。考えるより先に行動する……それがユーニスのメンタリティだった。
おまけにおせっかい焼きときた。
街道をすこし逸れると、どこでも草原が広がっているのがこの地方の特徴だ。
昔は深い原生林だったと歴史の教科書は教えるが、先史文明――アガンティリス王朝――が版図を広げる過程で切り開かれた。今は荒野と紙一重の草原が広がるばかりだ。
いつの世も文明の隆盛と環境破壊はワンセットというわけだ。
隊に食事と休憩を命じると、ユーニスに引きずられるようにして遺跡に足を踏み入れた。
朽ち果て、荒れ果てた遺跡群は草原と同じように、この地方のありふれた景観だった。
「胸甲脱いで。ほら、手伝ってあげるから。はやく。そう、後向いて。鎧を留めてる革バンドが見えないでしょ。こら、さっさと腕を上げる」
まるで小さな母親(ピッコラ・マンマ)だ。
あまり気乗りはしなかったが醜態を見せたこちらが悪かった。
弱みのつけ込み方では昔から勝った試しがアシュレにはなかった。
「ふたりっきりは、まずくないかな。勘違いされないかな」
「勘違いってなにを」
ふたりの関係を、と言いかけてアシュレは赤面した。
バラージェ家と寄り添うようにして時代の荒波を乗り切ってきたパダナウ家の娘・ユーニスとは、アシュレはただならぬ因縁があった。
ユーニスの祖父であるバートンは長らくバラージェ家の執事(バトラー)を務めてきた男であり、同時に腕利きの密偵として父の懐刀でもあった。アシュレも頼りにしてきた男で、今回の探索行への同行をアシュレは期待していた。
だがバートンは老齢を理由にユーニスを推挙した。槍の腕、操馬の技術、こまやかな気づかい、教養と、どれをとってもたしかにユーニスは優れていた。
ただ、アシュレが気後れした理由は別にあった。
ユーニスはアシュレのはじめての女(ひと)だった。
どんなに末端であっても貴族の男が成人する十五を前に女を知らないということはない。
それは彼らが遊びで女を抱くからというわけではない。
この時代、貴族の婚姻、男女の営みは政治に直結していた。
そして、性行為にある程度通じていなければ子孫を残していけないからだ。
王族など初夜の夫婦の部屋に両親が同席し、無事にことが遂行されたかどうかを見守るのだ。
冗談ではなく、まじめな話だ。貴族階級では男親が宮廷夫人(コルテジャーナ)と呼ばれる高級娼婦を息子の筆下ろし役にあてがうのは、それほど珍しいことではなかった。
だから、バラージェ家の歴史だけは長いが小さな所領のなかで、湖畔に立つコテージ――菖蒲(イリス)の家――に出向くよう父から命じられた時も、アシュレは通過儀礼だと思い素直に従った。
そのコテージはバラージェ家が、主にそういう教育に使ってきた施設だったからだ。
そして、そこで待っていた女性に心臓が潰れるほど驚かされることになる。
陽が落ち、暖炉の灯だけが照らし出す世界に彼女はいた。
亜麻色の髪とはしばみ色の瞳がアシュレを見つめていた。狼狽するアシュレをベッドに導くと部屋の鍵をかけた。それから愛を告白された。幼少からの。
受け取れない、と拒むことがアシュレにはできなかった。
ユーニスの悲壮な決意がわかったからだ。
貴族であるバラージェ家と使用人の家であるパダナウ家では、主人と使用人の間柄にはなれても結婚はできない。慣例が許さなかった。双方が家を捨てるなら話は別だが、そうするにはふたりとも互いが互いの家族を愛しすぎていた。
こうするほか、たとえ肉体だけの関係であったとしてもふたりが結ばれる方法がなかった。
そして、当然というべきだろうか、ふたりの関係は一夜では終わらなかった。
肉体を重ねてみてアシュレはようやく自身の想いに気がついた。彼もまた愛していたのだ。
そのことを告白すると、ユーニスは泣いた。
ふたりは約束した。この関係は決してこの菖蒲の家の外には持ち出さない、と。会いたい時は菖蒲の印が入った書簡に時刻だけを書き記して、あの家で待つ、と。
「またぼーっとしてる。アシュレ、すこし眠りなさい」
甘く切ない回想を、おせっかいが遮った。菖蒲の家でのユーニスとは、別人だった。
「おいでアシュレ、ハウスッ」
さっさと脚甲を脱ぎ素足になったユーニスが、ブランケットを敷きアシュレを手招きした。
いつからキミの膝枕がボクのハウスになったのか。
飼い犬を呼ぶような気安さでアシュレを手招きするユーニスに、しかし、アシュレは勝てないのだ。命じられるまま頭を膝に預けると干し草の匂いがユーニスからはした。
導かれるようにアシュレは眠りに落ちていった。
※
夢を見ていた。恐ろしい夢だ。
「なぜ、そんなところで這いつくばっている」
頭上から声がした。
父のものだ、とアシュレは思った。
硫黄の匂いと耐え難い熱が身体を預ける岩肌から伝わってきた。
夢だとわかっているのに、醒めぬ恐怖に肌が粟立った。
「愛する女(ひと)が死に瀕しているその時に、オマエは寝ているつもりか」
峻厳な、しかし、冷酷とは違う言葉にアシュレは重い瞼を意志の力で押し上げた。
陽炎と煤煙の向こうにその女はいた。裸身で手枷を打たれ吊り下げられて。
そのおとがいを、骨にヒトの皮を張りつけた化物の手がなぞっていた。
夢だとしても許せなかった。
自分でもぞっとするような声がアシュレのなかから轟き出た。
そのヒトに触れるな、という。
だが、その雄々しさとは逆にアシュレの肉体はぴくりとも動かなかった。
「教えたはずだ。ここ《閉鎖回廊(バードケイジ)》は敵の所領、封土(ドメイン)そのものだと。力なきものは《閉鎖回廊》の王の許可(パーミッション)なくしては逸脱さえ許されない」
男の言葉を証明するように、いくら力を込めようとも指一本、動かせなかった。
だしぬけに岩を踏む音がして、獣の脚がアシュレの視界に現れた。
馬の蹄ではなかった。柔らかそうな三本の指。ままならぬ身体のなかで、唯一動かせる眼球を限界まで動かして見上げれば、金色に輝く羊毛の向こうに黒衣の男が見えた。
父ではなかった。だがそれは同じかそれ以上の威厳と深い叡知を感じさせる声だった。
「どうすればいい」
ユーニスに危機が迫っていた。すがるように声が出た。あのヒトを助けられるものなら、ボクはボクの《魂》を差し出してもいい。
アシュレのその嘆願を、しかし、男は一蹴した。
「ねだるな……、小僧」
がつり、と獣の脚に蹴り飛ばされ仰向きになった。それで男の姿があらわになった。
頭頂に冠を戴いていた。宝飾品などない黄金のそれを、まるで気負う様子もなくその男は被っていた。王としての重責を空気のように軽々と受け止めて、なお男の瞳は前を見ていた。
「ヒトに《魂》などない。この世界のすべてのものにさえ、だ。オマエのような小僧になど言わずもがなだ。――ただ、《魂》に近づくことはできる」
まず、《スピンドル》を想え――と男は言った。
「それは螺旋であり変化の力。《意志》あるものだけに訪れる《閉鎖回廊》を打ち破る力の名前。小僧、貴様もそうだろう?」
朗々たる声がアシュレの耳朶を打った。
「いつまでそうしているつもりか。――立ちなさい」
厳しいが穏やかな声がアシュレを促した。アシュレは立ち上がった。
身体が動いた。近くで不可視の力が回転しているのがわかった。《スピンドル》。アシュレはその力を感じる。少なくとも六つ、手を伸ばせば触れられる場所にそれは起こっていた。
無言で眼前に神槍・〈シヴニール〉が差し出された。
アシュレはようやく男の面顔をまじまじと見ることができた。
美しいがヒトとは異なる種族であると知れた。
長い耳と透き通った白い肌。長く伸びた手足。
火のように紅い瞳に強い《意志》の力が炯々と燃えていた。
王の顔であった。
そして、アシュレは六つの《スピンドル》に軽々とトルクを与えた力量に敬服した。
「もしオマエがアガンティリスの始皇帝・フラムさえたどり着きえなかった“《魂》紡ぐ者(ソウル・スピナ)”の道を選び取るというのなら、ゆめゆめ忘れぬことだ。――オマエに敵対するものは、必ずその全てが王か、世界の規矩、そのものであろうから」
その男――異貌の王は予言するように言った。
アシュレは、その言葉の意味を噛みしめる間もなく〈シヴニール〉を手に取った。
あのヒトを助ける。その決意以外など、すでに頭の中から消し飛んでいた。
ここで夢は、場面を変える。
いずれ相対することになるであろう敵の姿をアシュレは十二歳の誕生日に父より教えられた。
一月も続く高熱で伏せるアシュレを父が訪った。
それまでかいがいしく世話をしてくれていた母とレダマリアとユニスフラウが部屋を辞した。
流行り病で死にかけた時でさえ公務を理由に顔も出さなかった父がなぜ、いまさら自分を訪うのかアシュレにはわからなかった。
いや、と胸のどこかで予感めいたものに触れた。
自分は死ぬのではないか、と。
だからこそ、父はアシュレを見返る気になったのではないかと。
疑問が言葉になった。
「父上、ボクは死ぬのですか」
少年だったアシュレの問いに、父は驚くべき解答を返した。
「いいや、オマエは生まれ変わるのだ」と。
すなわち《スピンドル》能力者として。
なにを言われたのか、アシュレには一瞬わからなかった。だが、父は続けた。
「この世界には境界がある。ひとつは光と風に満たされた――母さんやレダマリアやユーニスのいる世界。そして、もうひとつ。永劫の黄昏を歩むがごとき非公式の世界。オマエはいまそのふたつを隔てる暗渠――地下を流れる暗い河――を渡ろうとしているのだ」
わかるか、と父は言った。わかりません、とアシュレは答えた。
「オレの側に、オマエは来ようとしている、と言っているのだ」
朦朧とした意識のなかでアシュレは父の顔を見た。そこにいたのは父ではなかった。永劫の黄昏と戦い続けてきたひとりの騎士の顔がそこにはあった。
「オマエにはこちら側に来てほしくなかった。オレのようには、なってほしくなかった」
運命を呪うような悲痛な響きが父の声にはあった。
だが、そのひとことがアシュレの胸になにかを灯した。
愛されていたのだという確信が、言葉ではなく心で理解できた。たったそれだけのことで、涙があふれてきた。滂沱と流れ落ちるそれを止める術がアシュレにはなかった。
頭蓋を占拠し、肺のなかでごうごうと渦を巻いていた熱が、行き先を知ったかのように流れはじめたのがわかった。
そして、不可視ではあるが確かな力が胸の上に回転しながら生じたことが感じられた。
「《スピンドル》」
父がその力の名を教えてくれた。
「それは世界の規矩に根を張る敵と相対するための力。変えられぬものを変えるため、ヒトの《意志》が呼び起こす奇跡の断片だ」
渡り切ってしまったか、と父は言った。祝うべきか嘆くべきか決めかねた声だった。
「来るべきではなかったと必ずや後悔することになるだろう。我らの敵は世界の規矩に寄生し、自身の領土を持つ怪物どもだ。奴らは不遜にも、その領土の中では王として振る舞う。奴らの領土において《スピンドル》能力者でない人々は奴らの描く物語の虜囚だ。オマエがこれから赴くのはそういう場所だ」
だが、来てしまったからには後戻りはできない。静かに、しかし、厳かに父は言った。
「今日より、オマエは《スピンドル》能力者となったのだ。陽の光の下にいながら暗渠を歩む者となったのだ」
ならば全てを教えよう。知識を、技術を、あらゆる術を。
ただひとつ、心だけはオマエが決めるのだ。父は言った。
それがアシュレの幼年期の終りだった。
※
夢を見ていたのだ、と気がつくまでにしばらくかかった。
自分を覗き込むユーニスがあの壊れてしまいそうな少女の顔だったせいもある。
「うなされていたかい?」
「なんどもわたしの名前を呼んでくれたわ」
衝動的な愛情にアシュレはユーニスを抱きしめていた。理性が押しとどめる暇さえなかった。そこにいるという実感が欲しかった。
「キミを失うかもしれない夢を見た」
「恐かったの?」
「なくしたくない、って心の芯でわかった」
「失せ物じゃないんだから、ちゃんと自分で戻ってくるわ」
軽口を叩く、その語尾が涙で震えていた。
それから無理やり腕を引き剥がされた。なぜ、とアシュレは思った。
すぐにその理由を思い知った。
「お取り込み中……でしたか」
部下の騎士が遺跡のわきから顔だけを覗かせていた。
ソラスと呼んでください。
三十半ばだろうヒゲ面の騎士は、裏表のない表情でそう名乗った。
ソラスナラス・ビドー。《スピンドル》能力者ではないため聖騎士ではないが、純粋な戦闘技能においてはアシュレなど足下にも及ばぬ腕前の持ち主で、イクス聖堂騎士団の精鋭だった。公正、柔和な性格で年齢、性別、官位の分け隔てなく人と接することのできる希有な人材だった。
今回の探索行の副官――実質的なリーダーだ。
「いやあ、さきほどは失礼いたしました。集合時間を過ぎておりましたもので」
やんわりとだが、諌言すべきところは諌言する、そしてそれを相手を見て使い分けることができる柔軟さをソラスは備える男だった。
「面目ない。とんだところをばかりお見せして」
「聖騎士叙任後・初任務とはそういうものです。それに大切なヒトと共有した時間は、ヒトを強くする。最後は大切なものへの執念がものを言う場所ですよ。戦場というのは」
大切なヒトと揶揄されてはユーニスでさえ赤面するしかない。圧倒的な人生経験の差を前に、毒舌家であるユーニスが手も足もでなかった。
「大切にしすぎるのもどうでしょうか、騎士:ソラス?」
今回の結団式の直前、某貴族の未亡人の屋敷の窓からヒゲ面の男が逃げるように出てくるのをうちの使用人が見たそうですけど。
並走していた女騎士・ミレイが会話に入ってきた。見事な突きを思わせる話題の振り方だった。場が一気に和む。
ソラスがたじたじとなるさまにアシュレは困惑顔になり、ユーニスは吹き出した。
「いや、あれは貴君の姉上が、あまりにお寂しそうだったものでな」
「幼少のみぎり貴方からいただいた恋文、わたくしまだ持ってましてよ?」
「また夫婦げんかですか」
おどけた口調でパレットが混ぜっ返し、和やかな雰囲気に拍車がかかる。
騎士に叙任されたばかりの若手だが、頭の回転と飲み込みの早さで今回のパーティーの知恵袋を務める男だ。
アシュレは年上である彼らの気づかいに深く感謝した。
永劫の黄昏を歩む道だと父はアシュレに言った。
だが、神はなんと恵み多き道連れを与えてくださったのか。
アシュレは彼らの協力を想い、自らの責務への決意を新たにした。
さて、第三夜を迎えました「燦然のソウルスピナ」 いかがでしたか?
従者:ユーニスに引き続き聖堂騎士団の面々が登場します。
場面には出てきませんが、それぞれが3名ほどの従者を引き連れています。
ですので、この一行は15名以上の小戦隊ということになります。
スピンドル能力者がアシュレひとりなのは、人口百万超のイクス教の中心地・エクストラム
においてさえ、聖騎士はわずか20名程度(スピンドル能力者=スピナーのなかでも精鋭)。
おいそれと消耗してよい人材ではないのです。
人界の戦闘では結局、ただの人間が主役である、というわけです。
現実の史実でも、中世イタリア(そのころはこんな呼び方はなかった)半島での国同士の
争いは、十数名から数十名で行うことがほとんどで、数百騎とくれば国を賭けた大戦争、
だからアルプスを越えてやってきたフランス軍2万とか見て「この世の終わり」とか
言い出しちゃう聖職者とかいたんだそうです。(まあ実際、半島の危機でしたが)
「あら、いらないうんちくだわ」—— はて、どこかで空耳が? まほそさん?
では、第四夜で待っております。
(2013/09/29:ユーニスの画像を一部修正しました)